第9話「共感の崩壊」
療養所。
グリコが目を開けた。
「……ここは?」
小さな声。
メゼが駆け寄った。
「グリコ! 気がついたのね!」
「メゼさん……」
グリコは身体を起こそうとした。
だが——。
「っ……」
頭を押さえた。
「大丈夫? まだ無理しちゃ——」
「違う……これは……」
グリコは震えた。
「みんなの……感情が……」
「え?」
「聞こえる……見える……感じる……」
グリコの目が見開かれた。
「多すぎる……止まらない……!」
チェーンが光った。
いつもより激しく、不安定に。
「グリコ!」
ロクマデスも駆け寄った。
「落ち着いて! 深呼吸して!」
だがグリコは——。
笑い始めた。
「あはは……面白い……すごく面白い……」
そして、泣いた。
「悲しい……とても悲しい……」
次の瞬間、怒った。
「許せない……絶対に許せない……!」
表情が目まぐるしく変わる。
笑顔、涙、怒り——。
全てが混ざっている。
「これは……」
メゼが息を呑んだ。
「共感の暴走……」
「暴走?」
ロクマデスが尋ねた。
「ええ。彼女のギは、他人の感情を感じる。でも——」
メゼは続けた。
「感じすぎると、自分の感情が埋もれる。そして——」
「人格が崩壊する」
グリコが呟いた。
いつもの明るい声ではない。
複数の声が重なったような、不気味な声。
「私……わからない……今、何を感じてるの?」
グリコは自分の胸を押さえた。
「嬉しい? 悲しい? 怒ってる? 怖い?」
「全部? それとも、何もない?」
グリコは笑った。
涙を流しながら。
「ねえ、教えて。私は——誰?」
ロクマデスは何も言えなかった。
ただ、胸が痛かった。
「グリコ……」
「あ、ロクマデス」
グリコは彼を見た。
「あなたの色……真紅が増えてる……」
「え?」
「でも、白い光もある。希望も、絶望も、怒りも、優しさも——全部見える」
グリコは手を伸ばした。
「複雑……あなた、複雑すぎて……わからない……」
その時——。
窓の外で、悲鳴が聞こえた。
「何……?」
ロクマデスは窓に駆け寄った。
街が——混乱していた。
人々が泣き、笑い、怒り、叫んでいる。
「これは……」
メゼが青ざめた。
「グリコの能力が……街全体に広がってる……」
「え?」
「共感の暴走。彼女が感じている感情が、周囲に伝染している」
メゼは振り返った。
「グリコ! 能力を止めて!」
だがグリコは——。
「止め方……わからない……」
震えながら言った。
「もう……制御できない……」
チェーンがさらに激しく光る。
部屋全体が、色とりどりの光に包まれた。
喜び、悲しみ、怒り、恐怖——。
全ての感情が可視化されている。
「ロクマデス!」
メゼが叫んだ。
「彼女を外へ! このままじゃ街が——」
ロクマデスは頷いた。
グリコを抱きかかえる。
「グリコ、行くぞ!」
「どこに……?」
「街の外だ! 人がいないところへ!」
ロクマデスは走り出した。
グリコを抱えて、療養所を飛び出す。
街は地獄だった。
人々が感情を制御できず、暴れている。
泣きながら笑い、笑いながら怒る。
まるで——グリコと同じだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
グリコは呟き続けた。
「私のせいで……みんなが……」
「お前のせいじゃない!」
ロクマデスは叫んだ。
「ギのせいだ! お前は悪くない!」
だが——。
「違う……」
グリコは首を振った。
「私が……弱いから……」
「弱くなんかない!」
「弱いよ……」
グリコは笑った。
悲しそうに。
「私、ずっと逃げてた。みんなの感情を感じて、自分を見失って——でも、それを認めたくなくて」
「だから、笑ってた。明るく振る舞ってた」
グリコは涙を流した。
「本当は、ずっと怖かった」
ロクマデスは——。
言葉が出なかった。
ただ、走り続けた。
街の外へ。
人のいない、荒野へ。
そこでグリコを下ろした。
「……ここなら、大丈夫」
ロクマデスは言った。
「人がいない。お前の能力も——」
だが、グリコは首を振った。
「もう……遅い……」
チェーンが脈打つように光っている。
「感じる……遠くの人たちの感情も……全部……」
グリコは両手で頭を抱えた。
「止まらない……止められない……!」
「グリコ!」
「もう嫌……」
グリコは叫んだ。
「誰の感情も感じたくない……!」
その瞬間——。
チェーンが激しく輝いた。
そして——。
消えた。
光が、完全に消えた。
グリコは——。
虚ろな目で立っていた。
「……グリコ?」
ロクマデスは恐る恐る呼びかけた。
グリコは彼を見た。
だが——何も感じていない目だった。
「……何も、感じない」
グリコは呟いた。
「あなたの感情も、遠くの人たちの感情も——何も見えない」
「それって……」
「能力が……消えた? いや、違う」
グリコは自分の胸を押さえた。
「完全に遮断した。全ての感情を」
グリコは笑った。
感情のない、機械的な笑い。
「これで……楽になった」
ロクマデスは震えた。
これは——。
グリコじゃない。
感情を失った——。
「完璧だ」
声が聞こえた。
振り向くと、バクラヴァが立っていた。
「お前……」
「久しぶりだな、ロクマデス」
バクラヴァは笑った。
「そして——グリコ。お前のギ、今が奪い時だ」
「……どうぞ」
グリコは無表情で言った。
「私には、もう必要ない」
「グリコ!」
ロクマデスが叫んだ。
「何言ってるんだ! 目を覚ませ!」
だがグリコは——。
何も答えなかった。
ただ、虚ろな目でバクラヴァを見ている。
「いい目だ」
バクラヴァは近づいた。
「感情を捨てた目。俺と同じだ」
バクラヴァはグリコの首のチェーンに手を伸ばした。
「これで——お前のギは俺のものだ」
その時——。
ロクマデスが飛びかかった。
「させるか!」
拳を振るう。
だがバクラヴァは避けた。
「相変わらず遅いな」
バクラヴァの反撃——。
ロクマデスは吹き飛ばされた。
「くそ……」
立ち上がろうとするが、身体が痛い。
ギを使えば——。
でも——。
「悩むな」
バクラヴァは言った。
「お前がギを使えば、また記憶を失う。使わなければ、彼女のギが奪われる」
「どちらを選ぶ?」
ロクマデスは——。
拳を握った。
ネックレスが熱くなる。
真紅の光が漏れる。
でも——。
メゼの言葉が頭をよぎる。
『次はない』
トラハナスの言葉も。
『ギなしで戦える』
そして——。
グリコの言葉。
『あなたの中に、希望の白い光がある』
ロクマデスは——。
深呼吸した。
ギの誘惑を、振り払う。
そして——。
立ち上がった。
「俺は——ギなしで戦う」
ロクマデスは構えた。
身体だけで。
バクラヴァは笑った。
「面白い。では——」
バクラヴァの指輪が全て輝いた。
「お前の覚悟、試させてもらう」




