私の好きな言葉ー生の意味、無価値ゆえの価値について
私の好きな言葉は、「人の生命は本来無意味だ。だから、自分の人生に意味が欲しいなら、自分で作るしかない。」というものだ。今は亡き曽祖父が私に直接伝えた言葉なので、出典を明らかにすることができない。この点については、どうか容赦していただきたい。その上で、まずは彼の言葉の具体的な意味について、私が聞いた範囲で述べていきたい。
私たちの多くは、「自分が生きている意味」というものを欲する。自分の価値、アイデンティティに対する欲求は誰しもが持つものであろう。それゆえ、私たちはしばしばその存在に対して不安を抱く。自分がいる意味なんてあるのか、と。
その問いに対して、彼は、そもそも自分というものは無意味である、と答えた。生きている意味なんてものは、宇宙や世界といった最も普遍的な立場からすれば生者も死者もただの有機物質に過ぎないのだから、所詮人間の錯覚に過ぎない。彼はそう考えていた。
しかし彼の言説はこれだけに留まらない。彼はその上で、人間の幸福について考えていた。
生の意味は、人の錯覚の産物だ。しかし、私たち人間が知覚できるものは全て錯覚によるものでしかない。人間が五感で感じられるものは、その対象事物を脳が感知して得られたイメージ、表象であるからだ。私たちは、まさに錯覚の世界に住んでいると言ってもいい。ならば、その世界の中での幸福とは、錯覚によって得られるものなのではないのか。彼はそう考えた。人間の生は無意味だが、それは当たり前のことなのだから、開き直って自分が最も「信じられる」生の意味や価値を作る。そうすることで、前述のような、自己の価値への苦悩から脱却できるようになるかもしれない。彼は亡くなる数年前、私にそんなことを言ってくれた。
では、そのような、自分にとって信じるに足る生の意味を作るにはどうすればいいのか。私はここで、学ぶということの可能性について具体的に言及したい。
何かを学ぶことによって私たちがまず知ることになるのは、自らの無知や不能である。しかしそれを知ることで、何を知り何を求めるべきかを考えることができる。今自分が求めるべきもの。その果てにこそ、私の曾祖父が言うところの「自分が最も『信じられる』生の意味や価値」がある。
ところで、一口に学ぶと言っても、そのアプローチの仕方は様々である。ではどうすればより鮮明に「生の意味」を見出せるようになるのだろうか。そこで、ここでは数学と哲学の2分野について考えていきたい。
なぜ数学と哲学なのか。その問いに答えるため、まずはその学問としての性質について考察する。
数学はまず、あらゆる自然、社会現象の問題を極限まで形式化する。その上で、形式ゆえの論理的絶対性をもって、その問題の解を形式として提示する。これに対して哲学は、世界の様々な事象の持つ意味を考え、その批評を行い、新たな問題を提示する。もちろん問いを立てる数学もあるし、問いに答える哲学もあるが、あえてその機能を区別すれば、このような考え方ができると思う。そしてこう考えれば、この二者の間の相補的な関係が透けて見える。
数学が絶対的な正当性をもって示した答えを用いて現実の問題の解決にあたってみると、なぜかうまくいかない。それは、数学が解答した問題には含まれなかった潜在的な問題があったためである。数学は間違っていない。認識されていない問いには答えようがないというだけの話である。しかしこの問題の解決のためには、まず問題が問題として明確に認識される必要がある。そこで哲学が必要になる。今対象となっている問題だけでなく、その背景にあるものを、多くの領域を横断しながら考える。そこで得られた何らかの問題を、言葉によって広く社会に知らしめる。このことによって、数学はその問いに答える権利を得ることができる。このような、問いの提示とその解答とを繰り返すことで、人間は自らの知的な支配領域を拡張させてきた。人類の文明は、そのように発展してきたと考えることができる。
これは、文明や社会といった大きな物語だけでなく、個々人の実存といった小さな物語にも通じる話である。人は皆、生きていれば必ず何らかの問題と直面することになる。そこで、可能な限り論理的な解決策を講じてみる。それを実践してみて、結果発生した状況を俯瞰する。そこで新たな問題を見つけ、その解決を企図するとき、その人はかつての自らを超克している。問題の存在にすら気付かなかった主体から、その解決に挑もうとする主体へと成長している。私たちが、私の曽祖父が言ったような幸福を求めるならば、こういった形での主体の成長は不可欠である。私たちのすむ社会が千変万化するものである以上、各々が理想とする価値の形もまた変わり続けるものであり、各々にとっての問題となり続けるものなのであるからだ。
ここで漸く私は、先程の問いに答えることができる。なぜ数学と哲学なのか。それは、そのふたつを利用して生きることが、私たちの成長、そして幸福の追求のために不可欠であるからだ。
従って、私たちは、少なくとも自らの幸福を希求する私は、この2つの分野における充分な教養を涵養せねばならない。そのためには、ただひたすらその分野の研究に勤しむよりも、多様な社会的、学問的経験を積んでみるほうが良いと考えられる。多様な経験は、より多様な問題発見とその解決につながるのだから。
私がこの春、大学進学を希望したのは、大学こそそのような体験をするのに最適な環境だと考えたためである。そして運良く入学することができた。そんな自らの境遇に感謝しつつ、曽祖父の願った幸福を4年間全力で追い求めていく所存である。
ありがとうございました!