第1話「古びたネックレス」
目が覚めたとき、ロクマデスは空が見えた。
灰色の雲が低く垂れ込め、乾いた風が頬を撫でる。身体が痛い。喉が渇いている。ここはどこだ。自分は誰だ。
「おい、生きてるか!」
声がした。視界の端に、髭面の男が映る。商人らしい。荷馬車の脇で、こちらを覗き込んでいる。
「……」
ロクマデスは身を起こそうとして、腕が言うことを聞かないことに気づいた。力が入らない。餓死寸前だ。
「無理すんな。水をやる」
男は革袋を差し出した。ロクマデスはそれを受け取り、一気に飲み干した。喉を通る水が、やけに冷たい。
「名前は?」
「……わからない」
「記憶喪失か。こりゃ厄介だな」
男は腕を組んで唸った。荒野のど真ん中で行き倒れの少年を拾うなんて、運が悪いのか良いのか。
「とりあえず次の街まで連れてってやる。そこで何とかしろ」
「……ありがとう」
ロクマデスは立ち上がろうとして、胸元に違和感を覚えた。
首に何かがかかっている。
それは、金色のネックレスだった。
古びている。表面は擦り傷だらけで、どこか鈍い光を放っている。だが不思議と、これだけは外す気になれなかった。
「それ、お前が持ってた唯一のものだ。大事にしとけよ」
男はそう言って、荷馬車を動かし始めた。ロクマデスは荷台に揺られながら、ネックレスを握りしめた。
これが、唯一の手がかり。
自分が誰なのか。なぜここにいるのか。それを知る唯一の——。
街に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
城壁に囲まれた小さな街。人々は忙しなく行き交い、誰もロクマデスのことなど気にしない。
「じゃあな。悪いが、ここまでだ」
商人は手を振って去っていった。ロクマデスは一人、石畳の上に立ち尽くした。
さて、どうする。
記憶がない。金もない。名前もない。
そもそも、自分は何歳なのか。鏡に映った顔を見る限り、15歳くらいだろうか。身長は平均的。体格も普通。特徴らしい特徴はない。
ただ一つ、胸元のネックレスを除いて。
「……腹、減ったな」
呟いた瞬間、視界の端で何かが動いた。
反射的に振り向く。
路地の奥に、影があった。
人の形をしている。だが、何かがおかしい。空気が歪んでいる。
「——見つけた」
低い声。
次の瞬間、影が飛び出してきた。
速い。
ロクマデスは身を引こうとしたが、身体が動かない。恐怖で硬直している。
終わった——。
そう思った瞬間、胸が熱くなった。
ネックレスが、光っている。
金色の光が心臓に流れ込み、そこから全身へ広がっていく。血管に沿って、筋肉に、骨に、神経に——。
身体が、軽い。
気づけば、ロクマデスは影の攻撃を避けていた。
「……え?」
自分でも信じられない。身体が勝手に動いた。まるで、何度も訓練したかのように。
「なるほど、無意識か」
影は立ち止まり、フードの奥からロクマデスを見つめた。
「お前のギは……特別だ」
「ギ?」
「そのネックレスだよ。それは『ギ』と呼ばれる。感情に反応して力を引き出す道具だ」
影は指輪を掲げた。それも、金色に輝いている。
「俺のギは『力の倍加』。お前のは……まだわからんが、とにかく——」
影が再び飛びかかってきた。
今度は、ロクマデスも迎え撃った。
身体が知っている。拳の握り方。足の運び。呼吸のタイミング。
記憶はないのに、身体だけが戦い方を覚えている。
拳が激突する。
衝撃が腕を駆け巡るが、ロクマデスは引かなかった。それどころか、影を押し返していた。
「っ……強いな」
影は一歩下がった。そして、笑った。
「いい。お前、名前は?」
「……ない」
「じゃあ、つけてやる。お前の名は——ロクマデス」
「ロクマデス?」
「ギリシャの菓子の名前だ。甘くて、丸くて、金色に揚げられる。お前にぴったりだろう」
影はそう言い残し、路地の奥へ消えていった。
ロクマデスは呆然と立ち尽くした。
胸のネックレスは、まだ微かに光を放っている。
そして、気づいた。
何かを忘れている。
さっきまで確かにあった何かが、もう思い出せない。
「……何を、忘れた?」
答えは返ってこない。
ただ、胸の奥に不安だけが残った。
この力は、何かの代償なのか——?




