31.夕闇溶ける指輪
帰宅したララは、ジゼルに与えられた本を隅々まで読んでいる。
社交界に出るに当たって、増やしておくべき知識がたくさんあった。国の歴史や王室の成り立ち、果ては有力貴族の家系図まで、農民の生活とはまるで違う文化やマナーを覚えておかなければならないのだ。ララがページを繰って孤軍奮闘していると、
「……ララ」
扉の向こう側から、クロードの声がした。ララは顔を上げて答える。
「いいわよ。入って」
その声に扉が開くと、向こう側にはクロードが見知らぬ男を連れて立っていた。ララは首をひねる。
(……誰だろう?また上官とかかしら)
男はうやうやしく入って来ると、ララの机の上を執事らと片付け始めた。
そして、ベルベット生地の箱を次々と彼女の前に積み上げて来る。
「?」
クロードがララの隣に座ると、彼らは一斉にその箱をパカパカと開けた。
目の前に広がったのは、色とりどりの宝石ルースの数々──
「!!」
ララは驚きに声も出なかった。クロードはにっこりと微笑む。
「驚いた?」
ララは素直に頷いた。
「宝石商を連れて来た。君に、婚約指輪を作ろうと思うんだ」
ララはぽかんとクロードを見上げる。二人の醸し出す温度を察し、商人らは部屋を出て行った。
「ゆ、指輪……?」
「ああ。このルースの中から自由な石を選んで、婚約指輪を作ろう」
「ええっと……でもまだ婚約は決まっていないんじゃ……」
「決まったよ。もう、父と腹を割って話し合ったんだ」
ララは、心配そうに彼の横顔を眺めた。
「……本当?」
「ララ、聞いてくれ。当初の希望だった通い婚は無理そうだけど──互いの住まいを数年おきに往復するのはどうだろう」
ララは虚空を見上げて呟いた。
「往復……」
「これからしばらくは、王命の通りにベラージュ村に住む。けれど、いつかは君と──君の子どもたちを伴って、王都のブノワ邸に帰る。そういう結婚生活だ」
「私はそれでもいいけど……モルガン様が納得するのかしら。自己を犠牲にしてお兄様から受け継いだ嫡男を手放すなんて、大分葛藤があるのでは」
クロードはララが父の葛藤を理解していたことに内心驚き、同時にやはり彼女を得難い少女だと思う。
「そこをどうにか、納得させたよ。父の葛藤はつまるところ、家に縛られたくなかったという本音の証左なのだから」
二人は静かに宝石を眺めた。
「……そっか。そう……なのね?」
「貴族は誰もが自由を望んでる。でも、手に入らない。その間でもがき苦しんでいるんだ……いや、これは貴族に限った話でもないけれど」
「……」
「あとは、ララに婚約を打診したのが父本人だったところも大きい。自分の責任であるからと、恨みつらみを飲み込んだようだ」
「ふふ。確かに……私たちを最初に結びつけたのは、モルガン様だったわね」
「あとは、君がブノワ家に入ってくれるか、というところだが──」
「いいわよ。私の姓が、ブノワになるということね」
「無論、マドレーンの爵位を残したいなら、息子にならば与えることが可能だが」
ララは旧マドレーン男爵の姿を思い出し、思わず笑った。
「あはは!別に、いらないわ」
「えっ……せっかく買った爵位なのに?」
「あれはね、人助けだったの。マドレーン男爵は文無しだったから、彼の懇願通りに爵位を買ってあげただけよ」
「……!?」
「ふふふ。あなたのような名門貴族には、決してお目にかかれない貴族事情もあるのよ」
クロードは、戸惑い気味にぽりぽりと頬を掻いた。
「そんな事情が……」
「驚いた?引き返すなら今よ」
クロードは苦笑いすると、ララの肩を引き寄せた。
「無理だと分かっていて、言ってるな」
「……そうね」
「ベラージュ村の畑の処遇についても、今ヤンさんと父が話し合っているそうだ」
「うちは小作農さんがたくさんいるから、多少放っておいても畑は整えられるわ。村には父もいるし──きっとその内、私たちの子どもが」
「ララ」
クロードは静かにララの両頬を押さえると、そっと唇を重ね合わせた。
ララは急に心が緩んで、ぽろぽろと涙を流す。
婚約のための地ならしに、かなりの時間と知恵が必要だった。クロードが奮闘した部分もあったし、ララが繰り広げた知策もあった。
最後には王室をも巻き込んで、ようやく叶った幸せ。
唇を塞いだまま少しのしかかって来たクロードを、ララは押し返した。
「もうっ……!そんなにされたら、苦しいよ……」
「……ごめん」
「ね、石を選びましょう。私、村で指輪はしないかも……だけど」
「街では指にはめて、村では首から下げておくといい」
「……そうする」
ララの湿った指が、ベルベットの上でころころと輝く宝石を摘んで行く。
「どれが、何て言う石なのかな?」
「石の値段はどれも一緒だ。大きいものもあれば小さいものもある。前者はよくある石で、後者は希少な石だ」
「私、石に詳しくないから……好きなのを選ぶね」
「ご自由に。ララが身に着けるものだから、ララが決めるといい」
ララの指先が、すぐにスクエア型の石を掴んだ。
青とピンクの二色に分かれている、夜になる瞬間のような幻想的なグラデーションを内包した石だ。
「この石が、一番きれいだわ」
「それは……バイカラーサファイアだな」
「ひとつの石に、二つの色が入っている宝石なのね?初めて見た」
「……それがいい?」
「うん!」
クロードは扉から顔を出し、宝石商を呼び戻した。
次は指輪のデザインを決めるらしい。
ララは目の前で繰り広げられるその流れを、まるで絵空事のようにぼんやりと眺めた。
婚約。
それを記念して、この石を入れた指輪がクロードから贈られるのだ。
ララはその瞬間を想像し、少し目の前を涙でにじませた。