1.農民少女、爵位を買う
抜けるような晴天と、緑萌える大地の狭間で。
からんからん、と牛鈴を鳴らしごった返す牛の群れに、背の低い、頭巾を被った少女がひとり混ざり込んでいた。
「ララ!」
彼女を呼ぶのは、同じく背の低い小太りの親父。
この一帯を所有する大農家の主で、名をヤンと言った。
振り返ったララは牛飼いに礼を言うと、自分の牛を十頭ほどぞろぞろと引き連れ、笑顔で群れから出て来た。
「パパ!早かったのね」
「ああ、今日は客人があるんだ」
牛飼いは残りの牛を引き連れ、草原を引き返して行く。それを見送って、ララは思い出したように父親に尋ねた。
「……お客様?誰かしら」
「マドレーン男爵だよ」
「……またお金を借りに来たのかしら」
マドレーン男爵。
かつてかの男爵家はこの一帯──ベラージュ村を領有していた。しかし農奴解放の流れで土地を切り売りし、十世代を経て今は名ばかりの貧乏男爵になっていた。先代までは何とか貴族らしい生活を送っていたが、当代はなけなしの財産を全てギャンブルで使い果たしたと専らの噂だった。更には、彼はアルコール中毒で著しく判断能力を欠いていた。嫁と子どもにも逃げられていた。とにかくいいところのない貴族男性なのであった。
「もうずいぶん前に、貸せる金はねぇって言ったんだけどよ」
ヤンは呆れ顔で笑って見せた。
「それでも来るってことは……もう死ぬのかな?」
残酷なことを平気で言えてしまうのは、男爵に貸した金が返って来る見込みがないからだ。正直、親子は彼を持て余していた。しかし長い付き合いがあったし、死なれても後味が悪い。
「死ぬ前に、いっぱい食べさせてあげましょうよ」
汗ばんだ頭にかぶった頭巾をするりと剥ぎ、ララは言った。
「人間、食べられれば何とかなるものよ」
少女の真っ直ぐな金色の髪が風に流される。背が小さいので子どもに見えるが、父親の目には最近、娘がとても大人びて見える。
ヤンは目を細めた。
「お前も、そろそろ……」
「?」
「……いや、何でもない」
口に出そうになった言葉を、ヤンは飲み込んだ。
「じゃあ、しょうがない。オキゾクサマを丁重におもてなしするか」
牛を十頭引き連れて、更にその後ろに犬をわんわんと走らせながら、二人は草原を歩いて行く。
しばらくすると、草原は麦畑へと変化する。
麦の穂たなびく真ん中に、大きな家が見えて来た。
屋敷の外では、小作農たちが食事を作っていた。
ここのところ戦乱続きで、満足な家を持てない小作農が多い。そこでヤンは屋敷の外にかまどをいくつか作り、誰でも使用出来るようにしてあった。小作農は自分達が食べる分をヤンの所有する牛や畑から拝借し、このかまどを使ってその場限りに食べるのである。
ヤンはそれを咎めなかった。むしろ歓迎した。
小作農がいるおかげで、この一帯の全員が食べられていることを知っているからだ。
「あら、今日のパンは美味しそうね?いつものと違う」
ララは小作農の少女、リエッタに声をかけた。黒い三つ編みのおさげを弾ませ、リエッタは勝ち気に笑う。
「パンに入れる水の比率を変えてみたの。固く焼いて保存出来るようにするのが一般的だけど、その日限りで消費するなら、水分を限界まで入れた方がふわふわで美味しいでしょ」
小作農を豊かにすることが、全体の利益に繋がるのだ。ヤンの農場が豊かだと知れ渡るほど、小作農がここで働きたがる。そのたびに、農地が拡大出来るという寸法だ。
リエッタにパンを分けてもらい、ヤンとララは屋敷に戻った。
梁の出た作りの、粗野だが広々とした大きな屋敷である。梁には様々な干し薬草が吊り下げられている。二人はここで、親ひとり子ひとりで暮らしていた。
荒削りの木のテーブルに、親子はパンを置いた。
「作り置きのスープがあるわ。あと、リンゴのジャムも」
農民は一日中働きづめだ。空腹に任せてそれらを全部たいらげてしまいたいところだったが、
「待て。正午にマドレーン男爵が来るはずだ。しばらく待って、みんなで食事会と行こう」
と父に言われ、ララは食べるのを少し我慢することにした。
マドレーン男爵は、金にもルーズだが時間にもルーズだ。
割と日が傾きかけた頃、扉がノックされた。
「すまん!途中でボロ馬車が故障してな!」
しかも、奴はすぐにどうでもいい嘘をつく。
ヤンは呆れたようにため息を吐きながら、ぎいと扉を開けた。
扉の向こうに立っていたのは、サイズの合っていないおんぼろのフロックコートを着た、やせっぽちの紳士。アルコールの飲み過ぎで、手はいつも震えている。髪は薄く、髭も剃り切れていない。おじいさんに見えるが、なんとこれでも四十代男性だ。
席を勧められ、マドレーン男爵は飢えた顔でそこに座った。
ふわふわのパン、リンゴのジャム、鶏肉の浮かんだ温かいスープ。
それを三人でがっついてから、ようやく意識を取り戻したように男爵は言った。
「金を……」
「もう貸せる金はない」
話は終わった。
男爵はふへっと笑った。世界で一番不幸な人間にしか出来ない、下卑た笑い方だ。
