妖精と天使
ゆっくりと目を開けるとやはり病室の天井だった。
不思議なものだ、あれだけ一日中動いていたのにこちらに戻ってきたらまったく疲れを感じていない。むしろ身体を動かして無さ過ぎてむずむずしている。
薄いシーツに包まれて身体はさらに自由を失っている。
薄いカーテンから朝日が差し込み始めると静かな病院も少しづつ動き出す感覚が伝わってくる。
廊下を歩く看護師の足音に、遠くの方から聞こえてくる話し声。
一人部屋に入院中の僕は身体を動かせないのもあって暇を持て余している。
手近にある本を手に取り読み始める。父さんが持ってきた小説だろう。タイトルは”ライ麦畑に捉まって”…どうだろうか、父さんには僕は鬱屈として見えたのだろうか、よし、スルーしよう。
本を読むのも違うと思い、カーテンの隙間から窓の外を眺める。
遠くに山々が並び薄い雲が流れている。ベッドの上から眺めると病院の近くはまるで見えずに、山と空しか映らない。
病院の近くで何が起きているか分からないし、住んでいる街がどのように見えるのかも分からない。
ただ流れる雲を追いかけて、カーテンの隙間から見える狭い空をじっと見つめていた。
「佐倉さーん。あー起きてましたか、熱と血圧だけ図っちゃいますね。」
少しぽっちゃりした綺麗な看護師さんが病室に入ってきて簡単な検診を行う。
看護服を着ているがどちらかというと保育士さんにいそうな感じの人だ。とても愛想が良く、それでいて雰囲気を作った感じのしない人だ。
とても若く、同い年位に見える。
「調子が悪いとか、どこかひどく痛む所とかないですか?」
「はぃ。大丈夫です。」
僕のコミュニケーション能力の低さが言葉に滲みでる。
「そんな堅苦しくしないでくださいよ。何かあったらナースコールで呼んでくださいね。それじゃ食事の時間にまた来ますね。」
テキパキと検診をすませた看護師さんはそう言って僕の病室を後に次の患者さんのもとへ向かった。
白衣の天使って割と実在するもんだな。
「また一人か。」
病室は本当に何もすることがないな。クロエが居たらおしゃべりも出来るのにな。そういえばさっきの看護師さん、目元とかがクロエみたいだったような気がするな。まぁ気のせいだろうけど。
よし、向こうで起きたことを纏めておこう。
レヴェラミラに戻った後、シャドウと戦った。シャドウは敵だったけど協力してくれていた。今も僕の影として付き添ってくれている。もしまた会うことが出来たらちゃんとお礼をしないとな。色々気になる事を言っていたからそれも確かめられたら良いんだけど。
始まりの塔を出て身分証をつくった。うん、ここまでは問題ないな。その道中、イニティに向かうまでにレモバの葉っていうのを集めたな、あれはきっとレモンバームだと思うんだけど。うちの庭で育ててたし、なんども水やりをしてたから。
でもきっとこっちの世界のものとレヴェラミラのものでは違うんだろう。何かこう、うまく説明出来ないけど、たくさん摘み取っていたら回復薬になるんだってなんとなく伝わってきたし。
それでレモバの葉をエドガーさんに買い取ってもらった。本当にエドガーさんに会えてよかった。なんかエドガーさんのお祖父さんが他の迷子の面倒を見たって言ってたな。もう少し聞いてみよう。そしてエドガーさんの手配で宿を借りて戻ってきたと。
うん、恐ろしいくらい順調だ。どうしよう。不安だ。
街で変なヤツに襲われたなんてイベントも起きなかったし、野宿なんてのも無かった。お金もそこそこ持っているし、後は本来の目的の母さんについてだ。
レヴェラミラのどこにいるのかも分からない。でも探すしかない。イニティから離れて別の街に行くにも戦闘能力がなりなくて街からも出れない。とりあえず、街から出れるように訓練をしなければ。どうしても時間の掛かることだけど必要な事だ。一朝一夕に強くなるなんてことは起きないんだ。
こっちでも剣術について調べてみて、応用できるようだったらやってみよう。
「佐倉さーん、ご飯ですよ。テーブル出しますね。」
検診に来たお姉さんだ。やっぱりクロエに似ている。
「え?!」
