第二十話:可愛い子が泣いてるとちょっと興奮する
塁は、その灰の中から、静かに立ち上がっていた。
塁の右手に握られているのは、先ほどの『剱』とは全く異なる武器だった。
黒い鞘に収められた、一見すると何の変哲もない日本刀。しかし、その刀身は光を吸い込むように鈍く輝いていた。
絶刀:空絶
『凰剣:剱』が広範囲の破壊と防御に特化した重剣であるのに対し、この『絶刀:空絶』は、その名の通り一点突破と速度に全てを賭けた刀身だ。
刃先のカゲロウの密度を極限まで高め、空気抵抗をゼロに近づけることで、目視不能な速度での斬撃を可能にする。一撃の重さはないが、その切っ先は、霊力を帯びた存在の霊核を正確に断ち切るために研ぎ澄まされている。
塁は『空絶』を抜き放ち、次々と迫りくる少女たちを切り裂いていく。
シュン、シュン、シュン!
鋭い金属音が鳴る暇もなく、塁の体が少女たちの群れの中を駆け抜ける。一瞬で数十体の少女の体が宙を舞い、切り裂かれた断面から蔓を出しながら床に落ちた。再生する間も与えずに、塁は再び同じ少女たちを切り裂き、完全に消滅させていく。
だが、どれだけ薙ぎ払っても、闇の奥からは次々と新たな少女たちが湧き出てくる。
「っし!」
塁は狙いを、闇の境界線でうずくまっている本体らしき少年へと定めた。
カゲロウが足に集中し、塁は地面を蹴った。残像を残して少年へ肉薄する。
その速度は、少女たちの追従を許さない。
塁は少年の目の前まで到達し、迷いなく一太刀を浴びせた。
しかし、その刃は空を斬った。
手応えがない。刀身は、少年の体を水面のようにすり抜けたのだ。
「――っ!?」
塁は一瞬、当たらないことに戸惑ったが、すぐに背後から迫る少女たちの気配と、本体を狙われたことで狂乱したように千弘へと標的を変える少女たちの動きを見て、即座に判断を下した。
「千弘!」
僕は踵を返し、来た道をさらに速い速度で戻る。少女たちの猛攻は全て背中で受け、体力を削られながらも千弘の元へ到達した。
「危なかったー!」
千弘を背後に庇いながら、僕は再び『空絶』を構える。
「主よ」
すると低い声を唸らせ、カゲロウが声を出す。
「どうした?あいつでなんかわかったのか?」
「はい。あの少年の中をすり抜けた際、僅かな霊力の痕跡を検知しました。そして、その霊力と、主の背後にいる童の霊力の波長が酷似しております」
「つまり?」
「あくまでおそらくなのですが、その童をどうにかしない限り、あいつに物理攻撃は厳しいでしょう」
それを聞いた塁は、戦慄した。
千弘が、ここの創造主かもしれないというのか。
だが、今はそれを考える時間はない。
少女たちの次の波が、既に押し寄せている。
「わかった、一旦任せるぞ!」
塁は深く集中し、カゲロウに変身の指示を出した。
「かしこまりました。主よ」
カゲロウは、刀の形から一瞬にして溶解し、禍々しくも壮麗な人型の鎧武者の姿へと変形した。その名は
『自立型鎧装甲:黒夜叉』
全身は漆黒の甲冑に覆われ、無機質な黒いマスクと、筋肉質な胴体を持つ巨漢の装甲だ。その右手には、塁の身長よりも長い、黒い長尺刀が握られている。
黒夜叉は、その長尺刀を少女たちに向け、轟くような声で言った。
「主の代わり、このカゲロウがお引き受けいたしましょう。さぁかかってくるが良い。塵芥と成る覚悟があるならば……な」
戦闘は、まさに豪快そのものだった。
黒夜叉は、その長尺刀を力強く一閃する。
少女たちが密集している箇所を、風と雷鳴を伴って振り抜くと、五体、六体がまとめて切り刻まれ、黒い塵となって弾け飛んだ。
そして、その長尺刀はカゲロウでできているため、刃渡りが自在に変形し、鞭のようにうねるように広範囲を薙ぎ払った。
黒夜叉は、接近してきた少女を、そのゴツイ剛腕で殴りつけたり、地面に叩きつけたりする。
