第九章:気づいた声
翌日の仕込み後。歌恋は焼き上がったパンを並べながらも、どこか上の空だった。
手の動きに迷いはない。それでも、視線は揺れていた。
その様子に、佐伯は厨房の奥からじっと視線を向けていた。
「……おい、綾瀬」
歌恋はびくりと肩を揺らした。
「はいっ……!」
「なにか、あったのか」
その言葉は、いつもより静かで、少しだけ低かった。
佐伯はパンの袋を結びながらも、真正面から歌恋の目を見ていた。
歌恋は一瞬、何かを言いかけたが、唇を結んで首を横に振った。
「……なんでも、ないです」
佐伯はその言葉を聞いても動じなかった。むしろ、目を細めて、さらに一歩踏み込んできた。
「なんでもないことないだろ。顔に全部出てる」
その声はいつになく真剣で、怒っているというより、困っているようにも聞こえた。
「……何があった?」
歌恋は黙ってうつむいた。唇を噛んだまま、答えられない。
言ったところで、何も変わらないかもしれない。それでも、店長だけには、見透かされていた。
佐伯はしばらく黙っていたが、それ以上は何も言わずに作業へ戻った。
だがその背中には、彼なりの“気遣い”の色がにじんでいた。
佐伯はそれ以上問い詰めることはなかったが、明らかに気にかけている様子だった。
歌恋は、それでも何も言えなかった。
真実を口にすれば、浦部との関係が完全に壊れる気がして、怖かった。
それから一週間が経った。
歌恋は普段通りに厨房に立ち、黙々と作業をこなした。誰も彼女の変化に明確な言葉はかけなかったが、笹森がふと飲み物を差し出したり、佐伯が仕込みを手伝ってくれたりと、静かな気遣いがそこにあった。
けれど、浦部とは目も合わせていなかった。
歌恋の胸には、あの焦げたクロワッサンと、壊れた信頼の重さだけが残っていた。