「え?どうかしましたか」
「いや、ちょっと変った苗字だなぁと思って。」
「あぁ、そうですよね。黒江なんてあんまり聞いたことないですよね。」
「でも素敵な苗字ですね。」
「もー、年上をそんなに揶揄うもんじゃないですよ。」
「え?そんなに年上なんですか?同い年くらいなんじゃないんですか?」
「もうふざけないの、学生で看護師なんて出来ないでしょ?ほらテーブルできましたし、ごはんここに置いておきますね。」
テーブルを設置するときに黒江さんは前かがみになり、ふくよかな膨らみが重力に従い、僕の足を幸せが包み込んだ。
「あ、ありがとうございます。」
何にだよ!自分にツッコミを入れながらドギマギしている心臓を落ち着かせる。
目元もたれ目な感じがやっぱり似ている。
今どきの病院食は割と美味しかった。なんとなく味気ないイメージだったけど、味付けもしっかりしていて美味しく感じた。
朝食を食べ終えて、食器を下げに来た看護師さんは黒江さんでは無かった。さっきは、やり過ぎてしまっただろうか。
そんなくだらない事を考えながらもう一度この世界でする事とレヴェラミラでする事をまとめておく。
現実世界では、《記憶の変化の観測》《レヴェラミラで使える知識の習得》《記憶の喪失が起きた際の行動手順》《父さんとの継続した連絡方法》
レヴェラミラでは、《生活基盤の確立》《母さんの捜索方法》《捜索の為の準備》
こんな所だろうか。
それぞれの項目について検討しながらも思いついたことをとりあえずメモ帳に書き留めていく。
そんな事をしていたら昼食の時間になり、次に気が付くとすでに夕方になっていた。
窓から差し込む夕陽が病室の隅にオレンジ色の区画を作り出す。
ベッドに横になっていると妹が入ってきた。
「よう!兄ちゃん、元気か?」
「病院なんだから少しは声のボリュームを考えろよ。」
「いいだろ、別に。兄ちゃん以外いないじゃんか。」
妹のナツミは現在中学2年、僕とは3つ違いだ。多感な年頃のはずだが、なぜか僕には懐いている。
「ノート?何を書いてたんだ?」
「ちょ、やめっ。」
「《ミデナ・ベリト・炎よ放て》ち、ちょ、ちょっとお兄ちゃんナニコレ、カッコよすぎるんですけど?」
「え?!」
「どのアニメ?原作は漫画?小説?なんていうタイトル?」
妹の中身が残念な事になっている事に、初めて気づいてしまった。
妹は小学校から剣道をしていて、さばさばした性格で男勝りなところがあった。が、こんなアニオタになっているとは思わなかった。しかし、なんで呪文を見てアニメに繋がったんだろうか?
「昨日少し説明しただろ。夢か幻かしらないけど、異世界みたいな場所で村人になったって」
「あーあれ、アニメの話じゃなかったの?勘違いしてたわ。ごめん。兄ちゃん本当に異世界転移しちゃったんだ。」
「理解早いな、てか転移してないから、戻ってきてるから。むしろ行ってないから。」
「えー。なに?行ってるの?行ってないの?どっち?」
「行ってるか行ってないかどっちなのかは分からん。けどな?」
詠唱なしで何とかマナを魔法陣に流し込む。クロエにこっちの世界で魔力器官を鍛えるように教えてもらった練習法だ。
「ナニコレナニコレ?!兄ちゃん!まじ凄いじゃん!!」
掌を中心に魔法陣が描かれる。回復魔法の魔法陣、これが発動出来るようになったらケガも治るんだろうけど。まだまだそのレベルに達していない。
「こんな感じのことが出来るようになった。」
「凄い凄い!兄ちゃんこの能力で異世界ハーレム作っちゃうんだね!!」
いーないーなと騒がしい妹が黒江さんを呼び寄せた。
「佐倉さん。面会時間でもうるさいと他の患者さんの迷惑になりますので気を付けてくださいね。」
「すみません。妹なんですけど、後で僕が注意しておきます。」
しっかりしてくださいよ。と言いたげな優しい表情で病室を出ていった。
「な何なになになに!!!!なに?!」
「五月蠅い!何なんだよ。」
「なにあのアニメに出てきそうな看護婦さん?!」
「静かにしろよ、怒られたばっかりだろうが。」
「え!全然ウェルカムなんですけど!むしろ仲良くなりたいんですけど!」
