主従関係
遡るは、桜木詩織がまだ、未来ある高校生であった頃。
彼女は、誰もが振り返るような端麗な容姿を持っていた。
しかし、その美貌は、同性の嫉妬という名の毒を呼び込む結果となった。
周囲の女子生徒から、詩織は決して好かれていなかった。
始まりは些細な陰口や無視だけで済んでいた。
しかし、集団心理と劣等感に火が付くと、嫌がらせは際限なくエスカレートしていった。
根も葉もない性的な噂が校内にばら撒かれ、彼女のロッカーには生ゴミが詰め込まれた。
「私たちが正しいことをしている」という全能感から来る正義の執行は、詩織にとって、最も残酷な暴力であった。彼女の唯一の居場所である学校は、地獄と化した。
そして、彼女はそれに耐えきれず、自死の道を選んだ。
夜深く、人通りのないとある歩道橋の上。
その下には、轟音と共に電車が頻繁に行き交う線路が走っていた。
奥から光を灯しながら、地響きと共に突進してくる電車の姿が、彼女の決意を後押しする。
冷たい鉄柵を乗り越え、風にスカートを煽られながら、彼女が飛び降りようと、覚悟を定めたその瞬間―
強く、確かな手が、彼女の細い腕を背後から掴んだ。
「馬鹿野郎!何やってんだ!」
それが、新井島隼人という名の少年と桜木詩織の、運命的な出会いであった。
隼人は、汚い噂にも、詩織の孤独にも惑わされず、ただ純粋な優しさで彼女を支えてくれた。
詩織にとって、隼人は暗闇の中の唯一の光であり、命の恩人だった。
彼女は彼へ、やがて恋心を抱いた。
しかし、それはもはや、健やかな恋心ではなかった。
それは、『自分を大切にしてくれる唯一の存在』を失うことへの極度の恐怖からくる、深く、重い依存であった。
彼女と新井島隼人が付き合い始めて一年ほどが経ち、二人は高校三年生、受験生としての忙しい日々に突入した。
受験勉強に集中するため、少しの間会えなくなる前に、「最後の思い出作り」として隼人が提案した。
「夜中の学校に忍び込もうぜ。誰もいない校舎って、ワクワクするだろ?」
詩織は隼人の提案に微笑み、二人きりの夜の校舎へと足を踏み入れた。
静寂と、月明かりに照らされた廊下。
その空間は、秘密めいて、二人の愛を深めるかのように思えた。
そこで、悲劇は起きた。
二人は、夜の校舎の薄暗い廊下で、突然はぐれてしまった。
いや、正確には”はぐれさせられてしまった”のだ。
廊下の角を曲がった詩織の視界には、もう隼人の姿はなかった。
背後から聞こえる、ぞっとするような囁き声。
二人を惑わし、離れ離れにさせ、一人になった新井島隼人の首を、一口で飲み込んだのは――『骸の声』であった。
そのグチャリという悍ましい音と、隼人の声にならない短い悲鳴を、遠くから目撃してしまった桜木詩織は、すぐに音のした方へ走った。
そして、桜木詩織がその場についたときには、そこに居たのは、ただ一人のモノノケ、骸の声だけであった。
しかし、詩織の瞳には、異形のモノノケの姿は映っていなかった。
彼女の深い依存心と罪悪感が作り出した幻想か、あるいはモノノケの異能か。
彼女の網膜には、骸の声が、愛する新井島隼人の姿に映っていた。
そのとき、骸の声は、新井島隼人の声で、優しかった彼の面影を完全に裏切るように、冷たい声でこう言った。
「オ前……ノセイデ……俺ハ……死ンデシマッタ……」
その言葉は、自死を止めてくれた恩人に対して自分が罪を犯したのだという、詩織の胸の奥底に巣食っていた罪悪感を抉り出した。
嫌がらせに耐えきれず、結局、彼を巻き込んだのは自分ではないか、と。
嫌われたくなかった。
この世でたった一人、自分を救ってくれた『光』が、自分のそばから消えてしまうのが怖かった。
桜木詩織は新井島隼人を愛していた。
しかし、それは、新井島隼人という『自分を大切にしてくれる存在』への絶対的な執着と依存であった。
その依存と恐怖に突き動かされ、詩織は涙を流しながら、異形の姿に映る隼人に向かって必死に尋ねた。
どうすれば許してもらえますか?何をすれば私のそばから居なくなりませんか?
