7.婚約破棄の理由
次の日、夜明け前にララは起きた。
クロードの寝ている客間の前をドキドキしながら通り過ぎ、食事も取らずに牛の世話を開始した。
牛小屋を清掃後、丁寧に彼らの毛をブラッシングする。
牛の夏毛が、さらさらになって気持ちがいい。
昨日の夜、父親から聞いた。
クロードは、ララに婚約破棄を告げにここまで来たのだと。
何をどうやっても上手くは行かない二人だったのだ。
初夏の朝は、ひんやりと地面が冷たい。ララが感情を押し殺すように腕と足をまくってせっせと作業していると、背後から声がした。
「……おはようございます」
ララはびくりと身を震わせた。
振り返ると、そこにいたのはクロードだった。
昨日は夜ということもあって互いの顔が判然としなかったが、朝になるとよく分かる。
(かっこいい……背、高い……)
ありきたりな感想を喉の奥に押し込め、ララは尋ねた。
「もう少し寝ていてもいいんですよ」
「普段は衛兵ですから。これでも、いつもより遅く目覚めました」
ふとララは気にかかる。
「えーっと、こんなところへ何をしに?」
「あの……何か手伝うことはありませんか?」
「えっ」
ララはクロードの申し出に驚いた。
「何もしなくて大丈夫です。昨日助けていただいて、今日もお手伝いさせるだなんて、出来ません」
するとクロードは、内緒話するようにひそひそとこう言った。
「私は、あの家でヤン殿と二人きりになるのは……」
「あ!」
確かに、気まずそうだ。ララは首をすくめて笑った。
「じゃあ、牛にブラシをかけて下さる?」
「ブラシ?」
「ええ。牛はこれで体を撫でられると、とても喜ぶんですよ」
「こう……ですか?」
「ええ、そんな感じで……」
ララはもうひとつブラシを持って来て、牛を介して話し合う。
しかし、視線を合わせることが出来なかった。
(どうしよう、近くで見たら眩しすぎて見えない!)
と悶えるララと、
(婚約破棄したけど……ちゃんと笑顔で接してくれた)
と、ほっとしているクロードと。
二人の思いは交錯せず、あちこちに散らかっていた。
牛のブラシがけと搾乳を終えると、ララは麦を干した平原に歩いて行く。麦藁を運ぶ作業があるのだ。
ぽつん、とクロードが牛舎に取り残されている。
ララが振り返り、首を傾げる仕草をすると、彼もついて来た。
(……かわいい)
ララは、クロードを母牛について回る子牛のようだと思った。
「ララさん、次はどこへ?」
「次は、あそこにある麦藁をこの牛舎に運ぶの」
「……ララさん、いつ休んでるんですか?」
「へ?」
ララは考えた。
「休もうなんて、あんまり考えたことがないわ」
「昨日も山菜取りでしょう。毎日、こんな感じですか」
「ええ。でも体を壊すほどは働かないし、農閑期があるし……今は麦を収穫した後だから、ちょうど忙しい時期なの」
「そうなんですね」
二人で体を動かしたのがよかったのだろうか。
(段々、騎士様を見慣れて来たわ)
顔にばかり気を取られていたが、クロードはどことなくのんびりと間の抜けたところがある。王都で会った時はもっと張り詰めた空気を纏っていた気がするが、田舎に来て気が抜けているのだろう。
ララはクロードにリヤカーを引いてもらう。
ガラガラと音を立てて並んで歩いていると、
「えーっと……」
クロードが、ふと話し始めた。
「婚約のこと、本当にすいませんでした」
ララはそれを受け、顔を真っ赤にする。リヤカーを引きながら婚約破棄を謝って来るとは想像がつかなかった。
「わっ、私こそ婚約破棄してすみません……!」
「いえ、こちらが悪いんです。うちの親が勝手に、私にも言わずに君に婚約を打診したから」
「あの……つかぬことをうかがいますが」
ララはそう前置きして、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「モルガン様は、一体なぜ私をクロードさんの婚約者にしようと思ったんでしょうか」
クロードも、それに関しては首を捻った。
「それが、よく分からないんです」
「そうですか……」
ララは少しがっかりした。自分に何か魅力があったのかしらと少し驕っていたから、余計に落ち込んだ。
それを見て、クロードは内心慌てた。
「……ララさんは素敵な女性ですよ」
