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Hidden truth ― 封印された真実   作者: 和泉發仙


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1/9

 帰郷の町、金髪の影

前書き


この物語は、帰郷した作家ネイサン・ウッドが、金髪の美少女メラニーと出会った瞬間から始まる――いや、正確には彼が忘れた“過去”に触れたときから始まっていたのかもしれない。悪魔信仰に狂った母に虐げられ、母の手で“内なるもの”を宿された少女。年月を超えてなお「昔と同じ姿」のまま町に立つその存在は、信仰と記憶、赦しと断罪の境界をぼやかしていく。

本作は往年のオカルト映画に通じる冷たい恐怖の系譜に連なりつつ、ひとりの少女の魂をめぐる戦いを描く九章の連作である。祈りは刃となりうるのか。言葉は封印を解くのか。あなたの息づかいが、ページの隙間に落ちていく。



 ネイサン・ウッドがブルナクレームに戻ってきたのは、四十歳の誕生日から三日目の夕方だった。ハイウェイの分岐を降りると、ラジオはざらついた電波音だけを垂れ流し、風見鶏は止まったまま西を指していた。町は昔よりも小さく見えた。あるいは、自分のほうが大きくなり過ぎたのかもしれない──そんな錯覚が首筋にまとわりついた。


 駅舎は鉄骨がむき出しで、壁のペンキは湿疹のように浮き、ところどころ剥がれている。切符窓口のガラスには、乾いた手のひらが押しつけられた古い跡があり、その上に貼られた注意書きは、文字の半分が光に焼け落ちて読めなかった。ベンチに腰掛ける清掃婦が、白いバケツの水にモップを差し入れながら、ネイサンを横目で見上げた。年老いた彼女の名はエルシー。昔、よく駅前のパン屋の袋を抱えた彼に、焼きたての匂いを嗅いで「いい日ね」と笑ってくれた人だ。だが今日の彼女は、笑わない。モップを搾る掌が、ひしゃげた鳥の足のように強ばっている。


「戻ってきたのかい」エルシーが言った。

「数日だけ」ネイサンは嘘をついた。自分でも、本当はどれくらい居るつもりなのか分からない。ただ、あの新聞記事が脳裏に貼りついて離れないだけだ。小さな町の欄を賑わせるには充分すぎる連続殺人の断片。被害者の胸に押された焼印めいた痕、身の回りの品がひとつだけ欠けていること、現場の近くで目撃される金髪の少女──三行で語られる怪談の骨組み。


「十字路では、立ち止まっちゃだめだよ」エルシーが、唐突に付け加えた。「風が止んでるときは、なおさらね」

 ネイサンはうなずき、荷物を肩に背負い直した。駅を出ると、信号のない十字路がひとつ、舗装の継ぎ目に砂の筋を溜めている。エルシーの言葉どおり、風は吹いていなかった。葉は揺れず、旗も垂れ、遠くの送電線が音を立てて震える気配もない。音が消えている。世界が息を止めたかのように。


 十字路を渡り終えると、町の中心部はすぐだ。閉店した店の窓には古い映画のポスターが歪んで貼られ、古書店の屋根からは苔が糸のように垂れている。ネイサンは自然と旧知の図書館へ向かっていた。あの建物は、たしかにまだそこにあるはずだ。閉架室の古紙と布張りの背表紙の匂い。読み古された聖書のページの乾いた肌触り。語りだす前の沈黙のような空気。


 図書館の扉を引くと、鈴が鳴った。音は薄いのに、やけに長く続く。受付カウンターには新顔が座っていた。カーディガンの袖を肘までまくった、痩せぎすの女性。名札には「マーガレット・ティール」とある。彼女はネイサンを見ると、ちいさく頷いた。来訪者が稀なのだろう、その身じろぎは慎重で、鳥籠から出されたばかりの小鳥のようだ。

