第13話 若林先生のこと
「前期の期末考査を返します」
10月中旬。
今年度後期の最初の授業である。
ここで少し説明しておくと、現在、亀島高校は前期・後期の二期制をとっている。4月~9月末までが前期、1週間ほどの「秋休み」を挟んで10月~3月末までが後期である。
教壇ですくっと立った若林先生が、まるで古代の帝王のように、座っている生徒全員を睥睨しながら言った。
若林先生は長身なので、こういう場面では見栄えがする。
「平均点は55点……最高点は」
と、若林先生はここで一呼吸置いて、
「なんと100点」
と言った。
「みんな、ごめんな、俺やわ~」
と、例によって北川が叫んだが、
「んなわけ、ないだろ!」
と周りから即座に否定されている。
若林先生はそんなやりとりは全く無視して、
「青田君……伊藤さん……上田君……」
と、眼鏡のフレームやショートカットにしている髪の毛を時折、神経質そうに触りながら、出席番号順に少しアンニョイな口調で生徒の名前を呼んでいく。生徒は呼ばれた順に、まるでベルトコンベアに載って運ばれていく工場の部品のように前に出て、自分の答案を受け取っていく。
それでも、若林先生はソラの番になると、
「星野、星野宇宙君、すごい、100点ね! 先生、最後の論述問題も満点あげたよ!」
と、みんなの前で褒めた。
何人かの生徒が息を呑み、声にならない声が上がる。
ソラはいたって冷静な態度で自分の答案用紙を受け取って席に戻る。
「すごいね、ソラ君」
ユキが声をかけると、ソラは初めて、はにかむような笑みを浮かべた。
その日の放課後。
「ちょ、ちょ、先生。待ってくださいよぉ!」
河村先生がユキの右腕を掴んで、担任室へ引っ張ってきた。
「もう~、今度という今度は許さないわ! 言うにこと欠いて……」
世界史の授業中にまたしても居眠りを注意されたユキは、その時に半分寝ぼけ眼で、
「あなたは私が居眠りをしている幻を見ているのだぁ!」
と叫んだのだ。
以前、人間の視覚なんて当てにならないなどと、ソラから言われたことが頭の中にあったのかもしれない。
教室内は大爆笑。ユキは恥ずかしさで真っ赤。若林先生は大激怒である。
ユキは思う。
寝ていたことは事実なので、それについて叱られるのは仕方がない。でも、故意に若林先生を馬鹿にして言ったわけではない。
でも、そんなこと言っても信じてもらえないだろうなぁ。
だいたい若林先生は、根がクソが付くくらい真面目そうだから、このお説教は長くなりそうだ。もしかしたら学年主任の堀川先生に言いつけられて、余計に叱られるかも知れない。あの先生もむやみに話が長いからなぁ……。
担任室へ入ると、そこには誰もいなかった。
ユキは若林先生の机の横に立たされ、先生が、
「だいたいね、あなたは今年度の授業の1時間目から……」
と、言いかけたところでドアがノックされ、人が入ってきた。
ソラだ。
「失礼します。若林先生、この前お願いした質問の件ですが……」
と、ソラが言いかけると、先生は、
「えっ? あれっ? 質問? 約束してたっけ?」
と、急にドギマギしながら言った。
「はい、今日の放課後すぐに来るようにと言われていましたが……」
「あ、あっ、そう。そうね。先約か……じゃあ、山口さん、次回からは気をつけるように……」
と、若林先生が言いかけたところでソラは、
「よろしければ、山口さんも一緒ではダメですか?」
と言った。
ソラは若林先生の返事を聞く前に尋ねた。
「先生はどうして世界史の先生になろうと思われたのですか?」
「さあ……どうしてかしらね」
と、椅子に座った若林先生は小首を傾げるような仕草で小声で言った。
「もったいぶらずに教えてください。僕、若林先生の授業を聴いていていつも思うのですが、先生はものすごい量の知識というか学識をお持ちです。でも、それを生徒の前ではなるべく出さずにおこうとされているように見えて仕方がないのですが」
と丁寧な口調で話すソラ。
「どうして、そんなことを聞きたいの?」
「僕たちの進路を考える際の参考にしようと思って」
──「僕たち」って?
