猫とテレビの話
なんとなく、鏡の前に立つ。
洗面所の大きな鏡。いつも顔を洗ったり、髭を剃ったりしている場所。
「……」
そこに映っているのは、毎朝見慣れたつまらない男の顔だった。
別に、いきなり子供に若返ったりはしていないし、可愛げなんてあるはずもない。
……この男の頭をなでる、か。
よくそんなことをする気になったな、なんて思う。
「……やっぱり」
妖怪なだけあって、その辺りは人とは違うんだろうか?
少し、紅葉さんの年齢が気になる。
おそらく僕よりは遥かに年上のはずだ。なにせ偉い子ですね、とか言ってた。
いい歳した男にそれは普通じゃない。
……まあ、嫌と言う訳じゃないし、そのズレた行動を嬉しく思っている僕もいるんだけど。
「……ふう」
……紅葉さんと話していると、自分がどういう人間なのか忘れそうになる。
もう人との話し方なんて忘れたものだと思っていたのに。
数年前、親が亡くなって、僕は一人になって。
おまけに落ち込んでいるうちに僅かばかりいた友人とも疎遠になって、気付けば本当に傍には誰もいなかった。
……そして後に残ったのは、独り言ばかり言うコミュ障のダメ人間だ。
「……でも、覚えてたのか」
紅葉さんのおかげだ。
埋まっていたものを掘り出せた。
……どうにかこうにか、僕は会話というものを忘れていなかったらしい。
◆
風呂から上がり、リビングへと向かう。
いつものように下着姿で歩こうとして、紅葉さんを思い出し、すんでのところで止まった。
それ、普通にセクハラでは?
「……危ないところだった」
胸をなでおろす。
もう一人でいるわけではないのだ、少なくとも今は。
紅葉さんは一カ月くらいはいると言っていたし――。
「――」
……そうか、一か月か。
……その後、きっと、また。
「……ダメだ」
変な思考が浮かんで、何を考えているのかと頭を振る。
おかしなことを考えそうになった意識を無理やり逸らす。別のことを考えないと……。
他のこと、他のこと……。
「……そういえば、紅葉さんは風呂をどうするんだろう」
ふと、疑問に思う。
猫といえば、お湯が好きではないという先入観がある。
動画でも、猫が風呂に入るまいと暴れるやつを偶に見るし。
「……」
流石に普通の猫と一緒にするのは失礼か。
化け猫と猫では大きく違うのは間違いない。
そんなことを考えつつ、リビングの扉を開いた。
「あら、上がったのですか?」
「はい……うん」
敬語を訂正しつつ返事をする。
癖というものはなかなか抜けない。それでなくても、普段職場では敬語しか使わないし。おまけに僕が口を開くのは独り言か職場の業務連絡だけだ。あとコンビニ。
「一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「なに?」
「新聞はどこにあるのでしょうか。今の世情を見ておきたいのですが」
……新聞。
うちは取ってない。
両親がいたころは購読していたけれど、一人で暮らすようになってからは割れた皿を包むときしか使わないので止めてしまった。
「ごめん、うちには無いよ」
「そうなのですか? ……では、どうやって世の動きを知るのです?」
どうやってって……。
「それは、テレビとかネットとか」
「てれび? ねっと?」
……もしかして、知らない?
そんな雰囲気のする言い方だ。どうにも言いなれていない感じがするし。
「その、こういうのなんだけど」
リビングにあるテレビをつける。
ちょうど明日の天気予報をやっていた。
「これは……もしかして大きな建物の上にあったものでしょうか」
大きな建物の上…………?
少し悩み、気付く。
……もしかしてビルに付いている大型ディスプレイの事だろうか。
「大きくて変わった物があると思っていましたが、小さい物もあるのですね」
「……」
どちらかというと、これの大きいものが大型ディスプレイの気もするけど……まあそれはいい。それよりも、紅葉さんがテレビというものを知らなかったことに驚く。
妖怪だからだろうか?
妖怪の住むところにはテレビは無いのかもしれない。
「ところで、彼女は、何を言っているのですか?」
見ると、ちょうど天気予報が流れているところだった。
『――西に高気圧がありますので、しばらくは晴れと――』
女性キャスターが指し棒を片手に天気図の説明をしている。
僕たちにとっては見慣れたものだが、そうでない人にはこの図も理解は難しいのかもしれない。
「明日からの天気、かな。しばらく晴れると言ってる」
「未来の天気……」
紅葉さんがじっと画面を見つめる。
そしてしばらく動かなくなった。
「……」
しかし、テレビを知らないのか……。
思っていたよりも紅葉さんはこちらのことを知らないようだ。
……そういえば。
今日の朝、確か人の世のことを知らないので調べたいとか、問題を起こして追い出される妖怪もいるとか言っていた。
この調子なら、確かにそういう調査が要るのかもしれない。
「……なるほど、よく分かりました」
「そうなんですか?」
「ええ、今の私には何も分からないということが分かりました」
……なるほど。
「日ノ本の言葉を話しているはずなのに、何を言っているのかわからないのです。……やはりこれは時間を長めにとって正解でしたね……」
紅葉さんは遠い目をしてどこかを見ている。
考えてみれば、ニュースや天気予報は専門用語も多いかもしれない。つまり理解するためにはそのすべてを覚える必要があるということだ。
「しかし、人の世も進歩したのですね……今の人はこういうものを使って情報を得るのですか……」
昔は瓦版や新聞しかなかったのですが、そう小さい声でつぶやくのが聞こえた。
「……」
……瓦版って……いつの話なんだろう。
紅葉さんに年齢を聞くのが少し怖くなった。