そして骸の声は、静かに、優しげな隼人の声で、その最も欲しているものを要求した。
「腹ガ……減ッタ……」
詩織は理解した。
彼の飢えを満たし、この世に繋ぎ止めること。
それが、彼を失った罪を償う唯一の方法なのだと。
その日から、桜木詩織の永きにわたる献身と狂気の罪滅ぼしが始まった。
◇
校庭にいる塁と千弘、海良木さん、そして氷花さんは、遠くから、骸の声と桜木詩織が何事か話し合っている様子を視ていた。
「何話してんだ?」
塁は氷花に問うた。
「私が知るわけ無いでしょ。というか誰よあの女」
氷花は、険しい表情で刀を握りしめながら塁を睨む。
「桜木先生。僕もよくわかんないけど、骸の声のボス?みたいな感じじゃない?」
塁はその質問に曖昧に答えた。
それを聞いた氷花さんは「ボス……?」と口ずさみ、少し考えこんでから突如として目を見開く。
「まさかッ……!!」
なにかに気づいたような様子を見せると、唐突に骸の声の方へと全力で走り始めた。
塁はそれを見て「氷花さん!?」と叫ぶも、氷花は止まらない。
氷花は走りながら、切羽詰まった声で塁たちに叫んだ。
「あいつは今、成体に成ろうとしている!!成体だと思っていたあいつは、まだ胚だった!!今のうちに殺せ!!殺せなければ、我々は負ける!!」
その言葉は、式神と主人の関係性を示唆していた。
主従関係を結んだ式神は、主人が自身を式神に喰わせることで、とてつもない力を得て進化する。
桜木詩織と骸の声は、餌を与える主人と、その餌を喰らう式神という、歪な主従関係を結んでいたのだ。
それを聞いた海良木は、氷花と同じようにすぐさま骸の声のもとへ疾走する。
その意味は理解できなかったが、とにかく何かヤバいものが来ると塁と千弘は直感で理解し、骸の声へ全力で走った。
しかし、時すでに遅し。
塁たちが半ばまで走り寄った瞬間、骸の声は口を大きく開き、桜木詩織の頭を食いちぎった。
グチャッ!という鈍い音と共に、大量の血が頭のない身体から勢いよく流れ出て、その身体はすぐに力なく地面に倒れた。
桜木詩織は、最期まで恍惚とした微笑みを浮かべていたように見えた。
桜木詩織を喰らい、その霊力を取り込んだ骸の声に、いち早く近づいたのは氷花だった。
(よし!まだいける。取った!!!)
氷花は霊力を最大に込め、渾身の斬撃を骸の声の首目掛けて繰り出す。
しかし、その斬撃は空を切っていた。
骸の声は、そこに存在しない。
その斬撃と同時に、氷花さんの体中に、無数の鋭利な切り傷が現れた。
傷口から血が勢いよく吹き出し、氷花は呻き声一つ上げられずに、力なく地面に倒れた。
そして、その背後には、先程の灰白色の異形とはかけ離れた異様の姿をした骸の声の「成体」が立っていた。
その姿は、全身が漆黒の硬質な甲冑のような皮膚に覆われ、四つの角が頭部から突き出し、腕は六本に増えていた。
下半身はぼろ布ではなく強靭な竜のような尾に変わり、全身から禍々しい霊力を発していた。
そして、先ほど氷花が使っていた氷を纏った刃を、骸の声の一番下の腕が掴み、空中に浮いていた。
その足元からは、以前と同じように無数の白い手が地面から生えていた。
その姿に成った瞬間、骸の声の異能によって操られていたクレイルの隊員達は、正気に戻った。
彼らは何が起きたか分からず、ただ恐怖に染まった目で異形のモノノケを見つめている。
そして成体となった骸の声は、その六本の腕と漆黒の体躯を晒しながら、茫然と立ち尽くす塁に向かってこう言い放った。
「もう傀儡は必要ない。さぁ、始めようか」




