第十話 手段
ミキオくんとの結婚のことを一応上司に報告しようと思い会社へ赴いた私だったが、来る日も来る日も彼の姿はなかった。
彼の姿だけでなく、彼が使用していたはずのデスクや私物などが跡形もなくなっていた。
来客のお茶を用意するために給湯室に入ると、ひび割れた急須のふたをとって煎茶のラベルが貼ってある茶筒を手に取った。
あの人はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
周りの人間も朝の会議で雄弁に語る彼の存在がないという事実を誰も気に留めていない様子なのだ。
私は入れたてのお茶をお盆の上にのせると応接室へと向かった。
革張りのソファーに腰をかけている客人の前にお茶を置くと、上司は今電話中だがすぐに来ると思うという旨を伝えて退出した。
自分が今言動をした『上司』とは誰なのかと思いながらデスクに戻ると、窓際の席には取引先との電話中と思える中年の男性の姿があるので恐らくあの人なのだろう。
デスクの脇の壁にかけてある日めくりカレンダーを見つめると、私は首を捻った。
いったい今はいつで私は誰なのだろうか。
この複雑怪奇な現象の原因を探り当てることができたのは辺鄙な雑居ビルの中に入っているカウンセリングで上司と出会った頃から現在までのことを回想しているときだった。
薄明かりの下で、出来る限り詳しく彼のことを説明しようとするのだが、実際に口を出すと頭の中で記憶している彼の外見が次第に薄れていることに気が付いた。
「彼はいつも私の名演技をせせら笑っていたんです」
ひげを生やしたカウンセラーは落ち着いた口調で、彼の前ではきみはOLという設定なんだねと言った。
「あの・・・、私は実際に鬱状態のOLで、彼の前では精神を病んでいない部下を演じていたんです」
そう訂正したとき、外の待合室の方からけたたましいベルの音が鳴り響いてきた。
何が起きたのかと私はうろたえたが、目の前に座っているカウンセラーは無反応だった。
「誰か脱走したのかな」
部屋の外には複数の人間が駆けずり回る足音が響いている。
「今のところ、妹さんのキャラクターや彼氏はきみの前からいなくなっていないんだね」
「・・・・・・。妹やミキオくんは実際に存在しています」
私はカウンセラーの言葉に不満を表したが、何かがおかしいことに気が付いた。
改めて考えてみると、彼らは本当にいただろうかと自信がなくなってきた。
どういうわけか彼らと接触した記憶にリアリティがないというか、おぼろげなのだ。
「きりのいいところで一休みしようか」
カウンセラーは腕時計を見ると、デスクの引き出しから一枚の紙を出して私に渡した。
「これが館内の見取り図になっているからね。この施設で規則正しい生活を送っていれば、きみのイマジネーションが常軌を逸してしまった原因がそのうちわかるようになるかもしれない。夜間は・・・」
段々とカウンセラーが説明を続ける声が遠のいていき、私の視線は定まらなくなっていった。
ここがどこなのか見当がつかない。
今まで通っていたようなカウンセリングとは異なる場所なのだろうか。
雑居ビルの一室ではないのか・・・。
するとドアをノックする音が室内に響いた。
コンコン。
失礼しますと言って、男のカウンセラーと色違いの白衣を着た女性が顔を覗かせた。
「付添いの方が用事があるとおっしゃって帰られました」
私は途端に不安を覚えて勢いよく席をを立った。
「お母さん!」
反動で椅子が音を立てて倒れた。
「ここに来る子はみんな同じ反応をするけど、心配ないよ。きみならスタッフともすぐに打ち解けることができると思うしね」
そんなことは知ったことかと思い、私はカウンセラーに食ってかかった。
「母を呼び戻してください!」
すると彼は困った顔をして、毎日決まった時間に会えるんだよと言った。
それからきみをここに連れてこられたのはお母さんではなくお父さんだと付け加えた。
何を意味不明なことを言っているのだと怒りを覚えたが、十分後には戻るからねと言ってカウンセラーが退席すると、漠然と母と妹との生活が私の思い込みのように思えてきた。
うつろな顔をして窓の方に歩いて行くと、玉砂利が敷き詰められている庭をぼんやりと眺めた。
そうだった。
小学生のときに家を出ていったのは父ではなく、母の方だった。
父の暴力から逃れるために妹だけを連れて姿を消したのだった。
落ち着いたら母は絶対に迎えに来てくれるのだと、根拠のない確信を持っていた私はその日がくるのを心待ちにしていた。
けれどそれが馬鹿げた妄想だと分かったとき、私は生きる目的を失った。
そして生きていくのに助力が必要になったのだ。
ヴァーチャルな世界の人たちはいずれも私を全うな世界に誘導してくれていると思っていた。
だが最近では日々刻々とその人物たちに浸食されて、いくつもの世界が交錯してしまい、私は自壊しかけている。
灰色の空を眺めながら、そういえば私はまだ成人ではなかったかもしれないと思い出した。
冷厳な態度の上司のこともふっと思い起こし、また私が彼を必要とすればいつでも助っ人として現れてくれるのだったなと思い出した。
近頃妹と会っていないなと感じた私は、久しぶりに彼女を私の世界に連れ戻すことにした。
「お姉ちゃん?」
振り向くとそこには疑心暗鬼な顔をした妹が立っていた。
了
駆け足で終わらせました。
読んでいただけると幸いです。




