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猫と朝食の話

 いい匂いがして、目が覚めた。

 食欲をかき立てるようないい香りが鼻孔を擽る。


「……?」


 なんだろう、これは。

 寝起きのはっきりとしない頭でそんなことを考える。


 こんな匂い、もう随分と嗅いでいない気がする。

 みそ汁と……魚の焼ける匂いだろうか? 確かなことは分からないけれど、それでも自分の家から漂ってくる匂いではない。

 

 ――隣の家だろうか?


「……くぁ」


 欠伸をしながら体を伸ばす。

 そして立ち上がり、気だるい体を引きずるように歩きだした。

 

「……昨日、窓を閉め忘れたかな」


 独り言を呟きつつ、階段を下りる。

 ……少し不用心だったかもしれない。自分の部屋は二階にあるので、もし空き巣が一階に入っても気付かないだろうし。


「……」


 ……しかし、いい匂いだ。

 自然とお腹が鳴る。隣の家は朝からご馳走でも食べているのかもしれない。


「冷蔵庫に何かあったかな……」


 普段、朝は食べないけれど、今日は何か食べたい気分だった。

 もし何もないなら、少し早めに出てどこかの店にでも行けばいいだろう。


 そう思い、いつものようにリビングの扉を開け――


「――あら、おはようございます」

「……」


 そこには、一人の少女が立っていた。

 腰まで届く黒い髪に、赤いワンピース。小柄な体には飾りのない簡素なエプロンをつけていて――。


「……あ」


 そこで、ようやく思い出す。

 昨日何があったのか。目の前にいる彼女が一体誰で、どんな用でここに来たのか。


「……えっと、おはよう、ございます。――紅葉さん」


 一瞬名前に悩み、なんとか思い出す。

 そうだ、彼女は紅葉さんだ。昨日突然現れた、化け猫……であるらしい。


 ……どうやら、昨日のことは夢じゃなかったようだ。


「はい。勝手ながら食事を作らせてもらいました。顔を洗って来たら朝食にいたしましょう」

「あ、はい」


 促されるままにリビングを出て、洗面所へと向かう。

 いつもは出勤前に洗うんだけど……なんて思いつつ、水をかぶった。

 

 そして洗面台の横に置かれていたタオルで顔を拭き――そういえばこのタオル、僕は用意していない。……彼女が出しておいてくれたのだろうか?


「しゃっきりしましたか?」

「……はい」


 少しすっきりした頭でリビングに戻ると、紅葉さんが笑顔で迎えてくれた。

 彼女の手には茶碗としゃもじがあって、ペタペタとご飯を盛っている。

 

「座ってください。朝ごはんにしましょう」

 

 言われるままに椅子に座る。

 そして机の上を確認すると、そこにはいくつもの料理が並べられていた。


「……これは、すごいですね」


 思わずそう言ってしまうくらいには、手の込んだ料理だ。

 ご飯に鮭の塩焼き、みそ汁。小鉢が二品と漬物も添えられていた。


 ――さっきの匂いはこれだったのか。

 そう、遅ればせながら理解する。


「お口に合うかわかりませんが、どうぞ、召し上がってください」

「……いただきます」


 まずみそ汁を手に取り、啜る。

 口の中に豊かな出汁のうまみと、味噌の香りが広がって――とても美味しい。そう思う。


「――どうですか?」

「……すごく美味しいです」

「なら、よかった」


 ご飯をかき込み、鮭や小鉢にも手を伸ばす。

 どれもちょうどいい味付けで、ご飯が次から次へと進んだ。


「……ふふ」


 ふと、そんな忍び笑いが聞こえて前を見ると、そんな僕を紅葉さんはニコニコしながら見ていた。

 口元に手を当てて微笑むその姿は、その幼い外見には不釣り合いなように見えて、しかし妙に似合っているようにも感じる。

 

「……」


 ……少し、がっつきすぎただろうか。

 前のめりになっていた体を直し、背筋を伸ばす。


「……その、恥ずかしい姿を見せたかもしれません」

「いえいえ、美味しそうに食べてもらえて何よりです」


 彼女の微笑ましいものを見るような眼から顔を背けつつ、頭を掻く。

 いい年をして何をしているんだ、僕は。


「……その、紅葉さん」

「はい」

 