「閉館は七時です」マーガレットが言った。「五分前に鈴を鳴らします」

「ありがとう。少し見るだけだから」


 閲覧室の窓は高く、光は粉塵の柱になって落ちている。ネイサンは棚をひとつひとつ指で撫で、背表紙に眠る名前たちを確かめていった。地誌、犯罪史、神学、農業白書。やわらかい紙の手触りは、彼を別の時間へ連れ戻す。十二歳の自分の手。指に挟んだカード、シール、借りた本の判子の冷たさ。胸の奥をひそかにつつく、誰かの笑い声。


 そして、彼女がいた。


 通路の向こうから、光の中にすっと差し込むように現れた。その瞬間、風の止んだ十字路の中心に立っているかのような静けさが、館内に満ちた。金髪のロングヘアは、絵の具の黄色が乾く途中のように淡く、ふちだけ白く光っている。瞳は水色──だが、ただの水ではない。深く掘り抜かれた井戸を覗き込んだときのような、古い水の色。どこかの時代の冷たさが、そこに沈殿している。


「メラニー・スティーブンソンです」彼女は微笑み、名乗った。声は柔らかく、しんと冷たい台所に置き去りにされたガラス皿を指で弾いたときのように、長く余韻が残った。

「君は……」ネイサンは言いかけ、言葉を飲み込んだ。何を続けるつもりだったのか、自分でもわからない。「ネイサン・ウッド。作家です」

「知っています。大学で教えていて、ときどきここへ帰ってくるひと。新作、すごくよかった」

 彼女は言い、胸の前で指を絡めた。「章ごとの熱の上げ下げが、とても正確でした。三章の終わり、駅のトイレの鏡に残された指紋──左手のほうが弱い犯人、と読ませるための伏線。行間の温度って、たぶん、あなたにしか出せないものです」


 ネイサンは苦笑した。褒められるのは嫌いではない。だが、彼女の言葉は、心地よさ以上のものを彼の内側に置いていく。既視感。もっと言えば、既に触れた感触。子どものとき、暗がりの中で自分の手に触れた別の手の温度のような──思い出してはいけない類のもの。


「読み込んでくれて、ありがとう」ネイサンは言いながら、彼女の目の奥の陰影に目を奪われていた。十代の顔。なのに、瞳だけが古い。氷河の底に閉じ込められた琥珀のように、時間が動かない。「ここでよく本を?」

「ええ。閉架の匂いが好き。古い紙の匂いは、覚えていたことを思い出させてくれるし、覚えていないことを思い出したような気にさせてくれる」

「覚えていないこと?」

「たとえば――誰かの笑い声の高さ、床板の軋む場所、夜の台所に残ったパンの匂い。そういうの。名前はないのに、すごく確か」


 マーガレットが遠くで本を整理する音がした。背表紙に爪を立てるような微かな擦れ。それきり、また静寂が戻ってくる。ネイサンは棚の陰に目をやった。そこに、誰かが立っている気配が一瞬だけした。人影。黒い服、顔のない輪郭。瞬きすると消えていた。視界の端に引っかかった紗のようなものは、ただの埃の流れだったのだろうか。


「あなたの旧作も読みました」メラニーが続けた。「『冬至の灯』。あの話の少年は最後に鍵を捨てるでしょう? でも、ほんとは捨ててない。捨てたふりをして、誰も見ていないところで拾い直してる。そうでないと、家の中の音がやまないから」

 ネイサンのこめかみがずきりと痛んだ。鍵。拾い直す手。家の中の音。

「……ずいぶん、よく読んでるんだね」

「好きだから」メラニーは微笑み、ほんの少し首を傾げた。その仕草に、奇妙な古さが宿っている。写真立ての中で時間が止まった人形のように、彼女の角度は、完璧に“昔の角度”だ。「あなたの書く犯人たちは、いつも“歩き方”で正体がわかっちゃう。足音が、子どもの頃に覚えた誰かに似ているから。あなたは書くふりをして、ずっと聴いているんですね、昔の足音」