ユキは、この言葉に自分も含まれていることに気づいた。
そういえば、ユキもとりあえず大学に進学する気でいるので、来年は受験生だ。そうなると、いやでも志望校を決めなければならない。
でも、この時のユキは、まだ自分が将来大学で何を勉強をして、どんな仕事に就いたら良いのか、見当がつかなかった。
クラスメイトの中には、「学校の先生になりたい」「看護師になりたい」などと、はっきりと自分の将来の職業希望を言える子もいるが、そのことをユキは信じられない。仕事に対する具体的なイメージが湧かないのだ。
学校の先生になりたければ教育学部に、看護師になりたければ看護学部に進学すればよい。だが、ユキはどの大学、どの学部に進学すべきか決めかねていた。
自称「リケジョ」のユキとしては、理系の大学へ進みたいのだが、工学部にせよ理学部にせよ、はたまたそれ以外の学部にせよ、志望先をどうにも絞りかねていた。
「進路を考えるって、二人とも大学で歴史学をやりたいというわけじゃないよね?」
中間考査で100点を取ったソラはともかく、ユキに関しては疑問に思われても仕方がない。ユキは中間考査は57点、クラス平均点より2点高いだけだ。そんなの「出来る」うちに入らない。
「はい、進路をどうやって考えたらいいのかわからなくて、とりあえず参考までに先生のお話をうかがおうと思って……」
若林先生はソラの言葉に、
「ふうん、そうなの」
と、少し気のない雰囲気で返事をした。
「私の話なんて、あなたたちの参考にはならないわよ」
そこでユキは勇気を振り絞って尋ねてみた。
「あの、先生、実を言うと私、どうして世界史を勉強しなくちゃいけないのかわからないんです。そこから、教えてもらえませんか? 先生個人のお考えで結構ですから」
「そこから? 要するに勉強意欲が湧かないから動機付けが欲しいと言うのね」
と、若林先生はまるで二人に独り言をつぶやくように話し始めた。
「世界史なんて何のために勉強するの、っていう質問は世界史を暗記科目とだけ思っている高校生がよくするんだけど」
ユキはドキッとした。まさしくその通りだったからだ。
「でもね、世界の過去を知らなかったら、世界の現在はわからないのよ。現在、世界の各地で起こっている戦争の原因は、突き詰めると過去の歴史に行き着きます。現在の政治制度や習慣も、すべて歴史にルーツがあります」
なるほど、言われて見ればその通りだ。
「あと、外国人と友人になると、価値観の違いにぶつかります。そうすると、『どうしてこの人は、こんな考え方をするのか?』とか『どうしてこんな性格なのか?』と、考えるようになるでしょう。それも歴史に答があるのよ。つまり、世界史を学ぶと、世界の動きが理解でき、外国人との付き合い方も何も知らないよりはうまくいくと思う。直接、外国人と関わらない人でも、たとえば、『選挙で誰に投票するか』と決める時に、『より適切な政策を主張している候補者は誰なのか』と判断できるようになると思うよ」
「そういうものなんでしょうか?」
と、ユキは俯き加減で、若林先生を上目遣いで見る。
「そういうものなのよ……ただ、そういう自覚の無い人には、そういうことはわからない。なぜって、自分がそうしてないし、そういう人の周りにいる人たちも、多くはそういう生き方をしていないから、考えないことが普通になってしまっている」
ここで若林先生は言葉を句切った。
「たとえば、最近の日本と隣の国々との問題などは、近現代史の知識が無いと、テレビのコメンテーターの薄っぺらい発言の受け売りか、ネットのフェイクに騙される可能性が増すと思うよ」
と、後から思い出してみると若林先生は授業中には言わないような、なかなか辛辣な発言をした。
