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保身術  作者: たこみ
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第一話 疲弊する

 自分はそう遠くない将来、衝動的に命を断つ可能性があるかもしれない。


 会社のカビ臭い倉庫の中で、肩で息をしながらそう思った。



 普通のOLを装うことにそろそろ疲れてきてしまった私は、段ボール箱の上に座ると、先日精神科の医者に教わった腹式呼吸を試みた。


 お腹を膨らますようにゆっくりと鼻から息を吸い込み、細くて長い糸を吐き出すように体内の二酸化炭素を出す。


 腹部を両の手の平で押さえながら少し長い間呼吸を続けていると、倉庫に駆け込んだときよりは幾分楽になってきた。



 しばらく呆けた後に首筋の冷や汗を拭い、いつも制服の胸ポケットに所持している精神安定剤をつまみ出す。


 初めてこの錠剤を処方してもらったときは、これさえ飲めば体の病のように私の心の病もピタリと治るのだと信じてしまったものだが、いくら服用しても私という人間は肩に力が入ったままで、常人のように振舞うことだけに精を出している有様だ。



 ヤブ医者め、貴重な有休を使って足繁く通っているというのに、いつ訪れても腹式呼吸の練習とこのちっとも効かない薬をくれるだけではないか。


 こんなことをしているくらいならタバコでも吸った方がよっぽど落ち着くなと感じ、もう精神科に行くことは止めようと思った。




 私が壁にぶち当たったのは、恐らく高校生の頃だったと思う。


 ある日学校の廊下を気取って歩いていると、立ち話をしていたクラスメイト二人が私にちらりと目をやり、くすりと忍び笑いをしたのだ。



 人一倍プライドが高い私を動転させるのはこんな些細なことで十分だった。


 ひょっとすると彼女たちは前日見ていたテレビ番組の内容に苦笑して、そのとき偶然私と目があってしまっただけなのかもしれないが、次の瞬間から私はある強迫観念に襲われて平静でいることができなくなってしまった。



 彼女たちは私のことを笑ったのだろうか?


 何か私に失態があったのだろうか。



 思い込みの激しい私の精神はそのときからもはや五里霧中となってしまった。



 きっと私はノーマルな人間ではないのだ。


 彼女たちだけでなく、世の人はみんな私のことを見下しているに違いない。


 そう思った刹那、心臓が早鐘を打ってパニックに陥り、過呼吸の状態になるようになってしまった。



 他人からすればバカげた話しだと思われるかもしれないが、自分のことを欠陥品なのだと確信してしまった私は、その頃から現在まで、出来る限り通常の人間のふりをすることに全力を注いできた。


 十年近くもそんな生活を送っていると、趣味が旅行で、飲み会ぐらいしか楽しみのないただのOLという演技力にも磨きがかかり、人から評価されるのを極度に恐れる真の自分と演じている自分とが入り混じって、どちらが本当の自分なのかがわからなくなってきたところだった。


 私はこの状態をうっかりと回復の兆しとみなしていたのだが、それはただ沈静しているだけであった。



 私の精神が安定していないということをあっさりと見破ったのは成績が横ばいで左遷された女の上司に代わってやってきた男の上司だった。


 彼は常にスナイパーのような眼差しをしていて、いるだけでオフィスの空気がピンと張る。


 毎朝自分の地位を利用して長々と持論を説くのだが、その一言一句に高慢な響きが表れている。


 私の勝手な想像だが、自分以外の人間を全く信用していなそうな男だ。


 先日気が付いたのだが、これでも人の親らしく、幼い息子の写真がパソコンの壁紙になっていた。



 この男は上司になってまだ日が浅いというのに、私のどろどろとした心の奥底に介入してきたのだった。


 いつだったか、仕事中にもかかわらず雑談に花を咲かせるという状況を演じているときに、どこからかふと視線を感じ、その視線を投げかけてきた主と目が合うとヒヤリとした。



 視線の先には冷笑している上司の顔があった。



 なんとなく嫌な予感がしたので予防線を張るために上司から距離を置いていたのだが、あるとき好奇心旺盛な顔をした彼に手招きをされた。


 デスクでパソコンに向っていた私は、緊急事態の発生に思考が停止してしまい、画面上のカーソルを動かす手は小刻みに震えた。


 本当ならばその場から脱兎のごとく逃げ出したい気分だったが、まだほとんど言葉を交わしたことのない上司が私の心の裏側を見抜いているかもしれないというのは私の思い違いかもしれないと考え、他に道は残っていなかったこともあり、私は渋々重い腰を上げて彼の元へと足を運んだのだった。



「前々から気になっていたんだが、その猿芝居はなんだ?」


 初めて一対一で口を利いたこの男は、にこりともせずにこのセリフを吐いて私を震撼させた。



「何のことでしょうか」


 返事に窮した私は、金縛りにあったときのように動かない身体を気遣いながら、わざとへらへらしてみせた。


 なんだか息苦しい。



「目が笑えてないぞ」



 やはりこの男は私の本当のところを見抜いている。


 この場をどう対処したらよいのか分からなくなり、私はだんまりを決め込むことにした。


 呼吸が浅くなり、自分の唇が紫色になっていくのがわかる。



「もういいよ」


 上司はそう言うと、私を席へ戻れと顎でしゃくった。



 私は酒を飲んだわけでもないのに千鳥足でふらふらと倉庫に駆け込み、泣きそうな顔をしながら今こうしてここにいる。


 上司の狙いが何なのかわからず、救いようのない恐怖が極限に達し、叫び出したい心境だった。



 履いているパンプスを脱ぎ捨てて、ストッキングを引き裂いて裸足のまま会社を飛び出したい思いだ。


 そして誰でもいいから一番近くを歩いている人間にすがって泣き崩れたい。



 助けてくださいと。


 苦心して手に入れた私の居場所がなくなりそうなのだと。



 長い間、意識が遠のいていた私だったが、落ち着くと抜けてしまった膝に力を入れてゆっくりと立ち上がった。


 デスクに戻って上司の方に何気なく目をやると、営業マンに会社の現状をレクチャーしているところだった。


「重大な局面で・・・、早い話が・・・」


 外から戻ってきたばかりで疲れているはずの営業マンは嫌な顔ひとつせずに上司に向っておっしゃる通りですなどと言っている。


 以上、と言って自分のパソコンに向き直った上司を見ていると、なんだか後ろから脳天をぶん殴ってやりたい気分になってきた。



 私の生活を阻害するヤツは例え上司でも許せない。


 敵意を抱いた目で上司を睨みつけると、私は予約しているカウンセリングへ行く為に会社を後にした。






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