装甲の表面を走る黒い光は、少女たちの体を一瞬で焼き焦がし、再生速度を鈍らせた。
その姿は、まるで黒い雷神が荒れ狂っているようであった。
「久しぶりだからすげー暴れてんな…」
それを遠目で視ている塁。
黒夜叉の激しい攻撃が少女たちを塵に変えていく中、塁は守られている千弘に静かに向き直った。
「なあ、千弘」
塁は警戒するように周囲を見回しながら、声を落とした。
「さっきの悠くんってやつ、お前と何か関係あるのか?」
千弘の表情が、一瞬で暗い影に覆われた。
「え……なん、のこと?」
千弘は視線を逸らし、戸惑いを隠そうとする。
「とぼけんな。あいつ、明らかにお前だけを狙ってた。それに、『俺の千弘』とか言ってたろ。お前、あいつを知ってるんじゃないのか?」
塁の問い詰めは、単なる好奇心ではなかった。
この異様な空間は、千弘の心の傷と深く結びついている可能性が高い。
千弘は顔を俯かせ、唇を噛みしめた。
黒夜叉の長尺刀が風を切り裂く音だけが、二人の間に響く。
やがて、千弘は小さな声で、しかし、決意を込めたように語り始めた。
「……うん。知ってるよ。彼は……僕の最初の友だちだった」
◇
中学二年になったばかりの頃の僕は、相変わらず引っ込み思案で、クラスに馴染めずにいた。休み時間はいつも自分の席で本を開くか、窓の外を眺めるばかりで、なかなか友だちはできなかった。
そんなとき、僕に声をかけてくれたのが悠くんだった。
「いつも一人でいるけど、何読んでるの?」
彼は少し茶色がかった髪をしていて、人当たりの良い笑顔を向けてくれた。初めてクラスメイトから気にかけてもらえたことが、僕は本当に嬉しかった。悠くんは、人見知りな僕に対しても根気よく話しかけてくれて、僕は次第に彼に心を開いていった。
そのおかげか、僕はクラスに馴染めるようになり、何人か友達もできた。
だから僕にとって、悠くんは初めてできた心からの友だちだった。
しかし、時が経つにつれて、彼の僕に対する態度は少しずつおかしくなっていった。
会話中に、僕の顔や全身を舐め回すような視線で見るようになり、何でもない瞬間に異様にボディタッチが増えた。腕や肩を触られるたびに、少しゾッとするような嫌悪感を覚えたけれど、僕はそれを友だちが少ないから、この程度のことは気にしなくていい、と自分に言い聞かせていた。悠くんを失うのが怖かったのだ。
そして、ある日の放課後。
悠くんに大事な話があるから、皆が帰るまで教室に残っていてほしい、と呼び出された。
何かあるのだろうかと気になりながらも、僕は皆が下校した後の静まり返った教室に足を運んだ。
ガラリと引き戸を開けて中に入ると、そこにいたのは悠くん一人だけだった。
僕が中へ入った瞬間、悠くんは迷うことなく音を立てて扉の鍵を閉めた。
僕は声を出す暇もなかった。彼は勢いよく僕の方へ歩み寄り、そのまま強く突き飛ばした。バランスを崩した僕は、ドンッという音と共に、机と机の間に押し倒されてしまった。
な、何するの…?
恐怖で声が震えた。見下ろす悠くんの顔は、いつもの優しい笑顔とは違い、執着に歪んだような表情をしていた。
「ずっとお前のことが気になっていたんだよ、千弘」
彼は、まるで秘密を打ち明けるように囁いた。僕は全力で否定した。
ま、待ってよ!僕は男だよ…!
僕が男であるということを伝えても、悠くんの瞳の色は変わらない。それどころか、彼の顔はさらに僕に近づいてきた。そして、彼はゆっくりと自分のズボンのベルトに手をかけ、バックルを外し始めた。
カチャリ、という金属音が、静かな教室に響き渡る。
それを見た瞬間、僕の頭の中に響いていた警鐘が悲鳴に変わった。僕は自分の身に何が起ころうとしているのかを明確に理解した。
恐怖と嫌悪感で体が動かなくなりそうだったが、僕は湧き上がった力を振り絞って、全力で悠くんを押しのけた。
離して!