 ネイサンは咳払いをして視線を逸らした。彼女の言葉は、脚の裏まで冷たくしてしまう。「今日は、連続殺人の記事を調べに来たんだ。被害者のことを」

「わたしも、新聞は読みました」メラニーは、カウンター横の掲示板を顎で示した。そこには切り抜きが数枚、細いピンで留められている。「三件。焼印みたいな痕。欠けている持ち物。……それから、近くに必ずいる女の子」

「“金髪の”」ネイサンが言うと、メラニーは目を伏せ、唇に指を当てた。「噂はあてにならない。見た人の目の都合が混ざるから」

「君は、見たことが?」

 メラニーは答えなかった。代わりに、閉架のほうへ歩き出した。細い踵が床板に触れるたび、古い木が音を飲み込む。彼女は振り返らず、しかし確かにネイサンがついてくるのを知っている歩き方をしていた。


 閉架の扉は磨りガラスで、内側に鉄の閂が渡されている。マーガレットに合図すると、彼女は鍵束から一本を選び出し、ぎこちない動作で閂を外した。「十五分だけ」と言い残し、すぐに離れていく。ネイサンは扉を押した。冷たい空気が額に触れる。湿った頁の匂い、糊が劣化した布の匂い、誰かの髪の匂いが入り混じる。


「ここ」メラニーはひとつの棚を指さした。町の記録、事件のスクラップ、寄贈された家族アルバム──そういうものを集めた区画だ。古いスクラップブックの背に、白いカビが点々と浮いている。ネイサンは手袋をはめ、ひとつを取り出した。ページの間に、髪が一本、黒々と挟まっている。長い。意図して挟んだのか、偶然なのか。彼は指先にその髪の軽さを感じ、そっとページを開いた。


 切り抜き。事故、閉店、寄付、訃報。時代の色が変わっていく。ページの端に、同じ筆致の署名がいくつも現れては消える。──M.S.。丸みを帯びたM、間を詰めて書かれたS。何十年も前の日付の脇にも、去年の記事の端にも、同じ筆跡がある。ネイサンは冷たい汗を背中に感じた。偶然ではない。町の誰かの癖字──それだけで説明がつくのか?


「マーガレットは気づいていません」メラニーが低く言った。「この棚は、来る人が少ないから」

「君は、これを……」

「ときどき、見ます。書き込みの持ち主が誰なのか、考えるのが好きなんです。Mは、メアリーかもしれないし、マーサかもしれない。でも、わたしは“メラニー”だといいなって思う」

「どうして」

「響きが好きだから。メラニー。口の中で丸くころがる。呼ばれているみたい」

 ネイサンは彼女の横顔を見た。金髪の一本が光を捉え、白く燃える。彼女のまつ毛は子どものように濃く、鼻梁は驚くほど細い。数秒のあいだ、彼は、もう一人の少女の顔に重なる像を見た。顔の部分だけ黒く塗りつぶされた写真。切り抜かれた楕円。笑っているはずの口も、泣いているはずの目も、すべてが欠けた空白。そこに自分の指が触れて、指先に真っ黒な粉が付く──そんな感覚が、突然指腹に蘇った。


 扉の向こうで鈴が鳴った。閉館十五分前の印だ。マーガレットが廊下を歩く小さな靴音が近づいてくる。メラニーはスクラップブックから目を離さない。「もう行かなきゃ」

「また……来るのかい」

「ええ。たぶん、明日も」

「君は学校は?」

「もう終わったから」メラニーはうすく笑った。「ずっと前に」


 閉架から出ると、空気は少しあたたかかった。メラニーはカウンター前で立ち止まり、ふと、掲示板の切り抜きのひとつに触れた。先週の事件の記事。白黒写真に写る路地の端、誰かの肩の輪郭。ピンから紙が外れてカサリと落ちる。拾い上げる彼女の指に、ほんの一瞬、黒い粉のようなものがついた。煤か、印刷のインクか。それとも──ネイサンはそんな自分を嗤った。恐怖というやつは、普通のものに別の名前を与えるのが好きだ。


