第九話 頭の隅
「しおりの答えはわかっていたよ」
ミキオくんとの関係を無理に終わらせることもないなと思った私は、彼にプロポーズを受けますという返事をした。
人気のない画廊を二人でうろうろとしているときの会話だった。
「でもしおりは移り気だからすぐに籍だけでも入れてしまおうか」
ミキオくんはそう言って子どもみたいにえへへと笑った。
そんな彼を見ていると、もう少しその表情を見ていたくなって、思わずこれからも二人で愛を育んでいこうねなどと柄にもないことを言ってしまった。
今日のミキオくんの出で立ちはチェックのシャツに白いベストを着て、少しだけ知的な雰囲気を醸し出している。
彼との結婚の決意を固めたものの、正午に待ち合わせをして入ったレストランでは何となく話を切り出す事ができなかった。
やっぱり言うのを止めようと思ったのだが、その後にぶらりと立ち寄ったこの画廊で、背筋を伸ばして歩くミキオくんの後ろを歩いていると、何のためらいもなく求婚を受けることにしたのだと口にすることができた。
帰りの車内でのミキオくんんは、ラジオから流れてくるBGMにすごくのっているのがわかった。
のりのりの彼を横目で見ると、眉間に皺を寄せながらサビの部分を口ずさんでいるところだった。
私は力を落とすと、下車しても頭からこの曲が離れないだろうなと思った。
陽気に歌い続ける彼の隣に座りながら、これで今やっぱりこの話はなかったことにしてなどと言ったならば、さすがに温厚な彼でも立腹するのだろうなと考え、無理矢理結婚式の聖歌隊の姿などを想像してしまった。
家の近くにある書店の店先で降ろしてもらうと、ミキオくんはわざわざ運転席から降りてきて私と向かい合った。
「今夜は興奮して眠れそうにないな」
私の頬に触れる彼の指先からは温もりが感じられた。
「結婚式が待ちきれないね」
そう言いながらもその指先から私の意志をサイコメトリーしないでねと思った。
私たち二人は離れ難そうな笑みを互いに浮かべると、じゃあと言って別れた。
ミキオくんの車が走り去ると、私は書店の中をぶらぶらと歩き回った。
なんとなく足に足枷がついているような感じかして重い。
重い足取りで店内を徘徊しながら色々なことを考えた。
ミキオくんが結婚の報告を両親にして、彼の親御さんが仮に私の身辺調査などをしたら、私の奇行の数々を目の当たりにして間違いなく破談になるのだろうな、とか。
いま手元に玉手箱があったならば中の煙を吸って一気におばあさんになり、結婚をしなくて済むな、とか。
その日のうちのキャンセルなら有効なのだろうか、とか。
結婚式をボイコットすることもできるだろうかと一瞬考え、それはどきないなと思った。
子作りという、無から創造する作業を私にやってのけられるのだろうか。
彼はいかにも家事や育児には協力を惜しまないというタイプの人間なので安心だが、問題は私だ。
良き妻良き母という立場に専念し続けることができるか怪しいところだ。
様々な考えを脳内に錯綜させながら書店を後にし、公民館の隣接した公園を横切っていると、空き缶を山のように積んだ手押し車を黙々と牽引するホームレスとすれ違った。
しばらく歩を進めていると、はるか昔に家を去った自分の父親もあのぐらいの歳になっているのだろうかと思った。