「で、それすら見てもいない人は、そういう話題には入れないし、結果的にはそういうことを知らなくて仕事に大きな支障が出ることもあると思うの。世界史は、『歴史は繰り返す』ということわざの通りだから、自分の人生に必ず役に立つと思うわ。というか、好きな人はもう役立てているけれど、そうじゃない人は、そういうことをわからずして一生を終えると言ってもいいんじゃないかしら」
そこで若林先生は小さく息を継いだ。
「もちろん、世界史の教師といっても、一人で全ての時代や国の歴史を押さえているわけじゃないのよ。それはわかるよね」
「はい」
と二人は答える。
「実は私はね、大学では歴史学じゃなくて考古学を専攻したのよ」
「えっ、初耳です。すごいじゃないですか」
と、ユキ。
「初耳でしょうね。生徒の前どころか、先生同士でもあまり言ったことないもの」
と若林先生は言い、さらに、
「別にすごくはないわよ。ただ、もっと現地で発掘調査をしたかった、とは今でも思ってるの」
と、言葉を継いだ。
「先生は実際に遺跡を掘られてたんですね」
と、ソラが訊いた。
「ええ、海外のね」
この時だけ、若林先生はどこか誇らしげな口調だった。さらに、ソラが尋ねる。
「どこを掘ってみえたのですか?」
「遺跡って、吉野ヶ里とか三内丸山とかですか?」
と、ユキが頓珍漢なことを言い出すと、
「違うよ。海外って、いま言われたじゃないか」
と、ソラが即座に突っ込む。
若林先生は笑いながら言った。
「カマン・カレホユック遺跡」
「カマン……ヒッタイトですか?」
と、ソラが即座に応じた。
ヒッタイト帝国。
紀元前2000年頃から小アジアで活動した、インド‐ヨーロッパ語を用いた民族が、紀元前18世紀に小アジアのクズル・ウルマック河(赤い河)流域に建国した帝国。
馬と鉄器を使用し、紀元前14世紀には小アジアを中心に大帝国を建設し、紀元前1286年のカデシュの戦いでは、国王ムワタリ2世がラムセス2世率いるエジプト軍を撃退する。この時、世界最古の講和条約が結ばれた。
しかし、紀元前12世紀に入ると急速に衰退し、紀元前1190年頃、「海の民」の侵攻によって滅ぼされたと伝わる(紀元前1200年のカタストロフ)。その楔形文字はすでに解読されている。
「さすが、星野君はよく知ってるわね。その通りよ、トルコのカマン・カレホユック遺跡よ」
今日の若林先生はソラをよく褒める。
一方、ユキはソラの耳元で、
「ソラ君、そこって、そんなに有名なところなの?」
「そうだよ。製鉄関連の世界最古級の遺跡だよ」
「へえ、そうなんだ」
「ヒッタイトはね、『鉄を生み出した帝国』だって、授業でも出てきたじゃないか」
二人のやりとりを若林先生はいつの間にか微笑みながら聞いている。
「あれ、あれ、仲のよろしいこと」
しかし、ユキは即座に、
「そんなんじゃ、ありません」
と言い返す。
ソラは困ったような顔をして黙っている。
若林先生が言った。
「私の祖母が子供の頃に『天は赤い河のほとり』っていうタイトルの少女マンガがあってね。私も祖母の持ってたそのマンガを読んで初めてヒッタイトを知ったのよ。なんかオタクな話だけど」
「あ~、それ、知ってます!」
ソラが何か言う前に、ユキが声と右手を上げた。
「私もお祖母ちゃんの持ってたマンガを読みました!」
「そういうのはよく知ってるのね」
と、若林先生に言われると、
「『そういうの』って」
「サブカルチャー、ってことだよ」
と、ソラがフォローする。
『天は赤い河のほとり』とは、もう今から半世紀も前に『少女コミック』に連載(1995年~2002年)された篠原千絵作の少女マンガである。現代日本に住む女子中学生が、古代ヒッタイト帝国にタイムスリップして活躍するというストーリーで、2046年現在でも少女マンガ唯一のヒッタイトものだった。
その後、若林先生は独り言をつぶやくように、自分語りを始めた。
「私は高校生の時は自称歴女でね……でも、歴女っていっても、人気のある戦国時代とか明治維新にはあんまり興味が無くて、もっぱら古代オリエント史、特にヒッタイトね」
