母の祈り、娘の檻
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廃屋の匂い
保釈された翌日、ネイサンは町外れにある、かつて遊び場だったという廃屋に足を踏み入れた。
空気は淀み、煤と湿気が絡み合った重い匂いが鼻腔にまとわりつく。窓は割れ、壁はひび割れ、かつて暖を取った暖炉は崩れ、炭のように黒ずんでいた。
床板は軋み、踏むたびに細かな埃が舞い上がる。足元の隙間に、銀色の光が一瞬きらめいた。ネイサンはしゃがみ込み、古びたペンダントを拾い上げた。
埃を拭うと、裏面には刻印が浮かび上がる。
――M.S.
指先が微かに震えた。メラニー・スティーブンソン。その名が頭の中に響く。
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修道女の影
「そこは危険です」
背後から、澄んだ声が響いた。
振り返ると、入口に立っていたのはルーシーだった。黒い外套のフードを下ろし、冷たい瞳でネイサンを見つめている。
彼女はゆっくりと歩み寄り、身分証を差し出した。
「ルーシー・クレイバーグ。教会から派遣されています。――メラニー・スティーブンソン、その名を知っていますね?」
ネイサンは答えられなかった。代わりに、握りしめたペンダントの鎖が手の中で冷たく光った。
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母の祈り
ルーシーは廃屋の中央、半ば崩れた机に視線を落とした。そこには、古い手記が散らばっている。紙は黄ばみ、端は湿気で波打っていたが、インクの黒だけが鮮やかに残っている。
彼女は一枚を拾い上げ、淡々と読み上げた。
〈この子は器。血を繋がせず、時に縫い止め、同じ姿で“徴”とする〉
〈この子は証。あの方の声を宿し、この世に永遠を刻む〉
言葉は祈りの形をしていながら、どこか歪んでいた。愛を装いながら、娘を縛る呪詛のようだった。
「メラニーの母親が書いたものです」
ルーシーの声は低かった。
「彼女はこの家で、悪魔への供物の儀式を繰り返していました。娘を“器”として、成長させず、同じ姿のまま時間を縫い止めた。虐待でしたが、母親にとっては愛情だったのでしょう」
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記憶の断片
ネイサンのこめかみに鋭い痛みが走った。
視界が歪み、黒い煙のような記憶が溢れ出す。
――夜の焚き火。
母の怒号。
暗闇の中で、怯えた少女の手を握る幼い自分。
泣くことも叫ぶこともできず、ただ握り返すことしかできなかった。
脳裏で何かが軋む音がする。思い出そうとすればするほど、深い闇に引きずり込まれる。
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闇の中の真実
ルーシーは静かに手記を閉じた。
「あなたは、彼女と深く関わっていた。けれど、記憶を封じた。――それは、あまりにも残酷だったからです」
ネイサンは顔を上げたが、言葉は出なかった。
ただ、胸の奥でざわめく声が確かにあった。
――助けて、という声。
幼い少女の声が、遠い闇の底から今も響いていた。
ルーシーは淡い光の瞳でネイサンを見据えた。
「彼女を救えるのは、あなたかもしれません」
その言葉が、静かに、しかし深くネイサンの心に突き刺さった。