 取り繕うように声を出す。

 落ち着かなくて、なんでもいいから話をしたい気分だった。


 何か話すことはないかと頭を巡らせて――。


「その…………今日からの予定なんですが」


 話題を探し、一つ思い当たる。

 それは、これから同じ家で暮らす以上、聞いておかなければならないことだった。


 彼女の目的はもう聞いているし、理由も理解している。

 これから彼女は薬を買い集めたりするのだろうけれど……しかし、具体的にどういう予定を立てているのか。


 話したくないのなら仕方ないけれど、できれば聞いておきたかった。

 その予定によっては渡すものもあるだろうし。


「差し支えなければ、教えて欲しいんですが……」

「はい、もちろんです。私は間借りさせてもらう身ですもの。……しかし、その前に一つよろしいでしょうか?」


 紅葉さんが人差し指を立てる。


「……なんでしょう?」

「私に敬語を使わないで下さい。あなたはこの家の家主なのですから」


 …………家主?

 あまり聞き慣れない単語に混乱する。それに敬語を使うな?

 

 それはまあ。別に問題はないけれど。


「……?」

「お願いします。私が落ち着きませんので」


 ……まあ、無理に逆らうことでもない。


「はあ、まあ、分かりました……分かったよ」

「はい」


 紅葉さんが両手を合わせてにっこりと笑う。

 なんだか、よく出来ました、と言われている気がした。


 ――やっぱり、この人、外見と実年齢が合ってないんだろうな……。

 漫画やら小説でもよく見る展開だ。想像だけど、少なくとも子供――十代じゃないだろう。 

 

「それで、これからの予定ですが」

「あ、はい」


 一瞬何かと思って、思い出す。

 そうだ。僕が質問していたんだった。

 

「しばらくは調べものをしようかと思っています」

「調べもの?」

「はい、恥ずかしながら、私は人の世に詳しくありませんので。幸いなことに、しばらく使う分の薬はありますし」


 物を知らずに、問題を起こすわけにもいきませんから。

 そう紅葉さんが言う。


 聞くところによると、最近トラブルを起こす妖怪が多いらしい。

 世間のことを知らないままに人の中に混ざり、問題を起こして追い出されるような者が。


「ことは薬ですから。消耗品ですし、またこちらに来ることも在ると思います。その時に困らないようにしておきたいのです」

「……なるほど」

 

 こちらの中で生活しながら、ルールを学ぶということか。

 それもそうか。だって一カ月だし。薬を買うだけならそんなに時間は必要ない。


 ……しかし。

 調べものか。当然、外出する機会もきっとあるだろう。


 それなら、彼女に渡すものがあった。 


「……その、だったら後で鍵を渡すから」

「鍵を? ――いいのですか?」


 ……まあ、正直ほぼ初対面の人に鍵を渡すというのは抵抗があるのは事実だ。

 しかし、同じ家で暮らす限り当然のことでもある。鍵を開けたまま調査に出られたらそれこそ大変だし。


「必要だと思う」

「……ありがとうございます」


 手を胸の前で合わせ、彼女が微笑む。


「丁重に扱いますね?」

「あ、うん」


 ……あれ、なんでだろう。

 彼女が妙に嬉しそうに見えた。


「……」


 なんとなく、目を逸らす。

 誤魔化すように、みそ汁を啜った。


「……あの、ところでお聞きしたいことがあるのですが……」

「なんで……なに?」


 紅葉さんの言葉に、思わず敬語を使いそうになりながら返答する。

 見ると、彼女は少し恥ずかしそうにしていた。


「その、踏み台のようなものは無いでしょうか?ここの台所は少し背が高いので……」

「……」


 ……なるほど。

 そういえば紅葉さんの身長は低めに見える。


 僕の身長が百八十くらいで、彼女の頭が胸の辺りだから――多分百四十台くらいだろうか?

