第二章:ギャップの温度差
歌恋が入社したばかりの頃、まだ厨房の空気に緊張しっぱなしだった日々。そんなとき、一番最初に声をかけてくれたのは浦部だった。
「緊張してる? まぁ最初は誰だってそんなもんよ」
冷たそうな見た目に反して、彼女の言葉は柔らかかった。最初の週は、成形のやり方や温度の感覚、バットの置き場所まで、浦部がさりげなく教えてくれた。
「店長は無愛想だけど、パンのことだけは嘘つかない。見て覚えて。あたしもそうやってきた」
そのときの言葉が、歌恋にはとても心強かった。休憩中も隣に座ってくれて、時折、冗談交じりに励ましてくれるような存在だった。
――だけど、それはほんの数週間のことだった。
今では、視線も言葉も刺のあるものに変わっている。
休憩中、歌恋はコーヒー片手にバックヤードのベンチに腰掛けていた。厨房からは湯気とパンの甘い香りが漂ってくる。
「……甘えるの、やめたら?」
静かに放たれたその一言に、顔を上げる。言ったのは浦部だった。窯担当で、無口だが仕事はできる。歌恋よりも一ヶ月早く入社しており、すでに現場に馴染んでいる。
「こっちは職人として必死なの。あなたのその“見習い気分”、迷惑なの」
言葉が刺さった。でも言い返せなかった。
浦部の言葉には、厳しさだけでなく、どこか嫉妬や苛立ちのような温度が混じっていた。かつては少し会話もしていたが、今では目も合わせてくれない。
一方、笹森は仕上げと掃除担当。50代のベテランで、口調はいつも刺々しい。朝から「まだ向いてないんじゃない?」と小言を飛ばされる。
そんな中でも、店長は他のスタッフには普通に接していた。
浦部には「今日の焼き、いい仕上がりだったな」と声をかけ、笹森には「もう少し、ここの部分こんな風に仕上げて見て」と優しく接している。
歌恋にだけ、まるで別の温度で接しているようだった。
夕方、店の裏口から見える空は、茜色に染まり始めていた。
一人で裏口の階段に腰を下ろした歌恋は、制服の袖で額の汗を拭いながら、ぼんやりと空を見上げた。
笑っているふりをして、悔しさをごまかすのにも疲れていた。
「……もう、辞めちゃおうかな……」
声に出したくなるほどの弱音が、喉までせり上がる。
でも、それを押し込むようにぐっと唇をかんで、ぐしゃりと指先でエプロンの裾を握りしめた。
涙は見せたくない。誰にも。
沈む夕日の向こうに、小さな自分の夢だけが、微かに光って見えた。