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中庭の見える喫茶店「パンタレイ」

 その喫茶店は、むかし使われていた水路を埋め立てた緑道の脇にあったので、まるでうねるように続く白い遊歩道自体が、おいでおいでをしてこの店に散歩者たちを誘い込んでいるように思われた。

 小さな並木に囲まれたゆるやかに曲がった遊歩道自体が、お茶を飲む束の間のひとときへと導いてくれる。

 店の入口脇には、それほど太くはない白樺が、蝶々のような金色の木洩れ陽を、ちらちらと窓ガラスに投げかけて、不思議な効果を上げていた。

 その白樺が、どことなく信州はアルプスの麓、例えば安曇野辺りにある喫茶店を思わせる。

 白樺の幹には『喫茶パンタレイ』と書かれた、お伽噺めいた山小屋風の木の看板が掛けられていた。

 この店に初めて入った客は、まず店主である幸田睦子の宣伝文句を聞かされることになる。

「ウチはね、こだわりの店なの。まずお水でしょう。これは南アルプスの伏流水。それからサラダに使う野菜はね、おつきあいのある千葉の農園から取り寄せているの。もちろん、完全無農薬の有機農法よ。おつまみだって、松の実やクコの実や、生のアーモンドでしょう。うちに通っていると、体が楽になる、軽くなるっていうお客さんも多いのよ。ちょっとした病気なら治っちゃうとか。もともと、バイブレーション、波動が違うのよねえ、『パンタレイ』の空間は」


 東京とはいっても、もともと生産緑地や野菜畑や櫟林の多い世田谷の奥のこの地域は、緑が道端のあちこちから異様な生命力で暗い焔のように噴き出していて、ひっそりとした住宅街に一種独特の精気を与えていた。

 喫茶店『パンタレイ』の裏庭も、四方のアパートの回廊に囲まれた数十坪ほどの中庭になっており、多種多様な植物が乱雑に生い繁り、蝶々が花の雌しべに口を突っ込み、羽虫が舞い上がり、昆虫たちが暗がりで交尾し、蚯蚓やモグラが地の闇を進み、小さな虹色の蜥蜴が石の上で日向ぼっこしていた。

「いっておくけど、わざとしているのよ。わたしこういう雑然とした廃園のような風景の方が、ぜんぜん落ち着くんだから。知ってるかしら。ターシャ、ターシャ……。ええと、何ていったかしら?駄目ねえ、最近物忘れが多くて。あ、そうそう、ターシャ・テューダー。有名な絵本作家のターシャ・テューダーの庭みたいにしたいのよ、わたし」

 睦子ママは、コーヒーサイフォンからあふれてくる白い湯気に顔を曇らせながら、得意げにそう主張する。四十代半ばの彼女は、真っ黒な直毛のおかっぱ頭で、刈り上げた襟足のV字型が印象的だった。

「ほら、よくフランス映画なんかに出てくるじゃない。エリック・ロメールなんかの。風が吹いて、木立の葉っぱが白く翻って、南フランスの光の中にきらきらしているの。ううん、もちろんここは、あたしの庭じゃないことは確かだわ。大家さん? あそこの生産緑地の奥入ったところの武内さん、武内康太郎さん。花水木通りの脇を入ったキャベツ畑の柵のとこよ」

彼女は軽く鼻歌を歌い出す。

「武内のお爺ちゃんは、あたし、ずいぶん体のこと面倒見てあげているの。健康食品や自然療法教えてあげたりして。だからあたしの話だと素直に聞くわ。例の胃癌の手術のあとは、案外良好みたいなんだけど、腰が悪いのよ。こないだも前立腺手術したしねえ」

 別れた亭主の影響なのか、彼女はよく作務衣を来て現れることがあり、本日も紺色の作務衣スタイルだった。

 彼女の小柄でこざっぱりした感じには似合っていたが、もともと色気というものに乏しいせかせかした動作で、おまけにやや外股歩きなので、どことなく男っぽく見える。たとえば、おばさんと少年とを掛け合わせると、こんな珍妙な個性が出来上がりそうである。


 喫茶店『パンタレイ』の裏庭は、東西南北をアパートやら低層マンションやらに囲まれた中庭となっていて、どの家作も近隣に住む地主、武内康太郎氏の所有物であった。

 雑然とはしているものの奇妙な風格があり、かつての庭の持ち主が西洋風の雰囲気を演出しようとした跡が伺える。

 大きく垂れ下がったバナナの葉翳、屋根よりも高く唐突に突き出した二本の棕櫚の樹、そしてその下のガラスの破れた温室、小便小僧が膝を曲げている方形の噴水池跡などの風情、それらは危うく少女趣味一歩手前であった。

 作られた当初は、多分、南洋の小島やローマの遺跡を連想させる幼稚なエキゾティシズムの表現だったろうが、荒れ放題の廃園となってからは、奇妙に荒涼とした陰影ある美しさを漂わせ始めたのであった。

「武内さんはね、この庭だってあんたの好きな通りに変えたらいいっていってくれてるの。お金は自分が持つからって。だから今回、手入れすることに決めたのよ。ガーデニングの本なんか読むとさ、夏はあんまり植木の剪定しない方がいいと言われるんだけど、これじゃ草ぼうぼうで、蔦だの蔓だのまるでジャングルみたいに鬱陶しいじゃない。温室だって、壊れかけているし、サボテンやアロエが放ったらかしでしょう。ちっちゃい噴水の跡と、あの小便小僧。あれ、どうしようかしら。今日の午後、平田造園の植木屋さんが下見に来るはずだわ」