「お前!いい加減に…」
大声を挙げた瞬間病室のドアが空き黒江さんが頬っぺたを可愛く膨らませてこちらを伺っている。
「か、かわいい……お姉さん!お姉さん!!」
確かに黒江さんは可愛いけど…お前のそのノリ、生きていくの大変だぞ。
黒江さんに向かって突進していったナツミをよそに、ナツミを躱して父さんが入ってきた。
「おいハルカ。あれはなんだ?」
「さぁ、僕にも分からないよ。ナツミってあんなんだっけ?」
父さんが来たので、日中まとめておいた資料を基に今後のスケジュールを相談していく。
向こうの世界での生活基盤を整える件から始まり、こちらでの記憶が失われていく速度や原因の究明など、父さんも、僕の話を妄想の世界とは考えずにしっかりと聞いてくれている。
「なぁ、ハルカ。その世界も地球とおなじような規模なのだろうか?」
「どうなんだろう。まだ地図とか見せてもらってなくて。そういうのがあるかどうか聞いてみるよ。今いるイニティっていう街はかなり大きい街で、多分丸の内線の内側くらいの規模があるんじゃないかな。日中ずっと歩いても回り切れるかどうかの微妙な所じゃないかな。」
「そうか、やはり人探しは難しそうだな。」
父さんは悲しそうな顔をして俯いてしまった。
「大丈夫だよ、きっと母さんならすぐに僕に気づいてくれるよ。なるべく向こうで目立つ存在になって、お金も貯めて、組織的に人探しが出来るように僕も頑張るからさ。」
「そうだな、ハルカが頑張っているのに俺がしっかりしないでどうするんだって話だな。」
「父さん、そういうのは子供の前では言わないほうがいいんじゃない?」
「ま、気にするな。」
ポンと僕の肩を叩いた父さんはナツミを探しに病室を出ていった。
「ハルカが居てくれて本当に良かった。」
病室を出る時に父さんは何か言ったようだったが、遠くではしゃぐナツミの声にかき消られて僕には聞こえなかった。
ナツミは黒江さんに腕を絡ませ病室に戻ってきた、
「”黒江なつめ”さんでーす。お兄ちゃん!黒江さんめちゃくちゃ可愛いよね?!アニメキャラのコスとか絶対似合うもん!なつめさん?今度ちょっと一緒に出かけませんか?」
二人の後ろから父さんが戻ってきた。
「ナツミやめなさい、仕事中の看護師の方の邪魔はしたらダメだ。素敵な看護師の方は患者さんみんなのものだ。」
「いやいやいや、二人とも黒江さん凄い困った顔してるから、黒江さんは可愛いけど、みんなのものじゃなくて、黒江さん本人のものでしょ?」
「ハルカ、お前はそんなにつまらない男に育ってしまったのか。父さんがあまり相手をしてやれなかったせいだな。すまないハルカ。」
「イヤ、何泣いたふりしてんの?キャラブレてるよ?もう面会時間終わるし帰りなよ。」
「お兄ちゃん!そうやって黒江さんを独り占めする気だな?そうは行かないぞ。黒江さん!後で連絡くださいね。お兄ちゃん!黒江さんの連絡先独り占めしたらタダじゃおかないんだからね!」
「父親として息子の交遊関係は把握しておかないといけない。という事で父さんにも黒江さんの連絡先を…」
「いいから帰れよ!」
父さんはそんな風に育てた覚えはないとかなんとか言ってまだふざけているしナツミは黒江さんにべったりだ。
黒江さんは苦笑いをしながら二人をつれて病室を出て行った。
その後は夕食にも検診にも黒江さんは来なかった。何を期待しているのか、ナツミの病気が伝染したのだろうか。
消灯時間になったので、魔力器官を鍛えるべく、妖精クロエに教えてもらった鍛錬に励む。
空いた時間に、少しずつ鍛錬したがやはり昼間は人の目が気になってしっかり練習出来なかった。
昨日よりは長時間魔法陣を描き続ける事が出来た。そして気付けば意識を失っていた。
バッと勢いよく起き上がるとレヴェラミラの宿屋のベットの上だ。
寝る前と変わらない。イヤ、違うことが一つ。
身支度が終わった後に気がついた。
「クロエがいない!?」
いつも騒々しく可愛らしく飛び回る妖精が部屋の中にも宿の中にも居なかった。
「ひとり?」
そう、僕ひとり、宿屋に取り残されていた。