58.世界はいつだって広がる
それから一週間後。
後方支援隊の新設に伴い、王宮では祝賀パーティーの準備が始まっていた。クロードの婚約報告も同時に行うため、軍人のみならず貴族たちも招かれることになっている。
ララは新品の、星空を思わせるビーズを散りばめたネイビーのドレスに身を包み、緊張の面持ちでいた。
初めて、例の王妃と顔を合わせるのだ。
(大丈夫かな……)
ララは朝の起き抜けから気が重かった。
(パーティーということだし、周囲に人がいるから、きっと大丈夫だろうとは思うけど)
「ララ」
クロードが部屋に入って来た。まだ顔の半分が青痣になって腫れている。
「準備はいいか?」
ララは気の乗らない顔で頷いた。クロードは全てを分かっていて、ララを鼓舞するように抱き締める。
「これで、王妃の横暴を終わらせよう」
「……」
「実は、ララに話していないことがあって」
「何?」
「君を襲わせたのは、やはり王妃だ。諜報部から話があった」
「……」
「しかし私たちは、今日の婚約の儀までどうにか漕ぎつけた。家と家との契約に、もはや王妃とて介入は出来ない」
ララは何度も頷いた。
あの日ついたララの手の傷は、もうすっかり治っている。しかし──
「ねえ。じゃあ、宿屋でクロードを襲わせたのは誰なの?」
ララの意識は婚約よりも、そちらに向かっていた。
クロードは、黙っている。
「それについては、君には秘密にさせてもらう。国家が関わっていることだから──とだけ言っておこう」
ララは少し暗い気持ちになった。クロードに向けられた危険は、まだ取り除かれてはいないのだ。
「そう……」
「騎士は階級が上がれば上がるほど、敵から狙われやすくなる。それはこれからも変わらない」
「……」
「ララには、きっとこれからも心配をかける。でも……ついて来て欲しいんだ」
ララはしばらく苦しみを溜め込むように黙っていたが、
「はい」
と、彼に向けて笑顔を作った。
クロードは複雑な表情でそれをじっと眺めてから、ふと笑顔を作った。
「あのさ、ララ」
「うん」
「いつもお互いの笑顔を思い出せるように、なるべく笑顔でいよう」
「……私も今、そう思ってたところなの」
心の中にしまうべき、または取り出すべき愛する人の顔は、いつだって笑顔がいい。
そのためには、お互いが愛する人のために笑顔でいなければならないのだ。
「行こう、ララ」
クロードはララの手を取り、ブノワ邸から馬車へと乗り込む。
馬車は王都の中心部へと向かって行った。
その頃、王宮では。
デジレは御者に手紙を託していた。
妹への絶縁状である。
表向きは「姉としての面子を潰されたから」という理由にしてあるが、内情は「クロードの顔を破壊したから」である。
デジレは、どんな理由であれあの美しい顔が破壊されたことが、どうしても許せなかったのだ。
と同時に、デジレには別の感情が萌芽しつつあった。
いつも手元に置いてある、自分の顔のスケッチ。それを見つめ、デジレはいつの間にか不安定な自分と向き合うようになっていた。
「デジレ様」
デジレは、胸を高鳴らせて顔を上げた。
「ジルベール画伯がお越しです」
デジレはいそいそと椅子に座る。と、すぐにジルベールがキャンバスを抱え、ひょこっとやって来た。
「あー、遅れてしまい申し訳ありません」
「……いいのよ」
「早速準備致しますね。そのドレスを肖像画にする、ということで決定でしょうか?」
「ええ。これにするわ」
デジレは今日の祝賀会に合わせ、ドレスを新調していた。いつも着ているカラフルで派手なドレスではなく、喪服を思わせるようなシックなブラックドレスだ。
ジルベールが、じっとデジレを眺める。
デジレはそれを見て、彼に問うた。
「ねえ。私って、あなたの目からどう見えているのかしら?」
ジルベールはこともなげに答える。
「王妃様ですよ」
「そういうことじゃなくて……性格とか、見た目の感じとか」
彼は、どこか含み笑いをしてこう問い返す。
「王妃様の方こそ、私のことをどう思ってらっしゃいます?」
デジレは顔を真っ赤にした。
「ど、どうって……」
「そういうことをお聞きになるというのには、何か理由があるのでしょう」
デジレは次第に彼に怯え始めた。
(……見透かされている)
デジレは、例のスケッチを眺めながら、何度も自分にこう問うていたのだ。
〝ジルベールから見て、自分はどのような女に見えているのだろう?〟
デジレはジルベールに好意を抱き始めていた。
しかしそれは、あんなにまでして欲しがったクロードとは、全く別のベクトルの好意であった。
それはまるで、得難い恩師を得たような気分。
自分の中の一番大切な何かを引き出してくれる、〝恩人〟としての敬愛に近いような感情だった。
今までの高慢なデジレは、誰に何と思われてもよかった。
自分が気持ちよくなりさえすれば、他人などどうでもいいものだった。
けれどジルベールに「よく見られる」ようになってから、意識が変わって行ったのだ。
デジレは泣き出しそうにうろたえながらも、震える声で答えた。
「私を、見てくれる人よ」
ジルベールは顔を上げ、にっこりと笑って見せた。
「なるほど。見てくれる人……医者とか研究者みたいなものですか?」
「そうね、そうとらえてもいいかもしれないわ」
「デジレ様は見られていなかったのですね、誰にも」
デジレは途端にふにゃりと顔を歪めた。
ジルベールは静かにその顔を見つめている。
デジレは顔を覆うと、泣き出した。ジルベールはただそれを見つめている。
「私、〝見られている人〟が羨ましかったの……」
デジレは、ジルベールの目があるからこそ、独白を始める。
「私は、きれいで、かっこよくて、誰からも愛される人を手に入れたかったのよ」
「……」
「でもその人は、私なんか見てくれなくて」
「……」
「それが分かっているから、余計に意固地になって……」
「……そうですか」
ジルベールは軽くそう言って、キャンバスにチャコールを走らせる。前よりも、描く手に力が入っている。デジレは泣き顔を上げ、画家の手仕事に見入った。
「泣き顔を描いているの?」
「いいえ。肖像画は総合的な顔に描きますので」
「……?」
「泣く時の表情も、ここに組み込みますね。表情筋の記憶が加わって、とてもいい顔になりますよ」
デジレは画家の職務に感心しながらも呆れた。
「あなたって、動じないのね。王妃が目の前で泣いてるのよ?」
「私はあなたの顔を描きに来た画家です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「それはそうだろうけど……」
「いい下絵が描けた。次はリプシム城でお会いしましょう」
「……分かったわ」
デジレは少し笑ってから、腹の底がずっしりと沈み込むような気がした。
今日、妹の部下に顔を壊されたクロードの顔と、その婚約者の顔を見る。
果たして自分は、その苦痛に耐えられるのだろうか。