第三章:変わった一言
閉店後、厨房の片隅で生地の丸め練習をしていた歌恋は、両手に軽く粉をつけながら、成形のリズムを必死に繰り返していた。集中していると、ふいに背後から足音が近づいてくる。
「……まだやってんのか」
聞き慣れた低い声に、肩が一瞬ぴくりと動いた。振り向くと、そこには佐伯が腕を組んで立っていた。照明の逆光で表情までは見えないが、その声はいつもより少しだけ柔らかく聞こえた。
「はい、早く、綺麗なパンを作りたいので」
歌恋は手を止めずに答えた。いつもならすぐに「無駄だ」「帰れ」と言われるところだ。だが今日に限って、その言葉は返ってこなかった。
「……ま、無駄じゃないとは思うがな」
しばしの沈黙のあと、彼は近づいてきて、テーブルの端の生地を手に取った。
「手の癖、少しはマシになったな」
その言葉に、思わず手が止まる。佐伯の口から“認める”ような言葉が出たのは、初めてだった。
驚いて顔を上げると、彼はわずかに視線を逸らし、そっぽを向いたまま続けた。
「……生地が素直に動いてる。お前の手も、やっと言うことを聞き始めたな」
「……ありがとうございます」
声にすると、喉が少し震えた。うれしいのに、どう返せばいいかわからなくて、胸がぎゅっとなった。
佐伯は何も言わず、そのまま扉の方へ歩きかけたが、立ち止まって振り返る。
「明日も、その調子でやれ」
短い一言を残して、厨房から出ていった。
その背中を見つめながら、歌恋は確かに感じていた。
――少しだけ、風向きが変わった気がする。
しかしその様子を、厨房の入り口の影から浦部がじっと見ていた。
彼女の瞳は静かに揺れていた。かつて仲の良かった頃の記憶と、いま目の前で交わされた小さな会話の温度に、胸の奥がざわつくのを感じながら。
彼女の指先が、無意識にエプロンの端をぎゅっと掴んでいた。