ララはお世辞を言われたのだと感じた。彼の紳士的な賢明さを見、悲しくなって笑う。
「慰めてくれてるんですね、クロードさん」
「そういうわけでは……」
少し青くなったクロードから距離を取り、ララはずんずんと前へ進んで行った。
干した麦藁を、二人でリヤカーに乗せて行く。
正直なところ、ララはこの婚約破棄に傷ついていた。
わざわざ遠方に足を運んでまで、早急にララとの婚約破棄をしたがった彼。
(そんなの……辛過ぎる)
ララは目を閉じた。
きっと彼には、心に決めた女性(身分違い)がいるに違いない。それを引き離すため、モルガンはこんなことをしたのではなかろうか。彼ほどの美男子を、どんな女性だって放ってはおかないだろう。彼はきっとララと婚約破棄したら、その女性ともっと恋が盛り上がって、駆け落ちなどをするに違いない。そして案外あっけなく逃避行が阻止され、でも諦めきれないクロードと相手は毒をあおって──
ララの妄想が花開いていた、その時だった。
「ララさんこそ、どうしてこの婚約を即破棄なさったんですか?」
ララはどきりとして麦藁の向こうの、麦藁まみれの彼を見つめた。
思い返せば先程少し腹を立てた自分が、ちょっと恥ずかしい。
あっちだって、婚約破棄された身なのだった。釈然としないのは、お互い様かもしれなかった。
ララは正直に言った。
「あの……私、この村を離れられる気がしないんです」
クロードは、なぜか嬉しそうに頷いた。
「それは……なぜ」
「私、この地主の一人娘なんです。父が亡くなったら、私が跡を継がなくてはならないから」
「へー……女性でも?」
「はい。この一帯はかつて女系社会で女性の地位が高く、長子相続なので継ぐのは男女どちらでもよかったんです。今は色々あって爵位を買い、女男爵となりましたが、その基本はこの地に留まる限り変わりません。私はこの土地が好きだから、ここに残りたいの」
「土地が好き……か」
クロードはその部分が引っかかったようで、何やら真剣な表情で考え込んでいる。
「……人生において、とても大事なことですね」
「はい。そしてこの土地に産まれて、生い茂るものが、私の全財産なんです」
「……」
「財産を放って、都会に出るわけには行かないでしょう?」
「……そういうことだったんですね」
ララはドキドキしながら、自分も彼に尋ねてみようと思った。
「クロードさんこそ、そんなに私との婚約破棄を急いだのはなぜなんですか?」
クロードは怖い顔で押し黙ると、うつむいて答えた。
「ララさんの理由の後だと、自分の理由は本当に子どもっぽくて……情けないんですが」
ララは固唾を飲んで彼の口元を見守った。
(やっぱり……身分違いの恋人が……!?)
「結婚なんかしたくなかった。ただの我儘です」
ララは呆気に取られた。
「へ?結婚、したくなかっただけ?」
クロードは、真っ赤になって自らの頬を掻いた。
「ほんと……すいません」
「本当に、理由はそれだけ?」
「あの……だから、私はこんな成りだけど、中身は本当に子どもっぽいんです」
ララは、少し心が持ち直した。身分違いの恋人はいないらしい。
「っていうことは……気分が乗らない、ということなんですか?」
「お恥ずかしい話ですが、そういうことです」
「そういうことだったんですか。でも、そうですよね。騎士様ならきっと、もっといい人が見つかりますよ。きれいなお顔をしてらっしゃるから、女性たちから引く手あまたなんでしょう?」
「……」
クロードは、再び怖い顔に戻ってこう言った。
「別に、相手を選んでるわけじゃ……」
ララは気分を害したのかと一瞬たじろいだが、
「でも、お互い腹を割って話せてよかったです」
そう言いながら、彼は微笑んだ。ララは顔を赤くする。
一方で、クロードは自身の心が変化しつつあることを感じていた。
(ララさんは私と同じくらいの歳なのに、フラフラせずに自分の将来を既にきちんと見据えているんだな)
彼女は、そこらへんの世間知らずな、またはそれを美点と勘違いしているような貴族の娘たちとは、まるで違った。体は小さく幼い見た目でも日々の仕事をこなし、領主のごとく堂々と地に根差している。発する言葉にも、いちいち重みがあった。
クロードの中に、思わぬ言葉が降って湧く。
(ララさんって……なんか、カッコいい)