猫が帰る話
本日は四話投稿します
新着から来た方は注意してください
そして、朝がやってくる。
……紅葉さんが帰る日がやって来た。
「……では、そろそろ行きます」
家の玄関、その真ん中に紅葉さんは立っている。
手には大きなバッグが下げられていて、背中には大型のバックパックが背負われていた。その中には撮りためた写真や買い集めた薬が入っているはずで。
百箱もの薬が詰まっているバックパックは大きく膨れ上がって、小柄な紅葉さんが持つと、まるでカタツムリのようにも見える。
……かなり歩きにくそうだ。
「本当に送らなくてもいい? 途中まででも車で……」
「気持ちは嬉しいですけど、そういう訳にもいかないんです。極力、人間には場所を教えてはならないと決まっているので」
そうなのか……いや、それはそうだ。何故、妖怪が電気も通らない山の中に里を作っているか。それを考えれば想像できることだった。
妖怪はそれが好きだから、なんて理由ではないだろう。
もしそうなら、若い妖怪が里を出たがる……なんてことにはならないはずだ。
……もっと、どうしようもない理由があるんじゃないだろうか。
「ふふ、そう寂しそうな顔をしないで下さい。すぐに帰ってきますから」
「うん、待ってるよ」
すぐ、すぐか……。
どれくらいになるのだろう。結局紅葉さんは具体的な日数は教えてくれなかった。……多分紅葉さんも分からないのだろう。
数週間。それが唯一紅葉さんが教えてくれたことで……。
……期限が分からないということが、これほどまでに恐ろしいことなのだと、僕は初めて知った。
日本では細かく期限を決めるのが当然だけど、実はそれは優しい決まりなのかもしれない。なんてことを思う。
「連絡は、取れないんだよね」
「ごめんなさい。電話番号も秘密で」
里長の家に黒電話があると言うから少し期待していたんだけど。
しかし、ダメというのなら仕方ない。僕は一応大人だった。何とか大人のフリを出来ていた。
「昼ご飯と晩ご飯は冷蔵庫に入っていますので、温めて食べてください」
「ありがとう。紅葉さんも忙しいのに」
「いえ、なんてことはありません」
大げさなのかもしれない。だって紅葉さんはすぐに帰ってくると言っている。
もしかしたら数日にも帰ってくるのかもしれない。そうなれば今こうして色々考えていることに意味はなくなるだろう。
……でも。
情けないことだけど、大の大人がみっともないけれど、それでも。
「ちゃんと暖かくして寝てくださいね」
「うん」
「風邪ひいたら嫌ですよ」
「気をつけるよ」
よくあるような別れの挨拶。
でもよくあるからこそ、一言一言が最後に近づいている気がした。
「……では、そろそろ行きますね」
「……うん」
そして、その時が来る。
紅葉さんが一歩前に踏み出した。
「必ず、帰ってきますから」
「待ってるよ」
扉を開けて、紅葉さんが出ていく。
そして、庭を通って、道路に出て……最後に一度振り向いて、手を振った。
「……」
それに手を振り返し……紅葉さんは前を向いて去っていった。
道路に出て、その背中を見送る。
赤い影が角を曲がるまで、その姿を見続けた。
◆
「……」
家に戻り、ソファに腰掛ける。
そしてもたれかかって上を向くと、遠くから車の音が聞こえて来た。
家の中の音じゃない。
家の中からは音は聞こえない。
静かだ。久しぶりの感覚。
紅葉さんがいる間は……どこかから音が聞こえていた気もする。それとも、いなくなって初めて音を気にしただけなのだろうか。
……ああ、そういえば、両親が亡くなった時も音が気になったような――。
「……はあ」
髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
……久しぶりに思考がネガティブになっている自覚があった。
僕の本来の性格。
紅葉さんがいたころは知らず知らずのうちに隠れていたもの。
「……仕事、行けばよかった」
落ち込んでいくのが辛かった。
それなら働いていた方が楽だったと思う。
「まだ七時半か……」
十分に仕事に行ける時間。
……紅葉さんがこれくらいの時間に家を出るのは知っていた。
