トリトンの恋
今日の海は、随分と静か。
何かあったのかしら、とマリアンヌが浜辺に出てみると、波打ち際に背の高い男性が立っていた。
彼は銀色に煌めく髪の毛を後ろになでつけ、白いシャツに白いスラックスを履いている。
そして何故か、濡れていた。
何だか目映い方だなあと思って眺めていると、その切れ長の瞳がマリアンヌを捉えた。
「マリアンヌ、会いたかった。これを、お前に」
彼は瞳に少しの温かさをにじませて、何かを彼女に差し出した。
彼女が条件反射で手のひらを広げると、ひんやりとしてぬるりとした何かが乗せられた。
思わず放り投げたくなったが、そういうわけにもいかずにこわごわ見れば、両手の上にウミウシが乗っていた。
「ひっ」
さすがに声を上げてしまったけれど、彼は照れたように笑った。
「以前マリアンヌがウミウシを可愛いと言っていたから、全海のウミウシを集め投票をした。その中で1番票を集めた1体だ」
確かにマリアンヌはウミウシが好きだが、あくまで観賞用としてである。たまに見るから可愛らしいのであって、持ちたいだとか、欲しいなどと思ったことはない。
しかし、たくましい胸を誇らしげに張るこの見知らぬ男にそう告げるのは、どことなく心苦しい。
「今度は、サンゴを持ってくる。愛しいマリアンヌ。どうか健やかに」
マリアンヌがどうしたものかと迷っていると、男は額に垂れてきた水をグイと無造作に拭った。そしてマリアンヌの額に口づけをして去って行く。
ウミウシを返す隙は、無かった。
ウミウシって、どうやって飼うの?
マリアンヌは現実逃避をすることにした。
◇ ◇ ◇
ウミウシを贈られて、数日。
いただいたウミウシを、勝手に海に戻すのは何となく気がひける。
海水を入れたバケツに入れて、ミウと名前をつけた。
朝晩挨拶をしているとそれなりに愛着が沸いてくる。
その日も、ミウを陽に当てようとバケツを抱えて外に出た。
そこに、あの男性が立っていた。
今日もどことなくしっとりとしていて、その大きな手にはサンゴが乗っていた。
「約束したサンゴを持ってきた。大きさと形、ともに気に入るものがなかなか見つからず、遅くなってすまない」
約束、したかしら?
マリアンヌはその大きくて形のいいサンゴを眺めて、それから彼に聞いた。
「あの、何方でしょうか」
「トリトンだ。マリアンヌ、君が浜に上がった魚たちを海に戻している姿に胸を打たれた。是非我が妻として迎え入れたい」
トリトン。
何処かで聞いたことがあるような気もするが、思い出せない。
少なくとも自分の知り合いには、いない。村の誰かの親戚なのかもしれない。
そうだとしても会ったことは、ないと思う。
「あの、まだ2回しか会っていませんし、妻になるのはちょっと…」
断るとトリトンは眉をしかめ、「ふむ」と唸ってから、ニカッと笑った。
「そうか。では、これからは毎日会いに来よう」
マリアンヌは断る理由も浮かばず、トリトンを見送った。
サンゴはそこそこの大きさだったので、玄関の横に飾った。家が少し、明るくなった気がした。
◇ ◇ ◇
トリトンはその言葉通り、それから毎日やって来た。
暇なのかなとちょっと思ったけど、彼の話は面白く、またその声は穏やかで、いつしかマリアンヌは彼がくるのを楽しみに待つようになった。
ただ気になるのは、帰るときに海へと入っていくこと。
少し離れたところに船でも結わえて来ているのかしら。泳ぎが達者で、対岸まで泳いで帰るのかもしれない。対岸の町は栄えていて、そこに住む人はみな煌びやかだと聞いたことがある。
次に来た時に聞いてみようと思うのに、次の日には忘れてしまう。
マリアンヌは元来、それ程深く考える質ではなかった。
◇ ◇ ◇
トリトンが毎日訪れるようになって数か月経ったある日の夜明け、突然海が荒れた。