 外に出ると、夕暮れはすでに硝子のように硬く、雲は筋肉のように重なり合っている。通りの端で、カメラ店の主オーウェンがシャッターを閉めるところだった。彼はネイサンに会釈し、戸口に鍵をかける。その顔には、町じゅうの人間が持つあの薄い緊張があった。言葉にしない合図。夜を短くする心の準備。


 その夜、ネイサンはいつもの古いバー「オライリー」に足を向けた。ドアを開けると、煙と古いアルコールの匂いがまとわりつく。ジュークボックスは同じ曲を繰り返し、カウンターの向こうでは店主のオライリーがガラス拭きの布を丁寧に折っている。スツールに座ると、幼馴染のスコットが肩を叩いた。彼は昔から頑丈で、今も頬に陽に焼けた色が残っている。


「帰ってきやがったな、作家さん」スコットが笑う。「何年ぶりだ?」

「三年。いや、もっとかもしれない」

「どうせまた、ろくでもないものを書きに来たんだろ」スコットの笑いには軽い毒がある。けれど、悪意ではない。町の空気の味に似た、古い冗談の風味だ。「あの記事、見たか?」

「見た。図書館にも切り抜きが」

「ありゃ、オーウェンの持ち込みだな。カメラ屋の。あいつ、警察の現場に近寄る癖が抜けねえ。いつかぶん殴られるぞ」

 オライリーがグラスを置いた。琥珀色の液体がわずかに揺れ、氷が音を鳴らす。「で、先生。ネタ集めはうまくいきそうかい」

「まだ。断片だけだ。焼印、失われた持ち物、金髪の少女」

「金髪の少女」スコットが繰り返した。二度目は、少し低い。「そういえば──お前、いつも一緒にいた女の子、覚えてるか?」

 ネイサンの口角がかすかに引きつった。酒が喉を過ぎる音がやけに大きく聞こえた。ジュークボックスの針が盤の同じ場所でほんの少し跳ね、同じ小節を二度演奏する。

「……いつの話だよ」

「中学の頃だ。十七でも、十六でもない。もっと前。お前がいつも、図書館の裏口から出てくるとき。隣に、金髪の──」

 ネイサンは曖昧に笑った。「覚えてない。顔が出てこない」

「名前も?」

「名前も、声も」彼はグラスを見つめた。琥珀の底に、自分の顔が歪んで映る。そこに、誰かの輪郭が重なる。黒塗りの楕円。切り抜かれた空白。「代わりに、どうでもいいことばかり思い出す。床板の軋む音とか、パンの匂いとか、夜の台所の暗さとか」

 スコットは肩をすくめた。「まあ、年をとるってのは、そういうことだ。大事な名前ほど、するりと逃げてく」

「大事、だったのかな」

「さあな。けど、よく笑ってたろ。お前、あの頃にしては珍しく」


 オライリーがテレビのボリュームを上げた。地方ニュースがちょうど終わるところで、画面の隅には“今後の天気”のテロップが流れている。乾いた女の声が「風のない夜が続くでしょう」と告げ、画面がコマーシャルに切り替わった。ネイサンは自分の手の甲を見た。そこに、いつの間にか黒い粉がついている。インクだろうか。閉架のスクラップブックに触れたときの。彼は親指で擦った。粉は皮膚に伸び、細い線になって消えた。


「おい、ネイサン」スコットが声を潜める。「この町、すこし……おかしい。前からおかしかったけど、今はもっとひどい。夜の十字路、風が止むだろ」

「駅で、エルシーにも同じことを言われた」

「止んでると、音がよく聞こえる。誰かの足音とか、笑い声とか。背中で聞こえる」スコットは自分の背を軽く叩いた。「ああいうのは、昔もあった。けど今は、はっきりしてる。名前が付きそうなくらいだ」

