閑話 猫とお風呂の話
それはある日の夜。
少し気温が高かった日のことだった。
「……今日は湯船にお湯入れないでいいかな」
夕食も終わり、後は風呂に入って寝るだけという頃。
微妙に汗のにじむシャツを引っ張りながらそう思った。
いつもは湯船にお湯を入れてそれに浸かっているけれど、今日は暑いので入らなくてもいい気がする。シャワーを浴びて汗を流せば十分じゃないだろうか、と。
たとえ夏でもお湯につかったほうがいいとは聞くものの、しかし、暑い日に蒸し暑い風呂場にいるのも億劫に思ってしまう。
……まあ、偶にはいいか
そう思い、風呂場に移動しようとした――
――そのとき。
「……」
気付く。
紅葉さんがこちらを見ている。
リビングから廊下へとつながる扉の影。
そこに体を半分隠しながら、こちらをじっと。隠れていない半分の目で僕を見ていた。
……なんでそんなところで、そんな風にこちらを見ているんだろう?
「……その、なに?」
その目から、何かを訴えかけるような物を感じる。
……なんとなく、気まずく感じて目を逸らした。
「……今日は、お風呂を焚かないのですか?」
「……」
「お風呂……」
……なるほど。
察するに、紅葉さんお風呂が好きだったのか。
見ると、紅葉さんの眉が悲しそうに垂れている。
心なしか肩も落ちていて、それでなくても小柄な体がさらに小さく見えた。
「……」
なんとなく一歩下がる。
悲しそうにしているように見えるのに、妙な圧力があった。
「お風呂は、大切だと思うんです。疲れが取れますし……」
「……」
「明日もお仕事に行かれるのでしょう? その英気を養うためにも、やはりお湯につかった方がよろしいかと……」
「……」
「体が温まると、活力が湧いてきます。体の冷えは万病のもと……たとえあなたがまだ若かったとしても、それを甘く見てはなりません……」
「……」
「お湯につかっていると幸せな気分になりませんか……? 私はお風呂が大好きです」
扉の影から熱い風呂へのアピールが飛んでくる。
……そんなに風呂が好きなのか……。
半分伏せられた目から、何が何でも風呂に入りたいという想いを感じる。
そういえばいつか、猫だけどお風呂大丈夫なんだろうか……なんて思ったけれど、全くの見当違いだったようだ。
「その、僕が入った後お湯を入れようか?」
「あなたは……浸からないのですか?」
「……今日ちょっと暑いから」
今もちょっと汗をかいてるし……いやもしかしてこれ冷や汗だろうか?
「いえ、いえ、なりません。家主様が入らないというのに、私のような居候だけがお風呂に浸かるなど……」
「……いや、気にしなくてもいいよ」
「……ダ、ダメです」
紅葉さんの頑固な一面が出ている。
お風呂には入りたいけど、家主と居候という立場の違いも大事にしたいんだろう。
「……」
紅葉さんと目が合う。
大きな目が訴えかけてきている。
「……」
いや、まあ。
そこまで言うのなら僕も入ってもいいけど。
絶対に入りたくないと言うほど嫌なわけでもないし。
「……そういえば、少し冷えて来たかも」
「……!!」
「やっぱりお湯に浸かろうかな」
「はい! そうするべきです! お風呂は万病に効きます! 長生きの秘訣です!」
瓦版を見たことがある人が言うと説得力があるなあ……。
最低でも江戸時代から生きてるみたいだし。
「では早速お風呂を焚いてきますね!」
紅葉さんは、そそくさと背中を向けて風呂場へ向かっていった。
それを見送りながら――
「――あ」
ふと、気付く。
ここから風呂場に行こうと思ったら、さきほど紅葉さんが陣取っていた扉をくぐる外に道はないことに。
あのままだと、僕がそこを通ろうと思ったら、紅葉さんに離れてもらうかそれこそあの人を押しのけて行く必要があった。
つまり、紅葉さんは僕を部屋から出られないようにしつつ、風呂を入れるように交渉していたのだろう。
「……なんであんな所にいるのかと思えば」
普段は台所を中心に動いている人なので不思議に思っていた。
紅葉さんは思っていたよりも押しが強い人だったのかもしれない。
そう考え、少し苦笑する。
たかが風呂で、と思ってしまった。
「……」
でも、ふと思いなおす。
誰かと一緒にいるというのはそういうことなのかもしれない。
誰にだって譲りたくない一線があって、それをお互いにすり合わせながら生きていく。
そういえば、生前母が言っていたことがある。
「誰かと一緒に住むということは、その誰かの習慣やこだわりを受け入れるということ……だったっけ」
たとえ家族だったとしても、それだけは忘れてはならない、と。
これまではその言葉の意味も分からなかったけど、ようやく少し実感できたかもしれない。
お風呂や順番が紅葉さんのこだわりで、きっと僕にもこだわりがあるのだろう。
自分では自覚していないけど、そう言うものだと思う。
そして、長く共に過ごすうちに、お互いのこだわりを摺り寄せていって、それが当たり前になっていく。
「給湯器の付喪神にお願いしてきたので、すぐに沸きます。肩まで使ってゆっくりしてきてくださいね?」
「うん、ありがとう」
「ちゃんと百まで数えるのですよ?」
「……うん」
紅葉さんが機嫌良さそうに帰ってくる。
その姿を見つつ、思う。
この一カ月の間に、紅葉さんの当たり前が僕の当たり前になる日が来るのだろうか、と。