 睦子ママは、店舗用の大型冷蔵庫を開いてミルクを取り出し、歌うように続けた。

「武内のお爺ちゃん? あら会ったことないかしら。……あたし随分、食事の世話をしてあげたのよ。だってお嫁さんの出してる食事、それはもう、ひどいんだもの。贅沢すぎるのよ、おステーキだの、鰻だの、フライだの、中華だの。典型的な高タンパク高脂肪のメニュー。こってりしてて、体に悪いメニューばっかり。あれじゃ癌にでも糖尿病にでもなっちゃうわよ。まるで保険金でも掛けて、早死にさせるためにわざとそう仕組んでるんじゃないかと思ったわ。ここだけの話だけどさ。それであたし、玄米菜食をベースにして、献立を変えてあげたの。厳密なマクロビオティックでもないんだけど、まあ、そんなものよ。お嫁さんには恨まれたけどね」

「それで爺さん、免疫力がついてぴんぴんしてきたって言うんだろ」

 さっきから濡れた下唇を突き出して、店主の饒舌を聞き流していた客の老婆がいった。 

「そういう話は、聞き飽きたよ、もう。あんたの健康談義は」

 むっつりと不機嫌そうにカウンターに座り込んでいるこの女は、袋田マス江という六十過ぎの女だった。


 全体的に大きな灰色のフクロウのような、ミミズクのような体型をしている。店内の冷房が効いているせいか、少し猫背をして両腕を丸め、寒そうに顔を歪めている。

「思い込みが激しいんだから、あんたは。エコロジーだの、自然食品だの、市民運動だの、変な本の読み過ぎだよ。ああいうのに、すぐ染まってさ。まあ、まあ、人生が楽しそうで、羨ましいこった。それよりか、こないだのフリーマーケットはどうしたのさ。樫の木公園で日曜日にやったやつだよ。あたしも行こうは思ったんだけど、何だか暑いし、くたぶれててねえ。いい加減、年だわよ、もう」

 この老婆は早くから旦那を亡くし、ビル清掃のアルバイトと年金で何とか暮らしていた。

 この中庭を囲む西側のアパート『橘荘』に住んでいる。

 よく古びた乳母車に荷物を詰め込み、年老いたペンギンのような左右に傾く独特のもたりもたりとした動物的な歩き方で、この近所を徘徊している。

 ときどき落ちている財布をくすねては、済ました顔で乳母車に突っ込んでいる。

 この庭の西側には、ハエジゴクや、ウツボカズラなど、食虫植物ばかり生えている薄気味の悪い一角があった。ときおりマス江はその暗がりにしゃがんで、緑色の口を開けてわが子のように待ち受けている植物たちに、羽虫や蝿などのエサを落とすという、奇妙な趣味があった。その小さな緑の魔物たちはほとんど彼女の一部となっており、物言わぬ食虫植物たちに、マス江はまるで小さな雛に対するような愛情を注いでいた。


「大盛況だったわ。パンタレイのお客さんもいっぱい来てくれたの。ほら、大学生の五朗ちゃんとか。クルマ出して荷物運んでくれたのよ。あ、そうそう。最近見かけなかった五丁目の二村さんも来たわ。古い額縁を買ってくれたの」

「二村っていうのは、あの、しんねりむっつりした中年男だろ。ちょっと、ノイローゼみたいな」

「そうそう。二村良夫さんだったか、良政さんだったか。何でもタウン誌とか官公庁の広報紙やなんか編集してるみたいよ。この近くのアパートに仕事部屋を借りてるのよ。ああ見えて、昔は羽振りが良かったらしいの。赤坂だか乃木坂に事務所構えて、たいそう忙しかったらしいわ。その後、会社閉じて借金も抱えて、しんどくなったとか。この店でも、よくコップの水で精神安定剤飲んでいるわ。ときどき動悸が激しくなるらしいの。あたし、あの人カルシュウムが欠乏してるんじゃないかと思うんだけど。でも、いい人よ。第一印象は、とっても感じ悪いけどね」

「ぷッ。また始まったよ、あんたの性善説が。あたしゃあの男、どうも虫が好かないんだ。世の中、あんたがいうようにいい人ばかりだったら、凶悪犯罪なんて起きやしないさ」

「すべて、何か意味があるんだわ。何事もポジティブでいかなくちゃ。ポジティブに生きるためには、物事のいい面を見ることよ。それと、日々の健康管理。あのね袋田さん、あんた姿勢が悪いわよ。体と心は繋がっているの。大切なのは心のコントロールよ。少なくとも、愚痴は言わないこと。人様の悪口もね」 

 紺色の作務衣の腰に両手をあてて、励ますような口調で店主はいった。

「また、お説教かい。ふん、この年で何がポジティブだい。死ぬのが近づくってのは、嫌でもネガティブになっていくことさ。ときどき風呂上がりに自分の体を鏡で見るだろ。死にたくなるよ。妖怪が一匹、そこに立ってるんだ。鍾乳洞の天井みたいな無惨な光景さ。それですべてが嫌になって、ウイスキー煽って寝ちまうのさ。あたしゃ、自然体でいいよ。もう、そんなに先がないんだ。口の悪い愚痴っぽい糞婆バアで、たくさんだよ」

 店の入口脇の白樺が、金色の木洩れ陽を床に散らしていた。

 店主と常連客はしょっちゅうこんな他愛もない会話を交わしていた。

 一人暮らしの老婆は、テレビの前に座っていても、ふと訳の分からぬ焦燥に駆られ、不安と孤独で居たたまれなくなって、ついつい『パンタレイ』に足が向いてしまう。ここでは彼女が愚痴のひとつでも放てば、反応が返ってくるのである。