「すごい、小学生の頃から憧れて、そのまま大学まで行ったんですか」
ソラも驚きの声を上げ、さらに質問した。
「先生がそこまで考古学に関心を持たれた理由を教えてください」
「そうねえ……」
と言って、一呼吸置いてから若林先生は話し始めた。
「私は子どもの頃から歴史が好きだったから、レポーターが世界各地の遺跡などを訪れて歴史や文化、伝説などにまつわるミステリーを解き明かす、ドキュメンタリー番組をよく見てたわ。それから、古い時代のものが好きだったから、博物館や美術館の特別展なんかにもよく行ったわね。さっきも言った通り、高校生の時には、一番好きな授業といえば、なんといっても世界史だったの」
「へ~、やっぱりなぁ」
とユキはチャチャを入れるように声を上げるが、ソラは、
「しっ」
と、人差し指を唇に当ててたしなめる。
若林先生は続ける。
「そして古代文明に興味を持ったの。メソポタミア文明とかエジプト文明とか」
「なぜですか?」
「なぜって……『謎』が多いことかしら。例えば、エジプトのギザの大ピラミッドにしても、大きな石を当時の簡単な道具でどのように積み上げたのか。そもそも誰が何のために造ったのかなど、基本的なところで謎は尽きないのよ。そうした歴史の真相に迫る考古学って、なんて面白い学問だろうと憧れるようになったの」
「じゃあ、先生もピラミッドは宇宙人が造ったとか考えてるんですか?」
と、ユキは思わず口にした。
若林先生は一瞬、
「えっ?」
と、不思議そうな顔をしたが、すぐに元の顔に戻って言った。
「それって、『古代宇宙飛行士説』のこと? 山口さんはそんな本も読むの?」
「はい、ちょっとだけですが……」
「デニケンとかシッチンとか?」
「わっ、先生も知ってるんだ!」
ユキはびっくりして、つい大声を上げてしまった。
『古代宇宙飛行士説』とは、人類史上の古代または超古代に宇宙人が地球に飛来して人間を創造し、超古代文明を授けたという「疑似科学」(科学的で事実に基づいていると主張しているが、実際には科学的方法と相容れない主張のこと)の一説である。学会では認められていないが、一般人の中には困ったことに嵌まってしまう人もいる。
「フィクションとしてなら面白いところもあるけど……私は好きじゃないな」
「えっ、どうしてですか?」
と、ユキは尋ねた。
「だって、先人の努力を評価してないということでしょ。高度な文明は宇宙人が人類に授けただなんて、古代人の能力を馬鹿にしていると思わない?」
そう言われてみれば、その通りかもしれない。
「まあ、そうですけど……あっ、私だって面白がって読んではいますが、別に信じているわけじゃないので……」
と、面と向かって否定的なことを言われたユキは少々焦って答える。
このままでは話題が考古学ではなくて宇宙考古学(古代宇宙飛行士説)に逸れていってしまうと危惧したのか、ソラがさっと二人のやりとりに割り込んで話題を換えた。
「じゃあ、先生が歴史学じゃなくて、考古学を選んだ決定的な理由は何ですか?」
「歴史学は文字資料の読解が主な研究方法なの。それに対して考古学は、遺物を資料にするという点が特徴だから、文字の無い時代や書物が残っていない一般の人々の生活なども明らかに出来るでしょ」
「なるほど」
「特に最近は、『放射性炭素年代測定法』によって、骨や炭に含まれる炭素から、その生物が生存した時代を明らかにしたり、遺伝子学と連携したDNA解析などから集団の出自や祖先を突き止める研究も盛んなの。そういうふうに理系の学問とも協同した視野の広い研究を進めることが出来るのが魅力ね」
「じゃあ、考古学科ではどのような勉強が出来るのですか?」
