猫と帰宅後の話
本日二話目です
……今日は、遅くなった。
いつもはしない考え事をしていたからかもしれない。
仕事からの帰り道、随分前に日の落ちた道を少し速足で歩く。
時計の短針はすでに九時を回っている。
人通りの絶えた道を街灯の光だけが照らしていた。
「……」
もうすぐ、家に着く。
そうすれば――どうなるのだろう。なんだかよく分からなくなってきた。
紅葉さんが家に居るはずで……いや、本当にいるのだろうか?
実は全部僕の妄想で、僕の頭がおかしくなっただけで、化け猫なんて当然のようにいないんじゃないだろうか。
扉を開けると真っ暗な家が待っていて、僕はただいまなんて言う必要はない。
……段々と、そんな想像が湧き上がってくる。
「……」
そして、そこまで考えて、少し不思議に思う。
どうして僕はこんなに紅葉さんのことを考えているんだろう?
だって、たった一日だ。
昨日の夜に合って、今日の朝一緒に食事をしただけ。それなのに、こんなにも紅葉さんのことを気にしている。
それが、なんだか不思議で。
「……」
……でも。
なぜだろうと少し目を瞑ると、すぐに分かった。
気付く。気付いていた。
昨日の夜から今日の朝にかけて、実はとても楽しんでいた自分に。
困惑もしたし、悩みもした。
化け猫とか妖怪とか呪いだとか。常識からあまりにも外れていて理解が出来ない。
……でもそれは久しぶりに誰かと一緒にいる喜びに勝るものではなくて。
紅葉さんが当然のように笑いかけてくれることが嬉しかった。
普通なら大したことは無い。
だって、ただ普通に会話していただけだ。そして普通に食事をしただけ。
……しかし、僕にとっては数年ぶりの事で。
「……ああ、そうか」
だからだ。紅葉さんなんて本当は居ないんじゃないかと考えている。
職場で一日過ごして、僕は自分の現実を再認識した。一人で生きてきたこれまでの生活を思い出した。
……だからこそ、自分の記憶が正しいのか分からなくなってくる。
だって、あんまりにも都合が良すぎるからだ。
「……」
気付けば足が重くなっていた。
現実を見たくない。
……本当は、遅くなったのもわざとだったのかもしれない。
帰って、夢だったらと思うと怖かった。
「……僕は」
俯きながらノロノロと歩く。
ゆっくりと。普段の半分くらいの速度で。
――そして、家の前に着いた。
「……」
顔を、上げられない。
扉を開けると、真っ暗な玄関が待っているんじゃないかと思う。
しかし、いつまでもそこに立っているわけにもいかなくて、なんとか手を上げる。
そして鍵を開け、ドアノブを掴み、開けた。
――扉の中は、とても明るかった。
「……」
「――あら、帰ったのですか? おかえりなさいませ」
そして、足音と声が聞こえてくる。
顔を向けると、エプロン姿の紅葉さんがリビングから顔を出していた。
――一瞬、家を間違えたのかと思った。僕の知る家と違いすぎて。
暖かい空気、優しい声色。
家庭の匂いがそこにあった。家があるだけではなく、誰かがいるということ。
「た、ただいま……」
なんとか言葉を返す。
長らく使わなかったからだろうか、思わず唇が震えた。
「着替えてきてください。今夕食の支度をしますので」
「……あ、は、はい」
促されて、慌てて玄関から上がった。
そして、服を着替えてリビングへと向かう。
――机の上にはすでに料理が並べられていた。
「い、いただきます」
「はい、召し上がれ」
箸を伸ばし、口に入れる。
「……」
……美味しい。
朝も思ったが、紅葉さんの作る料理はとても美味しかった。
鯖の塩焼きに、みそ汁、小鉢に煮物や酢の物が盛られていて色合いも良い。
素朴な優しい料理だと思う。
――なにより、店屋物じゃないし。
スーパーやコンビニの味に慣れた舌には、なおさら美味しく感じられた。
「魚が続きますが、大丈夫でしょうか?