 庭木をかき分け、裏庭に面している木戸から店に入り、いつもカウンター前の指定席に座り、同じように昆布茶を頼む。ときには、うつらうつらと居眠りを始めるのであった。


「それはそうと、最近、聞こえるの? あっちの方」

 睦子は意味ありげに目配せした。

「聞こえるなんてもんじゃないよ。若いってああいうもんかねえ。あたしらだって昔は住宅事情がひどいんで、新婚時代はずいぶん片身の狭い思いをしたもんだけど、いまは全然、傍若無人だものねえ。普段は可愛いい顔してんのに、もう夜中になると、猫とおんなじ。庭中響いて、どうしょうもないよ」

「また、あの娘のアパートに来る彼氏が、いつもながら柄が悪いのよねえ」

「アンチャン……だろ」

「茶髪でね。胸開けて、こんな派手な金の鎖のブローチつけて。ま、話してみると決して悪い子じゃないんだけどさ」

「睦子さん、あのね、おばはんは、埒外なんだよ。おとなしそうな顔して見せるんだ。若い男ってのは、狩猟犬みたいなもんだからね。同年代の娘には、別な動物なんだから。サーファーっていうんだってね、あの手の人種は。髪茶色く染めて、三角形の体して。あたしもねえ、これでも昔は、ちょっとあったんだ。娘時代、湘南の浜辺にたむろしてるような男たちとさ。何しろ、鎌倉に住んでたからね。夏の朝、二階から眺めた海の光景が忘れられないよ。銀色の波、コバルト色の水平線。うちの父親の会社が、いちばん調子良かった時代さ」

 老婆は悲しそうに目を細めた。

「プッ!」と睦子は声を漏らした。

「あら、ごめんなさい、笑っちゃって。いつの時代の話かしら。……サーファーなんていうもんだから。で、彩香ちゃんのその彼氏、辰郎って名前なんだけど、わたしと喋るときはママさんママさんっていって、なついてくれるの。ところが、こないだ店で客とやっちゃってねえ、喧嘩。相手がこともあろうに、あの偏屈男の二村さん。こっちをジロリと見たとか、ガンつけたとかつけないとかって、辰郎が始まっちゃって。また二村さんが、よしゃいいのに『私はべつに、キミになど、まったく興味ありませんがね』なんて、ぶきっちょに言いかえすもんだからさ。あのヒト、何を言ってもケンがあるのよ。損な性格ね、悪い人じゃないんだけど。鬱病みたいだし。それであわや、辰郎の手が出そうになっちゃって」

「辰郎ってのは、いい体してるよ。日灼けして、筋肉がしっかりついてて、若い漁師みたいな。ああいうのを、サーファーっていうんだ」

 最近、この人繰り返しが多くなったけど大丈夫かしら、と、睦子は訝りつつ、

「前は工事現場で、肉体労働やってたらしいんだけど。最近はサラ金の取り立て屋やってるらしいわよ。身なりもパリッとしてきたしね」と応えた。

「でもありゃ、捨てられるよ、すぐ。あたしの直感だけどね。あの娘、もう、これだもの」 

 老婆は競馬馬の目隠しのように「これだもの」といって両手を顔の脇にぺたりとつけた。視野が狭い、夢中、盲目というような意味らしい。

「だけどさ。そういう時期って、誰でもあるのよ。あの子、青春まっただなかだもの。目がぱっちりしてて、ぽちゃっとしたフランス人形みたいな顔立ちだから、もう男が放っておかないって。あの子見てると、ほっぺたキュッと抓りたくなっちゃうわよ」

「だって体もねえ。こうだよ、あんた」

 老婆はまた両手を胸に当てて「こうだよ」と繰り返しながら、たわわな果物の房でも抱えるように、なぞってみせた。

「そのくせ今の娘だからさ、足なんか長くてほっそりとしてるしねえ。目なんか顔の半分もあるし、芸能人みたいなファッションだし。あれで日本人なんだからねえ」

「だってあの子。モデルもやってるのよ。もちろんテレビや雑誌に出て来るような一流どころじゃないけど」

「モデルじゃなくて、コンパニオンとかいうんだろ。企業の宣伝とかイベントとか呼ばれて。町中でティッシュくばってる可愛いお姉ちゃんとか、ああいう人種って、安い金でこき使われているらしいじゃないか。でもさ、あの体は資本だわよ。あたしなんて、若い頃から、顔も体も、男に褒められたことなんて、コレっぱかしもなかったからね」

 いまいましく舌打ちしながら、遠い目をして老婆がいった。そして頬杖をつく。

 何だか空気が淀んできた。

 睦子は、湘南のお嬢様時代はどうしたの、と突っ込もうとしたがやめにした。このフクロウ婆さんの話の矛盾をいちいち気にしていたらきりがないのだ。

 二人とも若い世代の色恋沙汰を云々することで、すでに自分達が退場してしまった遠い青春の残照を秘かにむさぼっていたのである。

 キッチンの端に下げられたグラス類を、陽光が通して影を作る。その薄い半透明の模様が虹色を帯びて美しい。ときおり数軒先から犬の鳴き声が聞こえる。採光の良い南側の窓から、金色の木洩れ日が床に揺れていた。大きく枝の影が動いたのは、よくやってくる野鳥がいま飛び立ったからだろう。