マリアンヌの父は、漁師だ。父は今日も漁に出ているはずだと、慌てて港へ駆けつける。
そこには漁師の家族達が集まっていた。みんな、荒れた海をただ祈りながら眺めていた。
幼なじみのロイの姿を見つけて、駆け寄る。彼の父とマリアンヌの父は、同じ船に乗っている。
「今日はやけに荒れるな」
「さっきまでは、凪いでいたのにどうして」
吹き荒ぶ風に飛ばされないよう、ロイと手を繋ぎ荒れ狂う海を見つめた。
皆が祈りながら海を見つめていると、突然、海が割れた。その中を1人のたくましい男性が歩いてくる。
トリトンだった。
トリトンは、ロイと繋いでいたマリアンヌの手を強引に取り、その手を海水でそそいだ。
そらから彼女の瞳をまっすぐに見つめた。いつもマリアンヌを見つめる温かい瞳が、今日は彼女を鋭く射貫くように光った。
「マリー、ロイとは誰だ。お前はその男の嫁になるのか」
マリアンヌはぽかんと口を開けて、トリトンの顔を見上げた。
急に名前を呼ばれたロイも、ぽかんと口を開けて、突然海から現れた男性を見上げた。
ロイもそこそこの長身だが、そのロイが見上げるほど背が高かった。
「トリトン、ロイはこの子よ。ロイ、こちらトリトン」
マリアンヌが隣に立つロイを紹介すると、トリトンは敵を見つけたかのように睨み付ける。
雷がいくつも落ち、海の波が更に高くなり、港にまで入ってきた。
家族の無事を願っていた者達は、慌てて高台へ上がった。
ロイも逃げたかったが、脚が恐怖で動かない。この男の前に立つくらいなら、波にのまれたほうが幾分かましにすら思えた。
「トリトン、急にどうしたの?私はロイと結婚はしないわよ。ね、ロイ」
そう呼びかけられたロイは、首をぶんぶんと勢いよく振った。
本当は、いつかマリアンヌと結婚できたらいいなーと淡い恋心を抱いていた。
だがここでそれを言ってしまうと、自分の身が危ない気がする。ロイは引き際を見極める勘だけは鋭かった。
命の危機を感じながらも、マリアンヌが自分との結婚を一切考えていないようなことに少し落ち込んでもいた。少しくらい意識してくれていると思っていたのに。
そんな少年の複雑な心の内など知らないマリアンヌは、トリトンを見上げてにっこりと笑った。
「それに、トリトンが私をお嫁さんにしてくれるんでしょ」
彼女がそう言った瞬間、海は凪ぎ、空が明るく輝き、トリトンの顔も輝いた。
「ああ、ああ勿論だとも!愛しいマリー、私の妻となってくれるか」
「ええ、何だかまだ知らなければいけないこともあるような気がするけれど、私も貴方と一緒にいたいわ」
カモメが歌い、貝がリズムをとり、魚たちが弧を描いて宙を舞う。
トリトンはマリアンヌを抱きあげ、そのまま海の中に連れて行った。
後に残されたのは、凪いだ海と初恋敗れた少年、それから困惑だった。
◇ ◇ ◇
海王トリトン。
海を統べ、海を護る北海の王。
海のことで彼が知らないことはない。
漁師たちの海上での世間話も、彼の耳からは逃れられない。
ましてや愛しいマリアンヌの父の船は、難破しないよう常に視ている。
マリアンヌが傷つくことが、砂一粒分もないように。
その日も彼らを視ていた。
「マリアンヌがロイの嫁に来てくれたら、我が家も安泰なんだけどなあ。どうだよ、ジョー」
「昔から見知っていて仲も良いから、そういうこともあるかもな。ははは」
「そうなったら俺らは親戚か!」
「悪くない!」
マリアンヌの父と同僚の会話を聞いた瞬間、カッと目が熱くなった。胸にどす黒い渦が巻き、その感情を抑えきれなくなった。
マリアンヌが、他の人間と…。
トリトンの感情に呼応し、海は荒れた。
マリアンヌに、会いに行かねば。
もし先ほどの話が本当ならば、私は――。
この後、マリアンヌから結婚の承諾を得られるなど夢にも思わないトリトンは、海水を割りマリアンヌの元へと急いだのだった。