「まず、特定の地域の歴史を学ぶ講義。日本史、メソポタミア史、エジプト史など。それと、外国語。英語、フランス語、ドイツ語、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語などを学んで、外国語で書かれた考古学の専門書を読む授業などもあるわ。大学によって得意とする分野が異なるので、興味のある地域が決まっている場合には、そうした分野を専門とする教授がいる大学を選ぶのがいいわね」
「ちなみに先生、大学はどちらなんですか?」
と、ユキが訊く。
「ユキちゃん、それってストレート過ぎない?」
とソラは横からささやいたが、若林先生は、
「別に構わないわよ……早稲田の文学部」
と、さらっと答えてくれた。
「うわぁ~、すごい」
ユキは素直に歓声を上げる。ユキだって、早稲田大学が慶應義塾大学と並ぶわが国の最難関私大であることは知っている。
「そんなことないわよ……あのね、三重県みたいな田舎にある進学校では、国公立大学に進学しない人間はまるで異端児扱いだし」
「えっ、そうなんですか?」
と、たいして進学校ではない亀島高校の生徒であるユキは目を丸くする。
「そういうものなのよ。でもね、オリエント考古学を国内の大学でやろうとしたら、まず慶応か早稲田の文学部ね。今もオリエント考古学という名称で講義があったはずよ」
若林先生の話を聴きながら、ソラはわりと落ち着いているが、ユキは今一つ話についていけず、目を白黒させている。
若林先生は続ける。
「ただし、本気で外国の考古学を研究するつもりなら、日本国内の大学で勉強するだけでは無理ね」
「じゃあ、どうやって勉強すればいいのですか?」
と、ソラ。
「まずその国の国語──ヒッタイトの場合はトルコ語──が出来なきゃいけないし、考古学は『実物を見てナンボ』の世界だから、現地にいないというだけで不利なのよ。まずは現地に行かないと」
「えっ、すると先生もそうしたんですか?」
と、ユキはビックリして尋ねた。
「そうよ。だから私は、学生時代はトルコ語を必死になって勉強したわ。そして、大学を卒業した後、トルコにあるアンカラ大学の言語史学地理学部ヒッタイト学科の大学院に進学したのよ」
「うわぁ、本格的ですね!」
ソラもまたビックリしたように言う。ちなみに、ソラが本当に驚いたようなもの言いをすることは普段あまり無い。アンカラ大学なんて、ユキにはどんなところか想像もつかない。
この時、若林先生はユキやソラが今まで見たことのない、どこか遠くを見つめるようなまなざしをして噛みしめるように言った。
「期せずして私は、憧れだったヒッタイト学者の先生と同じコースをたどったわけよ。そして、何年かその先生の下でカマン・カレホユック遺跡の発掘作業に従事することもできた」
と、ここで若林先生は一呼吸置いてからつぶやくように言った。
「あの頃は今よりもっと未熟だったと思うけど、充実していた……アナトリアの大地に沈む夕陽は綺麗だったわ……」
ユキは見たこともないトルコの大地に沈む夕陽を想像して目を閉じた。
「授業でも言ったとおり、これまでの通説では人類最初の製鉄は、鉄と戦車を武器に世界を支配したといわれるヒッタイトで始まり、帝国の滅亡とともにその技術が世界に広がった、というものだったでしょ」
「はい」
と、ソラは静かにうなずいたが、ユキは「そうだっけ?」という感じだ。
「ところがね、カマン・カレホユック遺跡の発掘調査で、ヒッタイトの時代よりさらに1,000年ほど古い、紀元前2500年頃の前期青銅器時代の地層から、鉄製品が出土したの。しかも、出土した鉄の組成を解析したところ、それはアナトリアのものではなく、北コーカサスのものの可能性も出てきたのよ」
「ということは、世界で初めて製鉄技術を持ったのはヒッタイトではない、ということですか?」
と、ソラが尋ねた。
「そうよ。ヒッタイトは製鉄の発祥の地ではなく、それ以前にすでに北コーカサスの方で製鉄技術が確立していた可能性があるわ。ヒッタイトは、その製鉄技術を使って、アナトリアで鉄を本格的に生産していた、ということかしら」