ララは固唾を飲んでそれを見守り、男爵がそろそろ死ぬというのはあながち冗談ではないのでは……と思ったりした。
ヤンも彼を突き放した手前、あえて表情を変えないでいる。
「じゃあ、あれだ」
男爵は、とてもいいことを思いついたようにこう言った。
「爵位を売ろう。買い取ってくれないかな」
ララは目を丸くした。他方、ヤンは肩をすくめて見せる。
「こんな不名誉な爵位を……?」
「そ、そこを何とか!」
どこから元気が湧いたのか、男爵は立ち上がって彼に哀願した。
「あの屋敷もやろう!」
「うちよりオンボロじゃないか、いらないね」
「爵位があれば、社交界にも出られるぞ!」
「別に……出なくても生きて行けるし」
すると男爵はヤンでは埒が明かないと思ったのか、ララにその鋭い眼光を向けた。
「ララ!君ならどうだ?爵位があれば、王宮で王族と会うことが出来る。地位の高い男とも、結婚出来るかもしれないぞ!」
ララは怯えた。ここで断りでもしたら、退路を失ったマドレーン男爵に首でも絞められるかもしれない。それだけの圧力を感じたのだ。
それに。
「もし爵位を買ったら──」
ララはそう言いながら立ち上がり、男爵に向かい合った。
「マドレーン様は、うちにお金の無心には来ないということですね?」
ヤンは頭痛を堪えるように自らの頭を押さえた。
「ああ、そうだとも」
マドレーン男爵はにやりと笑い、そう簡単に言った。
「もう、金の無心には来ない。約束しよう」
正直なところ──もしも彼が爵位を持ったまま再び金持ちにでもなれば、金を貸さなかったことを根に持って、ヤン一族を冷遇して来るであろう。男爵のさもしい性格上、容易にそういった行動が想像出来るのだった。
しかし彼が爵位を手放したとなれば、状況は変わって来る。爵位を持ったこちらが有利になり、彼の言葉は重みを失う──そうララは判断した。
幸い、ララには財産があった。この地域の農民は貴族と違って、男女に限らず財産を持つことが認められている。ララには、かつて亡くなった母から分け与えられた、なけなしの財産があったのだ。
(これは、人助け──そして、手切金)
ララは自分にそう言い聞かせた。
「じゃあ、その爵位、買います」
ヤンは娘の言葉に瞠目した。
「お前は急に何を……!」
「だってパパ。ここで例の爵位を買っておけば、私たちの立場がマドレーン様より上になるのよ?」
ヤンは娘のその言葉で全てを察した。
「なるほど。爵位は魔除けか……」
「そういうことです」
「悪くない案だ。お前が買いたいと言うのなら……」
「……マドレーン様、爵位はおいくら?」
「100万デニーだ」
ララの財産のほとんどを使うが、思ったより安い値段で爵位が買えた。マドレーン男爵との手切金と見れば、今まで踏み倒された額から考えても安いものだ。
「じゃあその値段で買います」
「ふひひ。ありがとうよ、ララ」
「二度とうちにお金の無心に来ないで下さいね、約束ですよ」
「へへっ。金の切れ目が縁の切れ目ってか……」
こうして取引は成立した。
簡単な契約書を結び、マドレーン男爵の全財産を買い取った。つまりララは、今日から「ララ・ド・マドレーン」となったのだ。
女男爵──彼女はこの国の貴族としては、なかなかに珍しい地位を掴んだのだった。
旧マドレーン男爵は少女から受け取った金をこの世の春みたいな顔で受け取ると、浮足立って出て行った。
残された親子は、契約書に目を落とす。
「……で、どうしたらいいのかしら」
「うーん……爵位の承認には、王の許可がいる。これも何かの縁だろうから、とりあえず王のサインを貰って名実共に貴族になっておくか」
「王のサインなんて、すぐに貰えるものなのかしら?」
社交界への行き方などまるで分からないが、一度王宮へ出向く必要がありそうだった。
「まあいいわ。とりあえず王宮事務局に手紙でお伺いを立てましょう」
「この際だから、いいドレスを一着作っとくか?」
ララは父と話し合い、急に手に入った爵位をどのように活かすべきか考えあぐねるのだった。
一か月後。
ララは父の操縦する馬車に乗っていた。
生まれて初めて訪れるシャノワール王国の都カロンに、ララは興奮を隠せずにいる。
まだ着慣れぬ一張羅の真新しいドレスに身を包み、薄化粧も施して、気分は貴族だ。
ヤンと共に王宮の前に降り立ったがまだ開城しないらしく、何らかの陳情に来たと見られる男性の群れが、門前で待っていた。きっと彼らも貴族なのだろう。仕立てのいい上質なフロックコートに身を包んだ紳士たちが、今か今かと王宮が開くのを待っている。
仕事着のヤンは、門が開くのを待って娘に言った。
「俺は正装じゃないから城には入れん。ララ、陛下の前で上手くやるんだぞ」
「分かったわ」
門が開かれ、ララは単身王宮に乗り込んで行った。
ヤンが娘の背中を見送っていた、その時。
「……お付きの方は一緒に行かなくてよろしいのですか?」
彼の背後からそう声が飛び、ヤンは後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、近衛兵の格好をした見目麗しい騎士──