 話題になっている娘は、中庭のジャングルを挟んでこの喫茶店の東側にあるアパート『樫の木コーポ』の一階に住んでいる葉山彩香という二十代の女だった。

 もっともこのうさん臭い名前は、彼女が所属しているプロダクションの登録名で、本名は鈴木郁子という何の変哲もない名前なのであった。

 豹柄やアニマルプリントの類いが大好きで、とりわけ夏は露出度が高かった。バッグや時計などの持ち物はブランド品であったが、これは要するに岩手の田舎から出てきて、流行の先端や派手な格好への強迫観念が染み付いてしまった結果なのであった。

「あたしゃねえ。こないだの夜、あんまり大きな声が聞こえるんで、むかむかしてきて覗いてやったよ」

「あらら」

「抜き足、差し足。あたしのとこが一階で、あの娘が一階で、要するに、中庭を囲んで、南と西の斜向かいだろう。……やってる、やってる。暑いんで、台所の窓少し開けていたんで、そおっと首をのばしたら、男がこう抱えてだよ」

「袋田さん、それ、犯罪だわよ」

 睦子はカウンターから身を乗り出して、声をひそめた。「あの娘が、壁のとこで素っ裸で、首をだねえ、こうそらして」

 老婆は重たい体を揺らしながら中腰になり、身振り入りの滑稽な実演が始まった。

「あらやだ。だけど、そんなとこ見つかったら、警察に通報されるわよ」

「なあに。爺じいだったらデバガメで捕まるかもしれないけど、ババアの覗きなんて、誰も本気にしやしないさ。警察なんて、みんな頭カタイんだから。あたしなんざ、夜中退屈するとよく近所を覗き見して歩いているよ」

「――とんでもない婆さんだわ」

「どうせ、変態ババアだよ」

 マス江はふてくされたようにナッツを一粒摘んで、口に放った。

 睦子は、改めて袋田マス江のどこか動物的なふてぶてしい顔を眺めた。

 こんな老婆が近所にいたのでは、暇つぶしに何を覗かれているかわかったものではない。そういえばゴミの日の早朝に、この女がよく集積所を覗いているを見かけるのは偶然だろうか。

「あの娘、アヤカちゃん。おかしいのよ。こないだも、その二村さんに話かけられて、『キミ、そんな格好してて、電車の中で痴漢に逢わないかね』なんて聞かれてるの。ね、それ失礼よねえ。でもアヤカちゃん、人がいいもんだから『そうなんです。あたしって、痴漢に逢いやすい体質のヒトなんです』なんていうの。笑ったわよ、もう。『痴漢に逢いやすい体質のヒト』だって。そりゃあ、あの体で、あんなに肩出して、半分以上おっぱいだって出して、お臍まで丸だしにしてりゃあ、痴漢だって四方八方からすり寄ってくるわよ」

「ふうん。あの鬱病のおやじ、そんなふうに、若い娘に話かけるのかい。あたしの顔見ると、すぐ顔をそむけるくせに」

「またぁ、そんなこと比較するのが、可笑しいわよ。二村さんねえ、きれいな娘がいると、まず必ずタバコの火を貰うのよ。時計持ってるのに時間を尋ねるとかね。そのうち、陰気な顔で目を伏せながら、ぶつぶつ服装や髪形の説教したりしてね。まあ、たいてい嫌がられるわよねえ」

 睦子は、サイフォンのコーヒーを容器に入れ直しながら続けた。

「でも優しいのよ、アヤカちゃん。派手に見えても、やっぱり田舎の子で情にもろいというのか。だから逆に、男に利用されちゃうわけ。大金貸したりとか、借金押しつけられて、ニッチもサッチもいかなくなっちゃうとか。しょっちゅうらしいの、話聞いてみると」


 ―――睦子が彩香に同情的であるのには、理由があった。彩香が持ち前の深情けで、ついつい男に引きずられがちなのを見ていると、まるで自分の過去を鏡に映されているようで、冷静ではいられなかったのである。

 睦子の以前の連れ合いは、二つ年下だったが一種の変人で、しょぼしょぼした目つきの温和なチベット人のような細い顔をし、黒いヒジキのようなくしゃくしゃした顎髭を生やしていた。

 いつも冷静で、決して怒らず、感情的にならないかわりに、すべてに対して淡泊で、実務的な事に関してはほとんど投げやりなところがあった。

 彼女は自分の旦那を、愛情を込めて「ニセ仙人」と呼んでいた。当時住んでいた西荻窪のジャズ喫茶でたまたま知り合ったのだが、睦子は、何らかのシンクロニシティによって、あるいは“天の配在”によって二人は出会ったのだと思い込みたがっていた。男はヒンズー教や仏教に詳しくて、いつかネパールや、チベットのラサに行くつもりでいた。

「私は自分の種をこの地上に残したくないんです」と、男は目をしょぼしょぼさせて、虚無的な表情でいうので、子供は作らなかった。

 ある日、男に「一人になりたいのですけど」といわれた。

 睦子は母親のようにこまごまと世話を焼き過ぎる自分の性格を反省した。おそらく、彼にとってはいささか鬱陶しかったのかも知れない。しばらくすると彼は無断でネパールに旅に出て、そのまま手紙も寄越さず何カ月も帰って来なかった。

「悪いヒトじゃないんだけど、個人主義者。そう、悪いヒトじゃないんだけど」と、睦子は自分を納得させた。それまでも数日の間とはいえ、何度か似たような経験があった。いつものことだと思っていたが、そのうち男にまんまと逃げられたことを認めざるをえなかった。

