第27話 事件はそもそも起きてない
その日、御年六十四となるユーゼリア国王エルクレイドは王宮内の庭園にて一時の休息をとっていた。
彼がくつろぐ石作りの立派な東屋の周囲には、近辺警護の騎士たち、それから給仕のためのメイドたちが物思いにふける王の邪魔にならぬようにと、物音一つ立てず静かに控えている。
エルクレイド王は用意された茶と菓子を視界に映しながら、ぼんやりとアロンダール大森林における異変について考えていた。
被害こそまだ出ていない。
が、だからと看過してよい問題ではない。
しかしながら、本格的に対策をとるとなると、まずはユーゼリア騎士団による大規模な調査を行う必要がある。
アロンダール大森林を――あの魔境を調査する。しなければならない。言うのは容易い。だが実際に行うとなると……。
「はあ……」
思わずため息がこぼれる。
エルクレイド王は思った。
大森林の異変、この問題を無事解決に導けたら、もういいかげん王位を退こう。
なにしろ歳だ。
近頃ひしひしと老いを感じる。
「(下の方も近くなったしなぁ……)」
などと胸中でつぶやいた、その時――。
ふわり、と。
庭園に竜が舞い降りた。
エルクレイド王のいる東屋など、その尾のひと薙ぎで倒壊させられそうな大きさの黒竜――いや、日の光に照らされた竜鱗が深い紫であることを踏まえるなら、正しくは黒紫竜とでも言うべきか。
「は?」
これが遠くから飛んでくるのであれば、少しの心構えもできた。しかし竜は虚空から浮き上がるように忽然と現れ、わずかな物音すらさせず東屋の前に下り立ったのである。
この突然の事態に、エルクレイド王は状況を理解しきれず、ただ間の抜けた声をあげることしかできなかった。
また、この竜の出現には、メイドたちばかりか、警護の護衛たちも動くことができなかった。
静寂のなか、竜はゆっくりとエルクレイド王に顔を向ける。
そして宝石ごとき紫苑の双眸と目が合ったとき、やっとエルクレイド王の認識が追いついた。
瞬間――
「(あ――あっ、あぁぁ……)」
エルクレイド王の膀胱は静かに決壊。
それは人に備わる恒常性。竜を目の前にした恐怖を、放尿という快感で中和しようとした……のかもしれない。
その頃になると、固まっていた騎士たちも己が役目を思い出したようで戦闘態勢をとるために動き出す。
が――
「やめよ!」
放尿のおかげか、すみやかに冷静さを取り戻していたエルクレイド王は騎士たちを制止させる。
その面持ち、さながら賢者の相であった。
「戦ってどうにかなる相手ではない。そもそも、危害を加えるつもりであったなら、もう我々は生きていないだろう」
厳かに告げ、エルクレイド王は騎士たちを下がらせる。
座して竜を迎えるエルクレイド王。
その姿、下がった騎士やメイドたちからは、竜を前にしても余裕があるように見え、密かに評価が上がったとかなんとか。
ところが実際は――
「(こ、腰が抜けてしもうた……)」
ただ立ち上がれないだけであった。
ここは全力で下手にでるためにも、東屋を飛び出してその足元に馳せ参じたいところなのだが……立てない。
これはもう下がらせた騎士に頼むしかないか。
そうエルクレイド王が考え始めたところで竜は口を開いた。
「我が名はシルヴェール。アロンダールの山に住む竜である」
「アロンダールの……!」
アロンダール山脈に住む竜。
それはユーゼリア王国からすれば守護竜のような存在であった。
アロンダール山脈に住む竜たちは、ゴブリンやオークなどに代表される人魔がアロンダール大森林に蔓延らぬよう目を光らせている。
人魔は群れ、数を増やすやっかいな魔物。
もし大森林に住みついたとなれば、その特殊な環境の中で外に住むものどもよりも強くなり、やがては森から溢れ出てくることになる。
「まずは驚かせたことを謝罪しよう。すまない。……だが、なにも戯れで忍び現れたわけではないのだ。これには訳があってな」
「は、はあ、訳が……」
「うむ。実は内密に頼みたいことがある」
「頼み……?」
「そうだ。二年ほど前のことだが、森に一人の人間が住みついた」
「んな!?」
エルクレイド王は愕然とする。
アロンダール山脈の竜は森に人が住みつくことを快く思わない。
「つ、つまりその者を、処罰せよ……と?」
「いや、そうではない。そもそも、その人間は我が友だ」
「友ぉ……!?」
竜と人が友誼を結ぶ。
物語でならばよくあることだが、実際はとなると希有である。
「昨日、ひさしぶりにその友を訪ねた。だが訪れてみると、友の住処は無残に破壊され、跡形もなくなっていたのだ」
「なんと!? では……魔獣に?」
「いや、魔獣の仕業ではない。おそらくは魔法。何者かの襲撃を受けたようだ。戦闘の形跡がないことから、友はすぐに退いたのか。さぞ無念であったことだろうな。あれほど完成を喜んでいた住処を、あのように破壊されたのは……」
沈痛な面持ち――かどうかは、その竜の顔からは窺い知ることができないものの、友の住処が破壊されたことを、シルヴェールが自分のことのように悲しんでいることはその声音から判断できた。
「まあ、友は強い。おそらくは無事で、今は森のどこかに身を隠しているはずだ。いくら勧めても頑なに森を出ようとしなかった頑固者だからな。まあそちらはよい。いずれ見つかる。住処もまた、より立派なものを建て直すことだろう。だが――」
と、シルヴェールは強い意志を込めて告げる。
「友の住処を破壊した者を、そのままにはしておけぬ。友が苦労を重ね、ようやく作り上げたあの家を跡形も無く消し去った者に、報いを受けさせねばならぬ」
その巨躯から滲み出すような怒りにあてられ、メイドたちはぱたぱたと倒れ、騎士たちは恐怖に震えるしかなかった。
エルクレイド王に至ってはそろそろウンコを漏らしそうだ。
「頼みというのは、お前たちにその不届き者を捜し出してもらいたいのだ。友の住処を目指すように森が破壊されてできていた道、その方角を辿ると、その先にはこの国の砦があった。つい最近、騎士たちが活動していたようだが……」
「そ、それは、我が国の騎士たちが犯人であると……?」
「いや、騎士たちがやったとは思っていない。その程度の者たちであれば、襲撃を受けようと蹴散らして終わりだろう」
「で、では……?」
「騎士たちに確認をとってもらいたい。活動中、怪しい者を見かけなかったかどうか。そしてもし心当たりがある場合は、その調査を行い見つけだしてもらいたい」
「あ、ああ、なるほど……」
「本当であれば我が自身で捜し出したいところだが、やはり向き不向きというものがある。どうだろう、頼まれてはくれないか?」