彼は不意を突かれ、一瞬よろめいた。僕はその隙に、開けてしまった自分の服を手で抑えながら、死に物狂いで鍵のかかっていない窓へと飛びついた。
ガタガタと音を立てながら鍵を開け、廊下へと飛び出した。無我夢中で走り出す僕の背後で、教室の戸が静かに開く音が聞こえた。
走り去る最中、怖くて一瞬だけ後ろを振り向くと、教室の入り口に立っている悠くんの姿が見えた。彼は静かな闇のような瞳で僕を見つめ、口元だけを微かに動かして呟いた。
「覚えてろよ……!」
◇
千弘は顔を上げ、目に涙を浮かべながら、話し続けた。
「その一件があってから……僕は、いじめられるようになったんだ」
(呪いの始まりか……)
周りに自分の変な噂を流されたり、皆が自分を除け者のように扱ったりするようになった。教室では誰も口を利いてくれず、休み時間には視線だけで存在を否定された。
「そのせいで、僕は本当の自分を隠すようになった。どうにか皆ともとの関係に戻ろうと、偽物の自分を創り出してしまったんだ。誰からも嫌われないように、常に笑顔で、常に優しく、常に周りを気遣う……そんな『良い子』の千弘を」
その話を聞いた塁は、(もしかしたらそれが関係してるのかもなー)と考えた。千弘が創り出した「偽物の自分」、そして「抑圧された本当の自分」が、この空間の核になっているのではないか。
「話はわかった。だが、解決策はある。多分だけど、この空間の本体は、お前の『もう一人の自分』だ」
塁は黒夜叉が戦う奥の闇を指差した。
「とりあえず、あの少年に話しかけよう。それが、この状況を終わらせる唯一の方法だと思う」
怖がりながらも、千弘は塁の提案を拒否しなかった。彼にはもう、逃げ場がないことを知っていた。
「……うん」
黒夜叉が少女たちを一掃する一瞬の隙を突き、二人は少年の下へとたどり着く。
千弘が勇気を振り絞り、その少年に話しかける。
「ねぇ……君は…僕…なの?」
その問いかけに、少年は膝からゆっくりと顔を上げた。
その少年は、まるで少女のように整った顔立ちで、千弘そっくりであった。
しかし、その顔にはあるはずの眼が無く、眼窩からは黒い液体が涙のように流れ出ていた。
それは、千弘が押し込めてきた絶望と孤独そのものの色だった。
千弘はその少年に、とめどなく涙を流しながら、今まで自分が皆に嫌われないために本当の自分を隠してしまったこと、偽りの仮面を被って生きてきたことを話し始めた。
「ごめんね……君を、一人ぼっちにして……僕が怖かったから、君をずっと閉じ込めていたんだ……」
千弘は、自身のトラウマを具現化した存在に対して、初めて正直な気持ちをぶつけていた。
塁は、その様子を、黒夜叉のすぐ横で、少し離れたところから静かに視ていた。
千弘は嗚咽を漏らしながら、眼球のない少年と目を合わせるように顔を上げる。
「あの時、悠くんに襲われて、怖くて逃げたのは僕自身だ。でも、本当に怖かったのは、その後の周りの目だったんだ。誰も信じてくれなくて、みんなが僕から離れていくのが。だから、僕は君を置いてきた。みんなに嫌われないように、『そんなことはなかった』って嘘をつく、別の僕になった」
涙で声が震える。
「君は、僕が蓋をした孤独と本当の痛みだよね。この暗闇で、ずっと『見てほしい』って叫んでたんだ……僕が君の存在を否定するたびに、君はここで、僕が受けた苦しみを代わりに全部引き受けて、苦しんでいたんだね」
「もう、やめよう。君は、僕が最も嫌われたくなくて捨てた、僕自身なんだ。僕の汚い部分も、脆い部分も、全部君が持っていてくれた。一人じゃないよ。もう誰も、君を傷つけられない」
そして千弘は、心からの言葉を紡いだ。
「もう、大丈夫だよ。絶対に……一人にしないから……!」
千弘が心からの言葉を紡いだ、その瞬間だった。
千弘そっくりの少年が、眼球のないまぶたを大きく見開き、その細い手を手刀のように鋭く変形させて、千弘へ向かって放った。
「へ…?」
それと同時に、塁も反応し、地面を蹴って走り出す。
ザシュ!!
少年の手刀が千弘を襲おうとした瞬間、その手刀は千弘の顔のすぐ横をかすめ、背後に居た蔓の手を貫いた。
少年は、千弘を襲おうとしたのではない。彼の背後から、千弘を捕らえようとしていた蔓の手から千弘を守ろうとしていたのだ。
それを知った千弘は、嗚咽を漏らしながら、眼窩から黒い涙を流す少年を強く抱きしめた。
「また……助けられちゃったね……。じゃあ今度は僕が君を守る番だ……!」
千弘の心からの言葉が少年に届いた瞬間、二人がいる場所を中心に同心円状に明るい、優しい光が広がっていった。その光は、音もなく体育館全体を包み込む。
その光は、蔓の手や少女型のモノノケを浄化するように消していき、やがて視界のすべてを奪うほどの眩い光となって、闇を支配する空間を塗り替えた。