「それって、教科書が書き換えられるような発見ですよね?」
「そうでしょ! でも、まあ教科書が書き換えられるのは通説となってからだろうから、もう少しかかるかな。そういうことは、歴史学の世界では時々あるのよ」
と言って、若林先生は微笑んだ。
「それにね、もう一つ発見があったの。鉄製品が見つかった地層の直下から、木材を大量に使用した建築遺構がたくさん見つかったの。木材を多用する建築遺構は、今までアナトリアではほとんど見つかっていないわ。そのような建築遺構も北コーカサスの方に見られるの。そこで、木材を多用する建築技術も鉄製品や製鉄技術とともに、アナトリアへ入ってきたのではないかと考えられるのよ」
「すごいじゃないですか。なんか、一つの民族が文化を伴ってコーカサスからアナトリアへ移動してきたイメージが湧きますね」
「でしょ。インド・アーリア系の民族の故地はコーカサス方面だと言われているから、理屈は合うのよ。これはすごいことだわ!」
ソラはしきりに感動してるようだが、ユキは今ひとつ「すごい」理由がわからずきょとんとしていた。
「でもね、私の夢はそこまで。そこまでだったのよ」
ところが、若林先生はそこで、はぁ~と大きなため息をついて言った。
「私は一人娘でね。両親は私に『30歳になったら日本に帰ってきて、婿養子を取って家業を継いでくれ』って」
思わずユキは声を上げた。
「え~、もったいない」
後にして思えば少し失礼なもの言いだったのかもしれないが、ユキはその時、本心からそう思ったのだった。
「でも、私の両親にしてみれば、私がトルコで土を掘ってるよりも、自分たちの店を継いでくれるかどうかの方が大問題だったわけよ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものなのよ。外国の大学院にまで行かせてくれた両親に逆らい、今後の仕送りを断ち切ってでもトルコで一人暮らしをする勇気が出なかった私は、泣く泣くトルコから日本へ帰ってきたのよ」
そこで若林先生は息を継いだ。
結局、日本人は世襲が大好きなのだ。国会議員から個人経営の店に至るまで、○代目のオンパレードである。親にしてみれば、それで満足なのだ。子供を親と違う世界には足を踏み出させない。まったく、現状維持の発想である。
「何もしないのも嫌だったから、地元で何となく教員採用試験を受けたら運良く1回で受かったの。だから、星野君から最初に『どうして世界史の先生になったのか?』って訊かれたけど、ぶっちゃけ、たいした理由なんて無いのよ」
若林先生は、授業終了のチャイムが鳴る直前に何とかその日の計画通りに授業を終わらせようとする時のように、少々早口になった。
「別に高校教育に対して見識を持っていたわけでもないし。自分がこれまで勉強してきたことが、多少なりとも役に立つ仕事って、地元ではこれくらいしか無いと思っただけよ……はい、それで終わりっ!」
実際、人材確保に関して、教員は完全に他の業種に負けていた。長時間労働(部活動の顧問は無くなったが、モンスターペアレントやクレーマーはますます増加しており、その対応だけでも大変だった)の上に薄給ときている。そのため、教員採用試験には良い人材が集まらない。従って、仕事をするに当たって学力的(出身大学の偏差値が50以下)、人間的(コミュニケーション障害で相手とロクに顔を合わせて喋れない等)に問題がありそうな者でも採用せざるを得ない。その結果、ますます問題が増加し、解決出来ないために教員の精神疾患による休職、退職が増加し……悪循環だった。