 彼女の女友達は、あの男は純粋というよりもエゴイストで冷たい性格なのよといった。

 そんなことはないわよ、と睦子はよく言い返したものである。あのヒトは不器用なの、とっても、信じられないくらいに。だからあたしがついていてあげないと。本当にもう、世間知らずなんだから……。

 しばらくして風の便りに、彼女の元からいなくなった彼が、千葉の田舎に住んでいるという噂を聞きつけた。

 

 あの日の記憶をほじくりかえすと、鳩尾が苦しくなる。

 房総半島の晩春の陽に照らされた乾いた草の匂い。ゆるやかな緑の丘陵をしばらくバスで進むと、次第に動悸が激しくなっていた。

 小さな林を二つほど過ぎて、のんびりとした畑の道を訪ねていくと、古い農家の空き家が見えた。そこにかつての亭主は、若い女と一緒に住んでいた。それは家の前の小鳥の巣箱のような郵便ポストで分かった。何かしら童話めいた風情の漂う木の箱であった。

 残忍な気持ちが湧いてきた。無性に自分をこの場で痛めつけてみたいとも思った。

 同居している女は目鼻立ちのはっきりした髪の長い美人で、インドふうの褐色の民族衣装を着て、睦子の元亭主と一緒に土を練っていた。肉体労働の似合わない幼い顔立ちをしていた。スレンダーな体にインド更紗がよく似合っている。

「ニセ仙人」は農家に畑を借り、自給自足の真似事をして、さらにはいっぱしの陶芸家を気取っているらしい。相変わらず髪の毛を後ろで束ねていた。

 作業中の彼はいぶかしげにこちらを見て、それからかすかに口を開けた。

 睦子は腕組みをしたまま、彼の驚愕したような目の色を、冷ややかに確認した。

 古民家を改造した建物には、贅沢ではないものの、趣味のよいインテリアがしつらえてあり、窓にはさりげなく野草を差しこんだ鉛色の花卉が並べてあった。書棚には美術本と、瀧口修造、吉岡実の詩集、マルセル・デュシャンや、パウル・クレー、シュールレアリズム系の画家や、前衛的な映画作家たちの本。 現代音楽や民族音楽の評論書。これらは昔から彼の好みなのであった。

 陰影ある室内に斜めに差し込んでいる透明な光線が、美しかった。

 裏庭には小規模の窯があった。

「いつか、陶芸のできる家を持ちたいんだよね。夢だけど」彼は昔よくぼんやりと呟いていた。

 その夢見るような横顔は、嫌いではなかったはずなのに。なんであたしじゃ、駄目なんだろう、と睦子は低く呟いた。なんでここに、あたしがいないの……。

 それはある意味で、睦子自身が望んでいた理想の生活であった。最初、冷静さを装っていた睦子は、少女の面影を残す女と、何かの遣り取りをした。だんだん語気が荒くなった。じっと見つめている少女の目が、真ん中に寄った。その黒目が可愛らしいと思った。

 不意に激情に駆られ、その場で泣き叫び、アトリエの棚に並べてあった鈍い藍色に輝く下手な焼き物を、幾つか壊した。

 心の奥から、黒い煙がもくもくと湧いてきた。睦子は、驚いてその場を逃げようとする少女の髪を、毟るように引っ張った。

 男は、半狂乱になった睦子の手から、少女のような女をかばった。

 間違いなく、相手の方を、かばったのだ。

 彼はふと猛烈な睦子の目つきに気が付いて、バツが悪いような顔をして、しょぼしょぼした目をまたたいた。冷静な顔をしてかがみ込み、うつむいて陶器のかけらを片付け始めた。

「もう、終わったんだから」

 小さなかすれたような声で、男はいった。

 黒目の可愛らしい少女は、工房の隅にしゃがみこみ背中を震わせて泣いていた。 

 男の痩せた貧相な背中を見て、いまさらのように「ニセ仙人」がどう見直しても、ぜんぜん素敵ではなかったことに気がついた。嫉妬と軽蔑がほぼ同時に、虫が群がるように湧いてきた。

 それでいて、自分は場違いの嫉妬深い中年女なのだという、自責の思いに捉えられた。

 睦子はしばらく、痙攣するように立ちつくしていた。

「悪いのは、あたし?」

 そしてハンカチで虚しく鼻をかむと、葉の散らばっている天窓のガラスを見上げ、むりやりぎこちない笑顔を浮かべながら、咳払いをしてみせた。「本当に、悪者は、あたしなの?」

 洟水が、左側に逸れて垂れていくのがわかる。

 昔の亭主に、ここからバス亭へと向かう道を聞いた。この陶房まで来た道の記憶があやふやだったのだ。元の旦那は、壁に貼った古い表を見ながら、三十分後にバスが来るといった。停留所にまで戻るには、畑を幾つか過ぎなければならない。

 道の両側の林の色が、緑ではなく墨のような黒色に見えた。その日、どうやって帰って来られたのか、記憶にない。


 ……その後、睦子は鬱々として体調を崩し、朝も起きることが億劫になった。

 生きていくということは、物憂い肉体労働だ。

 ややもすると、暗く自己破壊的な衝動に傾きがちな気持ちを押さえるために、睦子は、自己開発セミナーやら整体やら疑似宗教まがいのサークルやら、ヨーガスクールやらを渡り歩いた。そして、ある日とつぜん、啓示でも受けたかのように、何があっても前向きにポジティブに生きていくことに決めた。夜中、夢うつつの中でハッと閃いたのだ。ほんとうに啓示を受けたような気もするが、錯覚のようでもある。事実がどうであろうと、そういうことにしてしまいたかったのである。

