萩原朔太郎詩集より 「猫」
「猫」萩原朔太郎
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
引用:青空文庫より
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薄暗い街の屋根の上に、2疋の猫の姿が在った。
その身体は艶やかで、いかにも柔らかそうな漆黒の毛で覆われている。
見た瞬間、猫好きな僕の血が騒いだ。
その麗しい毛並みには、ぜひ触れなければならないと。
僕は歩みを止め、何処かすまし顔の黒猫たちと接触を試みることにした。
しかし、猫は上から見下ろすばかりで、一向に降りてこようとはしない。
残念ながら、僕が手を伸ばしても届くような高さではなかったので、降りてくるのを待つことにした。
空を見上げると、月の光が怪しい夜の闇がそこにあった。
つい先ほどまで、空の中で砂浜と海とがせめぎ合っていたが、砂浜は海に浸食されてしまった。
猫との駆け引きをしている間にも、刻一刻と闇は深くなっていく。
僕が屋根の上の猫を凝視している間、僕を横目にみながら通り過ぎていく人の影を感じた。
皆一様に、憂鬱な雰囲気を纏っている。
そんな人々の様子を、2疋の黒猫はその双眸でつまらなさそうに見つめていた。
途中、すぐ横を通り過ぎていく自転車に冷や汗を抱きながらも、ひたすら猫が降りてくるのを待った。
ある時ふと時間が気になって腕時計を見ると、すでにここに立ち止まってから30分が経過していた。
そこで、僕は初めて友人との約束を思い出した。
しまったと思ったがもう遅い。約束をしていた友人は、今頃必死に僕を探し回っているかもしれない。
何か連絡を入れなければ。
そう思った僕は、急いでコートのポケットに入れていた電子端末を手に取った。
青白く光る画面には、メッセージが何件も入っていた。
連絡を入れるために端末を操作しようとしたところで、唐突に手の中が震えた。
予期せぬ感覚に、思わず「おわあ」と変な声が漏れた。
振動と変な声とに狼狽している間にも、ブーブーと鈍い音が周囲にこだましている。
何とか心を落ち着けて確かめてると、それは約束をしていた友人からの電話を告げる振動音だった。
僕は真っ赤な通話ボタンを押して、端末を耳元に添えた。
「もしもし、彩?」
『桜、お前どこにいるんだよ!約束の時間はとっくに過ぎてるのに連絡つかないから心配したんだぞ!!』
「ごめん、黒い猫がいて」
僕がそう言うと、電話越しにはーっと長いため息が聞こえた。
『お前が猫に出会ってしまったら長いっていうのは知ってるから、それに関しては何も言わない。言ったって無駄だからな。けど、せめて連絡は入れてくれ。』
「うん。本当にごめん」
そう言うと、電話越しに友人の様子が柔らかくなったのがわかった。
『それで?今はどこにいるんだ。俺も猫好きなこと、桜さくも知っているだろう。そっちまでいくから、場所を教えて欲しい』
「わかった。場所は________」
場所を告げると、友人は明朗な声で了承の意を示した。
『そこなら俺のいる場所からすぐ近くだから、あと数分で着く。絶対動くなよ』
「心配しないで。ちゃんと待ってるよ。」
相手の声が聞こえなくなると、僕は端末をしまい、再び黒猫に視線を戻した。
*
一向に動く気配のない黒猫を見上げ、僕はさらに闇が深まった暗い道の上に立っていた。
艶やかな毛並みの黒猫と、もうすぐそこまで来ているはずの友人とに思いを馳せていると、突然肩に何かが載せられる感覚があった。
その拍子にまた「おわあ」という変な声が溢れてしまった。
羞恥を感じながら、肩の上に置かれた手に手を重ねる。
僕の背後でしたり顔をしているであろう友人に、文句を言おうとした次の瞬間、今まで微動だにしなかった黒猫が、尻尾をぴんと立てた。
黒く細い尻尾の先からは、糸のような三日月が霞んで見える。
何事か、と神経を張り詰めた時、いきなり猫が『おわあ』と啼いた。
僕と彩はお互いに顔を見合わせた。言葉にしなくても、お互いに何を思っているのかがわかった。
猫に、『こんばんは』と言われた。
僕たちが驚いている間にも、2疋の黒猫は啼き続ける。その姿は、すでに猫ではなくなっていた。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
そう告げたかと思うと、猫だったものは屋根から飛翔した。
家の中からは、悲しい泣き声が聞こえてきた。
〈補足・登場人物〉
*主人公……萩原桜夜(Hagiwara Sayo)
*友人……室谷彩杏(Muroya Sairi)