第4話「共感の代償」
街外れの廃教会。
屋根は崩れ、壁には蔦が絡まっている。だがここなら人目につかない。
三人は埃まみれの床に座り込んだ。
「まず、説明するわ」
メゼが口を開いた。
「ギとは何か。なぜ存在するのか」
ロクマデスは身を乗り出した。グリコも真剣な表情で聞いている。
「この世界は、地区ごとに環境が極端に違う。灼熱の砂漠、極寒の氷原、濃霧の湿地——人間が普通に生きるには過酷すぎる」
「だから、進化した?」
「そう。環境適応のために、人間は特殊な能力を獲得した。それがギ」
メゼは自分の首のペンダントに触れた。
「ギは金色の古びた物品。誰が作ったのか、いつから存在するのか——それは誰も知らない。ただ、ギを身につけると、感情に反応して能力が引き出される」
「感情……」
ロクマデスは胸のネックレスを握った。
「どんな感情でも?」
「いいえ」
メゼは首を振った。
「ギは特定の感情に反応する。怒り、恐怖、喜び、悲しみ——人によって違う。そして、その感情が強いほど、力も強くなる」
「じゃあ、感情を強くすればいいのか?」
「それが罠よ」
メゼは鋭く言った。
「感情を強くすれば力は増す。でも、感情は偏る。怒りばかりを使えば、他の感情が消える。恐怖ばかりを使えば、勇気が失われる」
「そして——記憶も消える」
グリコが小さく呟いた。
「そう。記憶も、人格も、少しずつ削られていく」
メゼは続けた。
「ギには三つの段階がある」
「覚醒、依存、崩壊」
ロクマデスは息を呑んだ。
「覚醒は最初の段階。ギが感情に反応し始める。この段階ならまだ戻れる」
「依存は二番目。ギなしでは生きられなくなる。感情がギに支配され、判断が歪む」
「そして崩壊——」
メゼは目を伏せた。
「人格が完全に消失する。ギに操られた抜け殻になる。バクラヴァは、その段階よ」
沈黙が落ちた。
ロクマデスは自分の手を見た。
この手で、何人倒した? 何回ギを使った?
俺は——今、どの段階だ?
「ねえ、メゼさん」
グリコが手を挙げた。
「私は? 私はどの段階?」
メゼは悲しそうな顔をした。
「グリコ……あなたは特殊よ」
「特殊?」
「あなたのギは、他人の感情を感じる能力。戦闘には向かない。でも——」
メゼは言葉を選んだ。
「あなたの代償は、他の誰よりも重い」
グリコは笑った。
いつもの明るい笑顔。
だが、その目には何も映っていなかった。
「わかってるよ」
グリコは自分の首のチェーンに触れた。
「私のギ、他の人の感情が全部見える。嬉しい、悲しい、怒ってる、怖がってる——全部、色で見える」
「色?」
ロクマデスが尋ねた。
「うん。あなたは今、青と赤が混ざってる。不安と怒り」
グリコはメゼを見た。
「メゼさんは灰色。罪悪感」
そして、自分を見た。
「でもね、私の色は——見えないの」
「……え?」
「他の人の感情ばっかり見えて、自分の感情がわからなくなった」
グリコは涙を流した。
だが、笑顔のままだった。
「これ、嬉しい涙? 悲しい涙? もうわからないの」
ロクマデスは言葉を失った。
グリコは、ずっと笑っている。
泣きながら、笑っている。
「みんなの感情を感じすぎて、自分が溶けちゃった」
グリコは両手で顔を覆った。
「怖いよ。自分が誰だかわからない。何を感じてるのかわからない」
「グリコ……」
メゼが抱きしめた。
グリコはメゼの胸で泣いた。
いや——泣いているのか? 笑っているのか?
もう区別がつかない。
「ごめんね、メゼさん。いつも明るいふりして」
「いいのよ。あなたは十分頑張ってる」
メゼはグリコの頭を撫でた。
ロクマデスは胸が締め付けられた。
グリコは、こんなに苦しんでいたのか。
あの明るさの裏に、こんな絶望があったのか。
「メゼさん」
ロクマデスは尋ねた。
「俺は——今、どの段階だ?」
メゼは答えなかった。
代わりにグリコが顔を上げた。
涙と笑顔が混ざった顔で。
「あなたの色、少しだけ濁ってきてる」
「濁ってる?」
「うん。最初は澄んだ金色だった。でも今は、黒が混ざり始めてる」
グリコは手を伸ばした。
ロクマデスのネックレスに触れる。
「まだ大丈夫。でも、このまま使い続けたら——」
言葉が途切れた。
ロクマデスは理解した。
自分も、バクラヴァのようになる。
真っ黒になる。
人間じゃなくなる。
「じゃあ、どうすればいい」
ロクマデスは叫んだ。
「ギを使わなければ勝てない。でも使えば壊れる。どうすればいいんだ!」
メゼは静かに答えた。
「方法は三つ」
「一つ目——ギを使わずに戦う力を身につける」
「二つ目——ギを制限的に使い、依存しない」
「三つ目——」
メゼは目を閉じた。
「感情のバランスを保つ。一つの感情に偏らない」
「感情のバランス……?」
「怒りだけで戦うな。恐怖だけで逃げるな。喜びも、悲しみも、全てを受け入れろ」
「そうすれば、ギに支配されない」
メゼは立ち上がった。
「でも、簡単じゃない。人間は感情の生き物。偏るのが自然」
「だから——」
メゼは窓の外を見た。
「多くの者が崩壊する」
夜が更けていく。
三人は黙って座っていた。
ロクマデスは考えた。
感情のバランス。
ギを制限的に使う。
そんなことが、本当にできるのか?
「ねえ、ロクマデス」
グリコが呼んだ。
「なんだ?」
「あなた、まだ希望の色がある」
「希望?」
「うん。薄いけど、金色の中に白い光が混ざってる。それが希望」
グリコは笑った。
今度は、少しだけ本物の笑顔だった。
「だから、諦めないで」
ロクマデスは頷いた。
そうだ。
まだ、諦めるには早い。
バクラヴァには勝てなかった。
でも、次は違う。
次は——。
その時、遠くで爆発音が響いた。
三人は窓へ駆け寄った。
街の中心部が、炎に包まれていた。
「まさか……」
メゼの顔が青ざめた。
「バクラヴァ?」
「いいえ。別の誰か」
メゼは剣を掴んだ。
「ギ所持者同士の抗争が始まった」
グリコは震えた。
「みんなの感情が——暴走してる」
ロクマデスは拳を握った。
ネックレスが微かに光る。
行くべきか。
それとも——。
「行くわよ」
メゼが言った。
「人が死ぬ。止めなければ」
ロクマデスとグリコは顔を見合わせた。
そして、頷いた。
三人は廃教会を飛び出した。
炎の街へ——。