「名前?」

「たとえば、メラニーとか」

 ネイサンの指先が、グラスの冷たさを逃した。氷が転がる音が、やけに近い。


「誰だ、それは」彼は慎重に問うた。

「さあ」スコットは、ひどく不器用な笑顔を作った。「ただの名前だ。さっき頭に浮かんだだけだ。言ってから、ちょっと後悔してる」

 ネイサンは頷いた。名は音であり、鍵であり、呼び水だ。口に出した途端に、形を与えられてしまう。形を与えられたものは、こちらを振り返る。


 バーを出ると、夜は完全に固まっていた。通りの灯りはところどころ切れ、片側の歩道にだけ薄い光が滑っている。十字路の真ん中で立ち止まらないよう、ネイサンは斜めに歩いた。子どものときに覚えた抜け道。家へ向かう路地は、背の高い板塀が続き、窓という窓が目を閉じている。角を曲がるたび、足音がひとつ増えた。自分のものではない、別の足音が。踵の低い靴。床板を柔らかく撫でる歩幅。ネイサンは振り返らなかった。振り返ると、足音はやむ。やんでしまうものは、たいてい、そこにはいない。


 家に着くと、ポーチの灯りが一度だけ明滅した。鍵を回すと、金属の小さな悲鳴が響く。室内は冷えた紙の匂いがした。居間の壁には古い写真がいくつか掛かっている。父と母と、自分。釣り堀の写真、学校の舞台の写真、クリスマスの写真。どれも、上から光が落ちていて、顔の半分が白く飛んでいる。ネイサンは明かりを点けず、写真の前に立った。手を伸ばす。指先がガラスに触れる。冷たい。


 ふと、壁にかけた別のフレームの端が黒ずんでいることに気づいた。煤のような、焦げのような。指でなぞると、粉がとれた。黒い粉。印刷のインクでも、暖炉の灰でもない匂い。もっと、乾いた──古い血の鉄の匂いの、だいぶ手前にある匂い。鼻の奥がくすぐったくなり、彼はそっと指を拭った。


 そのときだ。台所の奥で、何かが小さく落ちた。匙か、薄い皿か。ネイサンは振り向き、暗闇に耳を澄ます。音はそれきり続かない。彼は躊躇のあと、壁スイッチに手を伸ばした。灯りは点かなかった。もう一度。やはり駄目だ。ブレーカーかもしれない。ポーチの灯りも明滅していた。電圧が不安定なのだろう。彼はポケットから携帯を出して懐中電灯代わりにし、台所へ進んだ。冷蔵庫の上に、古い家計簿。釘で留められた紙切れ。クロスに薄いパン粉。どれも、昔と同じ配置。いや、“同じに見えるように並べ直した”配置。


 流し台の脚元で、何かがかすかに光った。拾い上げると、薄い金属の円。古いボタンだ。背面に刻まれた小さな文字──M.S.。ネイサンの心臓がひとつ、空打ちする。どこかでこれと同じ刻印を見た。スクラップブックの署名。閉架の埃。黒い粉。


 背後で床板が鳴った。ゆっくり、柔らかく。振り返るな、と体のどこかが命じた。だが、彼は振り返った。廊下の先、暗闇の輪郭の中に、かすかな白──ワンピースの裾。金属の反射のような髪の筋。ネイサンは携帯の光を向けかけ、やめた。光を当てると、形になる。形になったものは、こちらを見る。こちらを見て、名前を呼ぶ。


 息を飲む音がした。自分のものではない。廊下のほうから、吸い込んで、吐かれない息が、細く震えている。爪の先で板をなぞるような、小さな音が重なった。ネイサンは台所の戸口を背で押さえ、静かにその音が過ぎるのを待った。やがて、足音は消えた。消えたのに、消えた感じがしない。耳の奥に、まだ足音の形が残っている。