 こつこつと貯金を始め、簡単な自然食メニューを中心とした喫茶店を出すことに希望を燃やした。目的をもった途端、何かが起こった。やたらと偶然の好事が重なるようになって、自分が「変革」されたと思った。

「あたしね、あの日から、バイブレーションが変わったの!」と彼女は友人たちに宣言して歩いた。はっきりと宣告すること、アファーション。これが方便であろうと、自己暗示であろうと、そうすると意識が変わり、さらには環境も好転していくのだ。

 睦子はいつのまにか、偶然の一致を引き起こす能力があるように思い込むようになった。ちょっとした偶然、シンクロニシティの類いが起こったとしたなら、それは彼女自身の手柄なのだ。幸せとは自分固有のコスモスを創りだし、その世界を十二分に生きることなのだから。

 睦子はユングの心理学と、インド帰りの胡散臭いヨーガ教師の本と、カーネギーの成功哲学をごった煮にして吸収した。それにしても、幸福を他人が与えてくれると信じていた今までの人生とは、一体なんだったのだろう。

「そうなのよ。今日はお客さんが午前中に十五人来るって直感的にヒラメクと、必ずそうなるのよ。不思議でしょう。このお店に決めるときの前日だって、夢に出てきたんだから。大きな欅の樹が現れて、あたしはその前でうっとりと木の幹をなでているの。不動産屋さんと一緒に、花水木通りをずっと下ってきて、誰もいないこの店に入って来たでしょ。すると、奥の中庭に夢で見た欅の樹があるじゃないの。『あ、ここです。ここがあたしに与えられた場所なんです』って、思わず言っちゃったわけ。変でしょう? でもあたしにとっては、それは、変でも何でもないわけよ。当然のことだったわ」 

 中庭のほぼ中心に、この庭の主人公とでもいうように、風格のあるどっしりとした欅の樹が根を張っていた。枝を広く四方に突き出している太い幹の中には、人間が二三人入っているのではないかと思うほどであった。いつも幾分は暗く湿った感じで、雨の日には青銅色の薄い鱗状の苔を伝って、薄い膜のような水が流れた。夏ともなれば、どれほどの数の蝉がこの大木を棲み家にしているのかわからないほどだ。太く地中に張った根が黒土を持ちあげていささか小高くなっており、そのために欅の木蔭は、灰色の大蛇がのたくったこんもりとした丘のように隆起していた。

 奇妙なことに、睦子はいつの間にかこの太く男性的な欅の樹を、崇め始めていた。

 つらいことがある度に、彼女はその樹の灰色の肌を撫で、頬を当てて、「もう悩まない。もう自分をいじめない」と呪文のように繰り返した。そんな時、欅の木は、眠っている男のような静かな鼓動を伝えてきた。

 彼女はその樹にひそかに、「イグドラシル」と名づけた。名前は、ある神話に基づいた北欧の絵本から取った。イグドラシルは、世界樹とも訳されるらしい。その見事な樹こそが、生まれ変わった彼女の夢と理想の世界を、しっかりと支えていてくれたからである。

 いまの世の中、自分のための宗教と神話を、自家製パスタのように作らなければならないの。味付けはそれぞれの好みにまかせればいいのよ、と、彼女は逞しい樹木に頬ずりしながら、誰ともなく言い聞かせた。

 ――睦子と老婆が世間話を続けていると、入り口に下げられた真鍮製の鐘が鳴った。

 入ってきたのは、褐色の細いサングラスをかけた三十代くらいの背の高い女であった。 

 彼女は黒崎耀子といって、やはりこの中庭に面した南側の二階建て低層マンション『ヴィラ・フローレンス』に住んでいた。グレイのシャツを着て、バッグの中からバージニアスリムの薄い箱を取り出した。睦子ママが行くと、耀子はシナモンティーを注文した。そのとき、いきなりテーブルに置いてあった彼女の携帯電話が鳴り出した。舌打ちをして、立ち上がる。

「はーい、あたし。なんだァ淳か。暑いわねえ。ううん、ちょっと部屋から出て近くの喫茶店に来ているの。あそこよ、そうそうパンタレイ。こないだ来たでしょ、ここの店」

 彼女は携帯電話を耳に当てながら、南側に斜めに開かれた天窓から入ってくる日差しを避けるため、おでこのところに左手を翳した。

「もう忙しくてさ。先週からバダバタしっぱなし。そうじゃなくて。クライアントが阿呆だから、ベースになるデザインが、なかなか決まらないわけよ。その上司が、もう、最悪でさ。なにせ一度フィックスしたことをひっくり返すのが、奴の趣味と来てるんだから。あれでちっぽけな権力の快感感じてるの。うんざりよ、もう。プレゼンはぎりぎり来週の頭かな。やりたくないんだなぁ、こういうタイアップ広告。でもあそことのプロジェクトが失敗したら、いままでの蓄積がパーよ。あたしだって、危ないわ。これでも、切られないようにおべっか使ってんのよ。どうせスタイリストとかコーディネーターなんて、そんなもんよ。雑用係ね」

 カウンターの袋田マス江が、下唇を突き出しながら後ろを見た。

 そして声を低めて顔を近づけた。

「あの女さ、最近よく来てるけど、ああいうのはなんだか、気障ったらしくていけないよ。なんでわざわざ仕事の話をヒトに聞かせたがるんだい。キャリアウーマンでございましょう、って感じでさ」