でも、紅葉さんが出て、すぐに慌てて家を出るのが嫌で、わざわざ休みを取ったのに。
そのことを少し後悔する。
「……明日も休みだったっけ」
今日は金曜日で、明日も明後日も休み。
そう思うと憂鬱になってくる。
「……しばらくは一人か」
一カ月前は普通だったはずなのに、今はこんなにも辛い。
以前の自分は何を楽しみに生きていたのだろう。今となっては分からなかった。
「…………はあ」
ため息をつきつつ、立ち上がる。
このまま考えていても悪い方にばかり行きそうだ。
何かを、何かをしよう。
「……」
その何かを探して家の中を歩いて回る。
リビングを抜け出して、風呂場へと――そうだ、風呂掃除は――と、そう思って。
「……綺麗だ」
しかし、風呂場は綺麗に磨かれている。
トイレも、廊下も。よく見れば窓も丁寧に掃除されていた。
「……紅葉さん」
誰がやったのかなんて考えるまでもない。
紅葉さんが掃除していってくれたのだろう。
「……」
何もすることが無くて、リビングに戻る。
ふと台所に目をやると、そこは様々なものが置かれつつも、綺麗に整理されていた。
ここは一カ月前から一番変わったところだろう。
母が残した形のままに放置されていた台所は、現在は紅葉さんの使いやすいように改造されている。
高いところまで棚はあるけれど……しかしその真ん中ほどまでしか物は入っていない。
そういえば、最初の頃紅葉さんにお願いされて一通り下に下ろしたんだったか。
「……ん?」
コツン、という感触が足に伝わる。
見ると、そこには踏み台が置かれていた。身長の低い紅葉さんの為に用意されたもの。
「……」
なんだろうね、これは。
気分転換したくて、家の中を歩き回ったのに、どこもかしこも紅葉さんの跡が残っている。
それはそうだ。だって一カ月も一緒に暮らしたのだから。紅葉さんの手が入っていないところなんて殆どないのだろう。
……寂しさは増すばかりだ。
「……庭の手入れでもしよう」
そこだけは僕が一人でやっていた。
それなら余計なことは考えずに済むかもしれない。
◆
雑草を抜き、水を撒いて――庭の手入れをする。
そしてついでに車を洗ったりしていると、もう昼になっていた。
部屋に戻って、冷蔵庫から昼食を取り出した。
紅葉さんの用意してくれたもの。肉類の代わりにシーフードが多く使われたそれは、そういえばこの家に来たばかりの物と少し違う気がする。
最初の頃はもっとこう……野菜ばっかりだったような。
煮物とか、酢の物とかそういうやつ。
「僕に合わせてくれてたのかな」
もしそうだとしたら、お礼を言わなければならない。
……でも、紅葉さんは今この家に居なくて。
「……僕は、鈍いな」
どうしてもっと早く気付けなかったのか。
気にも留めずに流していたのか。
……もっとちゃんと見ているべきだった。
「僕はいつもそうだ」
目の前からいなくなって、初めて気づく。
両親のときもそうだし、今もそうだ。
「……」
……でも。
でも、紅葉さんはまたきっと会えるんだよね、と思った。
両親とは違って、紅葉さんはまだ生きているし、きっと会える。
だから、まだ取り返しはつくに違いない。
「……」
頑張らないと。
……そう考えると、なんとなく、少しだけ前向きになれた気がした。
「……そういえば見てるんだっけ」
ふと、天井を見る。
誰もいないけど、でもいるはずだった。
付喪神。
この家にはそれが付いているのだと、紅葉さんが教えてくれた。そして、いつも僕を見守っていると。
……なら、あんまりダメなところは見せられない。
見られていると思うと、頑張らないといけない気がしてくる。
僕は現金な人間だった。
「……紅葉さんに呆れられないように」
帰ってきたときに、情けない男だと思われたくはない。
なにせ、紅葉さんは付喪神と話せるんだから。
「……頑張らないと」
ちゃんと生きる。
食べ物をきちんと食べて、風邪を引かないように暖かくして寝る。
紅葉さんが帰ってきたときに、胸を張って会えるように。
「……うん」
そう思うと……何だか立ち上がれるような、そんな気がした。