それでもまだ三重県はマシな方で、大都市圏の公教育は崩壊寸前というか、もうとっくに崩壊している。少しでも可能な者は、小学校から私立へ通い、公立高校は一部の進学校を除けば、まとまな高校レベルの授業が成り立たなくなっていた。一方で、不登校の生徒の割合も増え続けている。単位制高校が増えたり、オンライン授業が実施されているのも、そういう背景があった。
ユキは、若林先生の「終わりっ!」という言い方に、何か湧き上がる感情を無理にでも断ち切ろうという思いのようなものを感じた。
やや間を置いて、ソラが静かに尋ねた。
「ご実家は何をなさっているのですか?」
「小さな工務店よ」
ユキは何と言っていいのか、わからなかった。
そこまで聴かない方が良かったかも知れないとも思った。
下手に励まそうとしても、
「いや、いや、いや、地面に穴掘る仕事なら同じじゃないですか。それに、そこで何か遺跡を発掘出来るかも知れないし」
などと言えるような雰囲気ではなかった。
あの若林先生にこんな葛藤があったなんて、ユキには想像出来なかった。
それでもソラはいたって冷静に、
「先生、今日は参考になるお話をありがとうございました」
と、お礼を言って頭を下げた。ユキもそれを見て、あわてて頭を下げる。
若林先生も静かなゆっくりした口調に戻って言った。
「こんな話でも、参考になったかしら?」
「はい、とっても」
ソラはにっこりと笑った。ユキもあわてて微笑もうとしたが、どう見ても愛想笑いにしか見えなかったことだろう。
最後に、若林先生は手元にあった大きめの付箋二枚に同じ楔形文字をさらさらと書いて二人に見せた。
「ほら、これが、ヒッタイト語の楔形文字。シュメール語からの分派の文字なのよ」
ユキには紙の上に虫がたくさん這いずり回っているようにしか見えない。
「うわぁ、すごい。これ、ちゃんと意味があるんですか?」
と、ユキは素直に訊く。ソラはまたユキの耳元で、
「ユキちゃん、先生に対して少し失礼だよ」
とささやいたが、若林先生はまるで意に介さないようにユキの問いに対して、
「もちろんよ。これでも私は研究者志望のはしくれだったのですもの」
と、それまでとは違い少しおどけた口調で言って、その付箋を二人にそれぞれ一枚ずつ手渡した。
ユキは、
「何て書いてあるんですか?」
と尋ねた。しかし、若林先生は、
「ふふ、内緒」
と小声で言って微笑んだだけで、何と書いてあるかは教えてくれなかった。
担任室を出てから、ユキはソラに尋ねた。
「若林先生の話を聴く約束をしてたんだ」
「いや」
と、ソラは首を横に振って言った。
「えっ?」
「ユキちゃんが長い時間、叱られそうだったから、若林先生にかまをかけてみたんだよ。ほら、若林先生って、いつもバタバタしていて落ち着かないイメージでしょ。その上、人の言うことは素直に信じるみたいだから、ああ言ったら信じるんじゃないかって、計算したんだよ。そしたら案の定、引っかかってくれたけど」
と言って、ソラはちょろっと舌を出した。
それを聞いたユキは思わず声を上げてしまった。
「ソラ君、黒~い!」
ユキは何かソラの普段とは違う一面を見た感じがした。
「人聞きの悪いことを言わないでよ。僕は恩人でしょ」
と、ソラはユキを見て笑った。
でも、ユキはその時、こう思った。
──若林先生なら叱られてもいいかな。よし、これからはもっと、授業をきちんと受けてみよう。
と。
それからユキは思いだしたかのように、
「あ、そういえば、さっきの楔形文字、何て書いてあるの?」
と、ソラに尋ねた。
「わからない」
「え~っ、ソラ君でもわからないことあるの?」
「そんな、それはさすがに買いかぶりすぎだよ。僕には若林先生みたいな学識は無いからね」
結局、何が書いてあったか、この時のユキにはわからなかった。
お読みいただきありがとうございます。
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それでは引き続き、よろしくお願い申し上げます。




