4.顔の凍る生活
クロードが玄関で旅の準備をしていると、近くの部屋から母アネットと姉ジゼルの喧嘩が聞こえて来る。
「ジゼル、いつまでうちに居座ってるのよ!イベール伯爵のところに帰りなさい!」
「あんなチビ男のところになんか帰りたくないわよ。クロードみたいな弟見てたら、あんなの相手にしたくなくなる」
「男は顔じゃないでしょ!」
「ふんだ。お母様ったら……お兄様より美形のクロードを可愛がってたくせに」
「……!」
「親でも顔で人をえこひいきするのよ」
「……」
「私が同じだったとして、なぜ責められるの?」
「……」
「そうね、そこまで言うなら別の男を探すわ。イベール家には戻らない」
「あなたがそれだと、私が恥をかくのよ!」
「……恥が何?心が死ぬよりマシよ」
クロードは、二人の空しい言い争いを心の中で唾棄した。
(こっちのせいにするなよ)
そして、こうも思う。
(みんな、空っぽだ。中身がなくて……外見ばかりに気を取られて)
この外見の良さを利用して、誰かを騙したり陥れたりして図太く生きればいいのだろうが、あいにく中身は悲しいほどに常識人で愚直なクロードなのであった。
だからこそ、深く傷つく。
誰も信じられなくなる。
爵位が何だ。顔が何だ。それは自分の本質ではない。誰かのトロフィーになる人生などまっぴらだ。
兄も兄だ。数年前に身分違いの女と駆け落ちして、王都を離れてしまった。嫡男の役割がこちらに流れて来て、父もとにかく誰かとクロードを結婚させようと熱が入る。次男としてはいい迷惑だった。
(……とりあえず、父が勝手に結んだ婚約は破棄しなければならない)
騎士宿舎へ、休暇の申請をしに行くことにした。幸い現在大きな戦はないので、すんなりと申請が通る。
次は、王宮内の近衛師団に向かう。クロードは王妃の衛兵なので、代わりに入ってもらえる人員を手配して貰うためだ。
王宮を歩いていると、すれ違う貴族の娘たちから黄色い悲鳴が上がる。
こちらに話し掛けて来ることはなく、ひそひそと内緒話。聞いたこともない噂が飛び交い、品定めの視線を浴びる。彼女たちの欲望の対象として、観賞物として、偶像として。
騎士は憧れて就いた職業だ。日陰で目立たず生きる人生もあっただろうが、それは彼にとって、自分の人生を生きているとは言えないのだった。だから騎士を辞す気はない。目立つ職業だから変わろうと言う気にはならない。
いざ師団の詰め所に入ると、曹長のエルネストが彼を見つけてやって来た。四十代半ばの、戦場では豪胆だが、都では少し頼りない背の高い男。クロード直属の上司でもある。
「おい、クロード!また王妃陛下から呼び出しがかかってるぞ!」
上司の言葉に、クロードはため息をついた。背後から、同僚がからかうように背中をつついて来る。
「……お前が王妃陛下の愛人だって言う噂は本当か?」
それを聞くや、クロードの胃はぎゅうっと絞り上げられた。
吐き気がする。
「……いや、違う」
「言えるわけないもんな?」
「……」
噂がひとり歩きする。いや、噂を歩かせる奴がいるようだ。
(……人の気も知らないで)
王妃の呼び出しを無視するわけには行かない。クロードはこちらでも休暇申請を出すと、投げやりな歩き方でばたばたと王妃の部屋に向かう。
王妃の部屋に入るなり、他の衛兵が白け顔で抜け出して行く。クロードはぞっとして、締まり行く扉を振り返って眺めた。
「クロード!」
王妃が飛びついて来ようとするのを、クロードはひょいとかわす。
「ああん、クロードの意地悪!」
王妃デジレ。
オレール三世の妻となって早二年。婚姻する前から気の多い派手な顔立ちの王妃で、既にいろんな男と数々の浮き名を流して来た。
「ねえ、来月一緒にパンプロナ公国へ行きましょうよ。私、妹の結婚式に参列しなければならないの」
クロードは無言で王妃を見下ろす。口を開く気にもならない。
「うふふ。そのつれないところが、かわいい」
前のめりになる王妃から、一歩退く。詰める王妃と、逃げる騎士。じりじりと、奇妙な鬼ごっこが始まった。
「クロード、私のお願いを聞いてくれる?」
埒が明かないことを悟り、王妃が先回りして命令する。
「一度でいいのよ。抱きしめてくれたら、あなたを諦められそうなの」
クロードは顔をしかめた。
望まない好意は、悪意と何ら変わらない。
「命令には従えません」
「あら……いいの?そんなこと言っちゃって」
「処遇はご自由に」
「つれないのね。いいじゃない、減るもんじゃないし」
「……」
クロードの心はすり減っている。
荒っぽい女たちのざらざらした行為に、チーズのごとくゴリゴリと削られて──
クロードはやけになった。
「今日のことを、陛下に──」
デジレ王妃は急に無表情になる。
「いいわ。そっちがそのつもりなら、こちらにも考えがあるから」
「……失礼します」
聞き耳を立てていたらしい他の衛兵が、その声を待って扉を開けた。
青い顔をしたクロードを眺めると、衛兵たちは顔を見合わせて憐れむように首を横に振る。
(もういい)
クロードはぽっきり心が折れた。
次は、望まぬ婚約を破棄しに行かなければならない。
(女なんか大嫌いだ)
荷物を取りに再びブノワ邸に戻ると、玄関脇で執事が手紙の整理をしていた。
蝋づけされた手紙の封を、ナイフでスパスパと子気味良く割って行く。
出かける前に、クロードは執事に声をかけた。
「私への手紙はあったか?」
すると、執事がびくりと身を震わせて手紙を取り落とした。
「いいえ、ありません」
「……ふーん」
クロードは、落ちた手紙を拾い上げる。
するとそこには──
〝クロード様。私とあなたは結婚する運命にあるのです。毎日神が夢に現れ、私にそう神託を囁きます。結婚していただけなければ、私は死にます。二日までにお返事くださいませ。三日には私はこの世にいないことでしょう〟
クロードは眩暈を起こし、震える手で執事に手紙を押しつけた。
「……あ、あるじゃないか……」
「クロード様、お気を確かに……」
「……ぐっ」
クロードは、玄関脇に用意してあった荷物を肩にからげた。
一刻も早く、王都から離れたい。
しかし、今から行く先にも、女がいるのだ。
クロードは四方八方を地獄に囲まれている気がして、馬にまたがりながらどっと脂汗をかいた。