 それではキッチンの適正身長には足りないのだろう。


 彼女は顔立ちも幼く見えるし、体格もかなり華奢だ。

 今、もう一度見ても十代前半にしか見えない。


「多分、物置にあるから後で出しておくよ」

「お願いします」


 頬を少し染めている紅葉さんは、それまでと違い外見相応に見える。


「……」


 ふと思う。少し楽しい、と。

 ただ会話していただけだ。内容は少しおかしいけれど、ただ会話していただけ。

 

 ……でも、それがなんだか楽しかった。

 きっと、人とちゃんと話すのは久しぶりだったからだろう。

 

 

 ◆



 キーボードを叩く音と紙の擦れる音が周囲に響く。

 そして、それの合間を縫うように遠くで人の話す声が聞こえてきた。


「……」


 そばで電話が鳴り、すぐにその音が止んだ。

 ガチャリという音と、それに繋がったコードが伸びる音。


「はい。お電話ありがとうございます――」


 そんな声を聴きながら、僕も机に座ってキーボードを叩いている。

 偶に資料をめくると、それがカサカサという乾いた音を立てた。


「……」


 これまでと同じ場所、これまでと同じ仕事。

 家と違って不思議なものはなく、昨日までと同じ今日がやって来ている。


 僕も、いつものように無言で仕事をしていた。

 慣れた仕事を、慣れた手順で。同じように行う。


「これやっといてくれるか?」

「……はい、わかりました」


 一日に数回だけある会話は指示を出されるときだけ。あと、偶に同僚から確認のために話しかけられるくらい。


 コミュ障の僕に友達はいない。

 話しかけられても気後れしてまともに話せないので、新しく友達が出来たりもしない。

 

 昼も、自分の席でコンビニの弁当を食べていた。


「……」


 全くもって、いつもと同じだ。

 楽しくもないが、辛いこともない時間。特別なことは何もない。


 でも、それでいいとも思っていた。

 嫌われて排斥されることに比べたら遥かに良い。


 ――少しだけ、寂しいけれど。


「……」


 無言で仕事をする。

 

 何もないということは苦しくないということだ。

 僕のようなつまらない人間には、何よりもそれが大事なのだから。


 ――段々と、いつもの自分に戻っていく。


「……」

 

 ……思い出してみると、嘘みたいだ。

 

 朝、どういう訳か、僕は紅葉さんと普通に話していた。

 気後れすることも、つい目を逸らすこともなく、まるで普通の人間みたいに。

 

 紅葉さんは、とても話しやすい。

 ……どうしてだろうか?


 妖怪だから? 最初が強烈で緊張している余裕がなかったから?

 小柄で子供のような外見をしているからだろうか?


 少し考えて――。


 ――しかし、よく分からなかった。

 

 僕はそれほど自分の感情に詳しくない。

 自分を完璧に客観視する事は出来ない。


「……」

 

 ……でも、強いて言うなら。

 彼女の雰囲気が優しいから、というのはあると思う。


 ずっと微笑んでいて、口調が落ち着いていて。

 笑顔の力を感じる。どこか、許されている感覚がある。何がとは言わないが、何かが。


「化け猫、か」


 小さくつぶやく。

 日常生活では通常使わない言葉だ。


 出てくるのは物語の中だけで、現実にはあり得なかったはずの存在。


 ……物語なら、彼女は昔飼っていた猫だったりするのだろうか。

 後は、家族の生まれ変わりとか。そういう漫画を見たことがある気もする。


 亡くなってから数年後に帰ってくる展開。

 それなら僕が彼女に気後れしない理由になるのかもしれない。


 ……まあ、そんなことはあり得ないけど。


 猫なんて飼ったことはないし、家族の誰にも似ていない。

 僕は主人公ではなく、どこにでもいるような凡人以下の存在でしかなかった。


「……」


 ……まるで夢を見ていたみたいだ。

 あまりにも現実味が無くて、こうして家から離れると全て嘘だったんじゃないかという気がしてくる。


『行ってきます』


 朝、そう言ったことを思い出す。

 懐かしくて、嬉しい言葉。


 ――でも。『おかえり』は考えないようにしよう。そう思う。

 なぜなら夢は覚めるもので……そして約束は時に守られない。それを僕は知っていた。



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