お恥ずかしながら、肉があまり好きではなくて……」
「い、いえ、とても美味しいで……美味しいよ」
敬語のことを思い出しつつ否定する。
別に嘘じゃない。煮物の里芋なんて、丁寧に面取りされていて全く煮崩れしていないし、食べる人のことを考えた料理になっているし。
「その、魚が好きなのかな?」
なんとなく、何か話をしたくて口を開く。
ありきたりで面白くない言葉が出て来た。
「ふふ、ええ、化け猫ですから。魚が好きなんです」
しかし、紅葉さんは付き合ってくれるようだった。
化け猫だから魚。まあイメージ通りか。
「でも、もしお肉が好きなら行ってくださいね?料理するくらいならできますので」
「……いや、別にそこまで食べたい訳じゃないから」
肉は普通に好きだ。
でも魚なら魚でも構わない。
さっき肉は好きじゃないと言っていたし、自分が苦手な物を料理するというのも大変だし――。
――と、ふと気付く。
いつのまにか料理してもらうことが前提になっている。
別に紅葉さんにそんな義務はないはずなのに、自然と朝も夕飯も作ってもらっている自分に気付いた。
「……その、大変じゃない? 料理するの」
「いえ? そんなことはありませんよ?」
紅葉さんが首を傾げて不思議そうに言う。
……本当だろうか?
でも改めて見てもこの料理は手が込みすぎている。品数も多いし、作るのはきっと時間がかかるだろう。
「大丈夫です。料理は好きですから。それに、そもそもここに泊めてもらうために家事をするという約束だったではないですか」
「……そういえば」
最初にそんなことを言っていたか。
確か、お金はあまり出せないので家事をする――みたいなことを。つまりは家事は宿代ということだ。
「あなたはお仕事で疲れているんでしょう? 居候の身です。それくらいは私に任せてくださいな――今日だってこんなに遅かったのですから」
「いや、それは……」
今日遅かったのは、僕がおかしなことで悩んでいたからだ。
……仕事を頑張っていたわけじゃない。
「いつもこれくらいの時間まで仕事をしているんですか?」
「そんなことは……今日だけだよ」
「なら、今日は頑張ったのですね」
……紅葉さんはニコニコと微笑んでいる
そう言ってもらえるのは嬉しいけど、今回は僕の自業自得だ。
それを、こうも手放しに褒められると罪悪感がある。
「そんな、大したことは」
「あら、ダメですよ。頑張ったらちゃんと褒めてあげないと」
……褒めてあげる?
「ええ、あなた自身を。頑張って働いてきて、疲れているんでしょう? それならちゃんと褒めてあげないと。たとえ自分自身でも、それでは拗ねてしまいます」
「――」
自分自身を、褒める。
そういう考えはなかったかもしれない。
「……」
考える。疲れていると言えば、疲れているし、頑張ったかといえば、いつも通りには頑張ったと思う。
今日の仕事はきちんと終わったし、明日の影響もないだろう。社会人として、最低限を僕は果たした。
「……」
褒めてあげるべきなんだろうか?
しかし、自分自身を褒めるなんてどうやったらいいかわからない。
「あら、難しいですか?」
「……はい」
「そうですか……では私が褒めましょう」
……え?
「よく頑張りました。あなたは偉い子ですね」
気が付くと、隣に紅葉さんが立っていた。
そして、頭に、暖かいものが触れる感触がある。
「えらいえらい」
小さな手が頭をゆっくりと撫でる感触があった。
「よく頑張りましたね」
「……その、恥ずかしいです」
隣を見ると、紅葉さんと目が合う。
幼げな顔立ちがすぐ傍にあった。
……優しい目で僕を見ている。
「……」
恥ずかしい、とても恥ずかしいけれど。
……でも少し嬉しかった。
だって、誰かに褒められるなんて……これも久しぶりだったのだから。