「ちょっと。聞こえるわよ。彼女、黒崎耀子さんよ。アパレルとかマスコミ関係、ファッション雑誌のプロダクションにでもいるんじゃないかしら。よくこの店でも、大柄のずんぐりした髭の男と打ち合わせしてるよ。何でもカメラマンみたい。きっと彼氏だわね」

 虫酸が走るんだよ。ああいう連中は。聞いてるとさ、自分が世の中動かしているみたいな言い草じゃないか。それに、いつも思うんだけど、ケータイってのはさ、自分の話をこれ見よがしに人様に聞かせるには、いい機械だねえ。あたしゃ、絶対持ちたくないわ」

「シッ! 声が大きいわよ」

 しかし黒崎耀子は片耳を押さえて話しているので、こちらの話は聞こえてはいない。

「それはそうと、エヴァ・エージェンシーのボスがね」

 耀子は立ち上がり、戸口に近いところへ行って、声を大きくした。「今度あんたの写真見せてくれって。だめよ、昔みたいな贅沢いってちゃ。何でも来た仕事、ハイハイってこなしていかなくっちゃ。あたしこれでも結構、押してあげてんのよ。うまくいったら、成功報酬ヨロシクね。そうそう、代官山のピラネージあたりで、シャルドネかなんか抜くのもいいわねえ」

 耀子はサングラスを外して、胸のところに挟んだ。

 睦子がふと裏庭を見ると、黄色いアゲハ蝶がひらひらと日光の中を舞い、葉群の中の暗がりを通り抜けていった。庭の隅に山椒の木があるため、卵を生みつけにくるのだ。この中庭への訪問客は多彩であった。色とりどりの野鳥や、蝶々、蜂、虻、蚊、蜘蛛、そして蛙や蜥蜴など。ひょっとしたら、時々ニュースになっているハクビシンも、紛れ込んでいるかも知れない。

 ときおり睦子が、木の枝の先端をカッターで削って、桃や林檎など季節の果物を刺しておいた。人気のない朝などは、瑠璃色や苔色をした野鳥が枝から枝へと飛び回り、小首を傾げて食べ物を啄んでいた。

「ふうん。庭師が来るんだって」マス江は顎をしゃくった。「どうすりゃ、すっきりと見栄がするもんかねえ。あたしだって、地域住民なんだから、好みを言う権利はあるだろ?」 

 マス江は太った体をひねって、片手でひさしを作って、庭の方を覗き込んだ。

「まずあの毛羽立った棕櫚はさっぱりして欲しいもんだねえ。あと、バナナの木。あんな、でかい象の耳みたいな葉っぱ、邪魔っ気だよ。温室もねえ、壊れてて、お化けでも棲み着いてるみたいだよ。こういうことは、最初のイメージが大切だわ」

 ―――と、そのとき扉が開いた。

「おろろ、噂をすれば影だよ」マス江が舌打ちするようにいった。

 道路の明るい外光を背景に、白い夏の帽子を被りながら現れたのは、葉山彩香であった。

 どことなく足元がふらついているのは、底の厚い靴のせいばかりでもないらしい。

「あらどうしたのさ、彩香ちゃん。そんな浮かない顔しちゃって」

 彩香は白い帽子を置いて、しばらく直立不動で何もいわず上を向き鼻をひくひくさせた。「どうしたのよ。言ってごらんよ」

 ポンと肩を叩かれると、彩香は我慢しきれなくなったように「辰郎に、辰郎に……」といって、みるみる大きな目を涙でいっぱいにした。「女がいたんです」

 一瞬、間があった。中年女たちは目を合わせた。

「だから言わないこっちゃないよ。あたしの直感は当たるんだ」とマス江がうそぶいた。

 放心状態の彩香は、いまにも倒れそうな風情だった。

「彼に、別の生活があったんです。わたしの知らないところに、もうひとつの生活が。歯ブラシも二つ、マグカップも二つ、Tシャツも同じプリントのやつが二つ、枕もお揃いの色違いの枕が二つ。来年は結婚しようねって言ってくれてたのに。そういっていたのに。わたし、裏切られたんです!」

「ふん、また男の話かい。よくある話だ」袋田マス江は親指をなめて、つまらなそうに新聞をめくった。「ちッ。男、男、男、男……。馬ッ鹿じゃないの」

「いつ分かったのよ、その話」と睦子。

「今朝、五時頃、思い切って彼のアパートに行ったんです。どうしても眠れなくって。あたし怒鳴っちゃったんです。辰朗に。もう、取り返しがつかない。……ああ、あたしでも、どうしよう。辰郎に、嫌われちゃうかも知れない。ひどいこと言っちゃったし」

「嫌われるもなにも。彼の方が悪いわよ」

 睦子は、自分の過去の苦い経験を思い出した。房総半島の古民家で、彼女の元の連れ合いが、若い女を睦子の手から庇ったのだ。

「しょうがないんです。だって、わたしの知らないところに、もうひとつの生活があったんだもの。歯ブラシも二つ、マグカップも二つ。騙されてたんだもの。無理して、親に言えないようなことして、お金作ってあげたのに。ひどいわ。あんなに、あんなに」

