62.王妃、帰還せず
デジレがリプシム城に入ってから、三ヶ月が経過した。
オレール三世はなかなか王都へ帰って来ない画家夫婦と王妃に、次第に苛立ち始めていた。
当初予定していた製作期間をかなり過ぎている。
デジレにはなるべく長く猟城にいて欲しいと思ったこともあったが、腐っても妻だ。
そろそろ公務があるし、王妃の務めである男児の出産もしてもらわなければならないのだ。区切りのいいところで帰って来てくれなければ困る。
そんなある時、ようやく画家のジルベールがブランディーヌと共に王都へ帰って来た。
オレール三世は王宮にやって来たジルベールに問うた。
「随分長いこと行方をくらましていたな、ジルベール。デジレはなかなか帰って来ないし、一体どうなっているんだ?」
王の質問と同時に、茶会のセッティングが周辺で始まる。
「……長話になると面倒だ」
ジルベールはそう王に聞こえぬようブランディーヌに囁くと、話を簡単に終わらせるため端的にこう言った。
「陛下。デジレ様は、二度とここへお戻りになりません」
オレール三世は目を見開いた。
「は?君は、何を……」
「リプシム城周辺の様子を、誰からも知らされていらっしゃいませんでしたか?」
オレール三世は呆けてから、青くなる。
愛人に夢中になり過ぎて、王妃がどうしていようと何ら興味が湧かず、全てを放置していたのだ。
「なっ……!私は何も」
「お調べになるといい。リプシム城の護衛は既に総とっかえされている」
「!?」
「さて、護衛はどこの国の人間で、どんな職業なのでしょうか……私にも分かりません」
オレール三世は慌てふためいた。
「な……何だと!?しかし、あいつにはこれから子どもを産んで貰わねば……」
「そうですね、お子を産んで貰わねば……ね。しかしながら陛下。もし王妃陛下が籠城して、二度と出て来なかったとしたら?」
ジルベールはそう言って微笑む。
オレール三世は青くなった。
「まさかお前、妙な入れ知恵でもしたのか!?」
「いいえ。デジレ様がそうおっしゃっただけのことですよ。私は何の力もないただの画家ですから」
「……!」
「私に怒りをぶつけている暇があるなら、デジレ様と話し合ったらどうです。まあ、もう手遅れかもしれませんが」
オレール三世はそれを聞くと、慌てて駆け出して行き、兵に指示を出し始める。
やにわに周辺が騒がしくなって来るのを横目に見ながら、ジルベールとブランディーヌはそうっと王宮から抜け出した。
「……あんなに妻を放置しておいて、全てがうまく行くとでも思っていたのかしら?」
馬車に乗り込みながら、呆れ顔でブランディーヌが言った。ジルベールが応える。
「誰もが自分の指示通りに動いてくれるものだから、王妃もそうだと油断したんだな。陛下は気づいていない。無視もまた、人の心を踏みにじるのだと」
「そうね……だから王妃は〝あの絵〟に逃げ込まなければならなかったのよね」
ジルベールが描いた、一枚の絵。
──美しきクロードの肖像画。
三ヶ月前。
デジレはジルベールに自分の肖像画を描くことを辞めさせ、代わりに〝クロードの絵〟を描くことを求めたのだった。
「ねえジルベール。あなた、クロード・ド・ブノワを知っているかしら」
ジルベールは平然と「はい」と答えた。
「私、人生の何もかもが嫌だった。でもそんな時、あの顔だけは唯一、私を癒してくれたの」
美しい男は、彼女の救いだった。
「その悲しい事実を、最近ようやく真正面から受け止めることが出来た。……あなたが私の肖像画を描くことを通して、それを教えてくれたのよ」
ジルベールは首を横に振る。
「いいえ。別に私は何も……」
「手に入らなかったけど、もうそれでいいの。あの顔は傷ついてしまったから……」
「……」
「ねえ、一番美しかった時のクロードの顔を描いて欲しいの。私が一番好きな顔を。モデルを頼んだらきっと嫌がるから、あなたの想像でいいわ」
ジルベールは頷いた。
「仰せのままに」
「任せたわ、ジルベール」
それからジルベールはクロードの肖像画を描き上げ、リプシム城を後にしたのだった。
「病的よね」
ブランディーヌは呟いた。
「結局は偶像崇拝だったんだよ。崇拝は〝愛〟とは違う」
ジルベールはそう言って、くっくと笑った。妻はその異変に気づく。
「……何がおかしいの?」
ジルベールは微笑みながら残酷な言葉を吐く。
「俺が描いたものは、クロードの肖像じゃないからだよ」
ブランディーヌは目を剥いた。
「……は?」
「俺は誰よりもクロードの顔を知っている。あいつが産まれた時から、様々な表情を全て目の当たりにして来た。俺は、そのどれとも外して肖像画を描いておいた。彼女の要望通り、〝想像上のクロード〟を。表情筋も仕草も何もかも違う──全くの他人の顔を」
ブランディーヌは目をすがめた。
「……悪趣味」
「何とでも言え。全く同じに描いた方が悪趣味だろう」
「でも……王妃も、そこのところは気づかなかったのかしら」
「全く気づかなかったよ。だからこそ闇が深い」
「……ぞっとするわね」
「王妃は想像上のクロードを愛していた。彼女が見ているクロードは、彼女の中にいたクロードだ。幻だったんだよ」
ブランディーヌはため息をついてから、ふと微笑んだ。
「偽物のクロードを描いてから、本物と会う気分はどう?」
「最高だね」
二人の乗った馬車は、ベラージュ村へと向かって走って行く。
──その頃、デジレは。
壁にかけられたクロードの肖像画の前で、じっと座り込んでいた。
「クロード」
デジレは絵に向かって語りかけた。
「……ずっと一緒よ。ここで、永遠に二人きり──」