 いつの間にか、携帯の画面が暗くなっていた。彼は深く息を吐き、画面を点け直した。時刻は十時を過ぎ、通知のランプがひとつ点滅している。差出人はスコット。件名だけが表示されていた。「なあ、メラニーってさ──」。本文は、開く前に、受信音とともに新しい通知に押し流された。今度は知らない番号。件名はない。ただ、冒頭の一文がプレビューに表示されていた。


『ただいま』


 ネイサンの喉は乾いていた。読み直しても、そこには同じ文字がある。たった四文字。それなのに、四辺のない箱のように、どこに置いても崩れず、足元をすべらせる四文字。


『ただいま』


 返事を打とうとして、やめた。返事を出すということは、返事を受け取るということだ。受け取ってしまえば、こちらの場所が知られる。こちらが、昔と同じ場所に立っていることが、知られてしまう。


 雨が降り始めた。屋根を打つ音が、数秒ごとに遠くなり、近くなる。風はない。雨だけが、一定の間隔で落ちてくる。彼は台所の明かりをもう一度試し、諦め、居間に戻った。ソファに座ると、壁の写真のひとつが、さっきより少し傾いているのに気づいた。ほんの数度。水平から外れたものは、見る者の身体をゆっくり歪める。


 ネイサンは立ち上がり、写真のフレームを正した。指先に、また黒い粉がつく。鼻先にかすかな匂い。紙、布、髪。彼は粉を払わず、そのままソファに腰を下ろした。目を閉じると、図書館の閉架室の冷気が頬に触れ、メラニーの声が耳の奥で反響する。「覚えていないことを、思い出したような気にさせてくれる」。


 ジュークボックスの曲が遠くで途切れたような気がした。もちろん、バーにはもういない。なのに音だけが、遅れて胸骨に触れる。幼い自分の手に、誰かの手が重なる。細い指。冷たい。だが、嫌ではなかった。むしろ、その冷たさが安心だった。熱いものは、すぐに形を失う。冷たいものは、長く留まる。


「お前、いつも一緒にいた女の子、覚えてるか?」


 スコットの声は薄く、黒い粉のように、思考の隙間に降り積もる。顔は出てこない。名前も、声も。代わりに、冷たい指が背骨を撫でる。背骨の上を、金属の刃ではない何かが、静かに、静かに歩いていく。皮膚の内側で鳴る足音。ゆっくり、柔らかく。踵の低い靴の音。


 ネイサンは目を開けた。雨はなお、風なしに降っている。十字路には立たない、とエルシーは言った。だが、町じゅうが十字路である夜には、どこに立てばいいのか。彼は携帯を手探りで取り、メッセージの画面を開いた。『ただいま』。返信欄に、指がゆっくりと文字を形作っていく。書いては消し、書いては消す。やがて、彼はたった一語だけを残し、送信をためらったのち、指を離した。


『おかえり』


 送信音は鳴らなかった。圏外ではないのに、音はしない。代わりに、廊下の奥で、ほんの短い呼吸が起きた。吸い込むだけの呼吸。吐かない呼吸。ネイサンはソファの肘掛けを強く握った。爪が布に食い込み、糸が細く音を立てて切れる。


 耳の中で、誰かが笑ったような気がした。高い笑い、低い笑い。ふたつの笑いが重なって、ひとつの形にならない笑い。雨は降り続け、風はなく、十字路はそこかしこにある。ネイサンは知っていた。明日も図書館へ行くだろう。閉架の冷気、スクラップの紙、黒い粉。メラニーの水色の瞳。古く、冷たく、深い。そこへ降りていけば、いつか、忘れていた名前に触れるはずだ。触れた指に、何が付くのかは、まだ考えない。


 壁の写真が、またわずかに傾いた。今度は、誰も直さなかった。写真の中の少年が笑っている──はずの場所は黒く塗られ、そこに貼られた黒は、湿ってもいないのに、じわりと濡れた光を放っていた。ネイサンは目を逸らさず、その黒の表面に、自分の顔が、溶けた輪郭で映るのを見ていた。長いあいだ。風のない夜の、長さのぶん、ずっと。

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