 彩香は顔を覆い、わッと泣き出した。指には銀色のマニュキュアが光っていた。

「親に言えないようなこと?」睦子が呟く。

「そんなことまでしたんだ。最近の娘はまったく。……ありゃ、また株が下がったわ。ふーっ。日本経済ますます低迷す、か」

 新聞を開いているカウンターの袋田マス江は、ばさばさと粗雑な音をさせて、次のページを開いた。

「ああ、もう彩香、生きていけない。なんでこうなるの。来週、仕事でイベントに出なけりゃならないのに、何も準備してないし」

「仕事って、大変なのかい?」睦子は、同情気味であった。

「お台場の向こうの展示場で開催するバスやトイレの展示会なんです。担当ブースで、わたしお風呂に入りながら、解説するんです」

「へーえ。裸」

「水着なんですけど。でも、ナレーションの台詞がまだ頭に入ってないし、こんな気持ちじゃ暗記できない。どうしよう。お仕事うまくいかなくて、馘になっちゃうかも知れない。お金入んなかったら、辰郎にまた怒られちゃう」

「馬鹿だね、この子は。もうそんな男、見限っちゃいなよ。しょうがないじゃないのさ」

「しょうがないんです! だって、もうひとつの生活があったんだもの。歯ブラシも、マグカップも二つ並んで。騙されてたんだもの。もうあんな男。あたしから切ってやる―。でもどうしよう、来週まだ何も覚えてないし」

 睦子は、駄目だわこりゃという顔をした。

 彼女にとっても神経にいささか障る「もう一つの生活」というフレーズを繰り返すことにも、苛立っていた。 

「鬱陶しい馬鹿娘だわ、まったく」

 老婆は新聞の裏に隠れて、小さくいった。「ありゃあ、トヨタまで下がってる。あたしの唯一の資産の百株。また塩漬けだわよ」 

「わかった、わかった。あんたね、アヤカちゃん。カルシュウムが足りないのよ。神経を落ち着かせるため、ミルク入りのバナナジュースでもあげようか。それとも、玄米のフレークに牛乳をかけて……」

「ちょっといいかなァ?」

 不意に椅子から立ち上がり、男っぽいぶっきらぼうな声でそういったのは、黒崎耀子であった。彼女は褐色のサングラスを弄びながら、眉をしかめ、

「来週のイベントって、ひょっとして『フューチャー・サニタリー・ジャパン』のことかしら」といった。

「ええ。あの、どうして」と彩香。

「どうしてって。あたしの仕事だもん」と黒崎耀子はいった。「ははーん、あなたコンパニオンなわけ。失礼だけど、担当企業は?」

「中央製陶さんです。代理店は西光エージェンシーさんて聞いてますけど」

「なんだ、お仲間じゃん。ニシミツか。西光とは、あたしよく仕事やるんだわ。コーディネーターでね。まあ、雑用係だけど。……あたし、こういうもんなんだけど、ヨロシク」

 耀子は名刺を差し出した。

「ほら、ここのガーデンの南側のヴィラ・フローレンスの二階に住んでるのよ」

「あたし、東側の樫の木コーポです。へえ、ご近所なんですね。じゃあ、コンパニオンさんとかの対応は?」

「それがあたしなの」黒崎耀子は吹き出した。「人いないのよ、ウチ」

 葉山彩香は、不意に何かに打たれたような顔をして、すっと立ち上がると

「よろしくお願いします」といいながら、ぺこんと機械的にお辞儀をした。

 黒崎耀子は、品定めするように上から下までジロリと娘を見ると、プライドをくすぐられたように、にやりと微笑した。

「そしてあたしは、西側の橘荘だよ。いちばん古くて、いちばん安い、木造二階建てのね」

 袋田マス江が、新聞をガサガサと閉じながらいった。「なんの仕事も、してませーん。世の中の寄生虫、変態ババァで、ございます」

 灰色の据わった目をして、他の三人を、むっとした顔で睨んだ。

 気まずい空気が流れた。

「そうか。みんなご近所なのねえ。同じ中庭を囲んだ住居にねぐらを構えているってわけ」

「この『パンタレイ』が北側でしょ。ちょうど東西南北。シンクロニシティーだわね」

 睦子は、にんまりと微笑んだ。

 シンクロニシティーって、何て重宝な言葉だろう。もちろんこの奇跡は、彼女が起こしたのだ。

「そおっか。今度、これをよしみに庭でバーベキューでもやりましょうよ。みんなで食材とビール持ち寄って。せっかく素敵なパティオがあるんだし」

 睦子は、皆に問いかけるように、目をきらきらさせた。

 タバコの煙をフーッと横に吐いて、黒崎耀子は場の気配を読むような顔で、腕を組んだ。

「グッド・アイディアじゃない? この庭は、植物のフィトンチッドとマイナスイオンが豊富なのよ。だからさ、失恋なんて、たちまち治しちゃうわよ。あたし、本当をいうと、彩香ちゃんにあの男、あんまりいいとは思わなかったのよ。ごめんね、あんたのこと考えていってるんだよ」と睦子。

 少女は素直にこくりと頷いた。

「それがいいわよ。バーベキューで、気分治しに、一杯やろう。アヤカ」

 姉貴風を拭かせている耀子が、ぽんと肩を叩いていった。

 さっきからしょげていた彩香は、弱々しい笑みを浮かべると、仕方なくこくりとうなずいた。

「だけどさ。バーベキューなんて、煙が出て大変だわ、そりゃ。大家が何ていうかねぇ」

 袋田マス江が、不機嫌につぶやいた。

「別にいいわよぅ、参加しなくても」と悪戯っぽく睦子。「生協で三元豚の美味しいお肉、選んでくるけど。契約農家の健康な食材よ」

 マス江は「なに、そういってみただけだよ。だからさ。その、全員参加が義務なんじゃ、仕方ないだろ、地域住民としては」と、つまらなそうに下唇を突き出した。

 三人は目配せして笑った。

 そこで電話が鳴った。



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