閑話 猫と映画の話
色々と人生がひっくり返ってから数日。
あれから紅葉さんは偶にこちらを赤い顔でちらちら見ているが、しかし基本的にはこれまで通りの生活が続いている。
少し皿に盛られる料理の種類が増えた気もするし、朝玄関先まで来て見送ってくれるようになったけど、それくらい。
かく言う僕もそうだ。
最初は落ち着かなかったけど、それでも時間が経つごとに慣れて来た。
気恥ずかしさも段々と慣れて来たし――。
「……くぁ」
――なんて、時間経過の偉大さを考えながら、車の中で欠伸をする。
駐車場の端、止めた車の中で僕は紅葉さんを待っていた。
「……」
なんとなく手元から顔を上げ、正面を見る。
……そこにはドラッグストアの大きな看板があった。
今日十件目のその看板は、しかしそれぞれ劣化具合が違う。
風雨に晒される看板というのは、手入れの難しさもあって、一番作られた年代が出るのかなあ……となんとなく思った。
「……くぁ」
……まあ、どうでもいいことか。
もう一度欠伸をしながら手元に視線を戻す。
今日は、朝から近場のドラッグストアを梯子して回っていた。
何のためかというと、当然、紅葉さんの薬のためだ。
僕の役目はというと、その足代わり。
車を出して紅葉さんをドラッグストアまで運ぶ係だった。
「……でも、紅葉さんもちょっと変わったよね」
ふと呟く。
あの日から紅葉さんは少しだけ変わった。
大きく変わったわけではない。
人というのはそう簡単に変わるわけではないし、僕も別にそんなことは望んでいない。
……でも、少しだけ僕にも手伝わせてくれるようになった。
それまではよほどのことが無い限り、居候が家主に……なんて言って断っていたのに。
「……」
それがどういう心境の変化なのかは、紅葉さんではない僕には分からない。
でも……もしかしたら、あの日に僕が言ったことが関係しているのかな……と思うと、あの日頑張ったかいがあるのかなと思ったりする。
……あとは、まあ。
自分で言うのも恥ずかしいけど、僕たちの関係が家主と居候じゃなくなったからとか。
「……あ」
――と、入り口から赤い影が出て来た。
そしてその影はこちらに一直線に向かってくる。
「戻りました」
「おかえり、紅葉さん」
扉を開け、紅葉さんが笑顔で言う。僕もそれに笑顔で返した。
「薬は買えた?」
「はい、買えました。これで予定の量は全部買えたことになりますね」
嬉しそうに紅葉さんが薬の箱を見せてくれる。
ここで買った分で、百箱。それが最初に予定されていた分の薬らしい。
それで足りるのかと思ったけれど、人間とは服用量が違うとかで、病人が全員で使っても半年分くらいはあるんだとか。あと、そもそもの人数も少ないようだ。
「おめでとう」
「あなたのおかげです」
「……そうかな?」
「そうですよ」
別にそんなことは無いと思うけれど、せっかく紅葉さんが感謝してくれているので受け取っておくことにする。
まあ、僕も何もしていないわけじゃないし。
「後ろに置きますね」
「うん」
紅葉さんが助手席から乗り出すようにして、上半身を後部座席の方に突っ込む。
そして、ごそごそと荷物を整理し始めた。
「……」
その姿を見て、ふと思い出すことがある。
そういえば、僕もいつかこうしていたような気がする。運転席には父が乗っていて、後部座席には母が乗っていた。そして僕は母に話しかけるためにこうして――。
「――」
少し、懐かしい気分になった。
「……と。はい、大丈夫です」
紅葉さんが助手席に戻ってくる。
そして、いそいそとシートベルトを体に巻いた。
「……じゃあ、帰ろうか」
時計を見ると、まだ午後二時を回ったところ。
思ったよりも早く終わったようだった。
「そうですね……あ、そういえばこんなものをもらったのですが」
「え?」
紅葉さんが差し出している物を見ると、大規模商業施設の割引券だった。
このドラッグストアからだと、道路を挟んで向かい側にある建物。数年前に出来たばかりの大規模な商業施設で使えるものだ。
「これ、割引券だね、この近くで使えるみたいだけど」
「近くですか?」
道路の先を指で指すと紅葉さんの目がそちらに向く。
「あそこに……なんて言ったらいいかな、店がたくさん入ってるんだよ。本屋とか、喫茶店とか、服屋とか。最上階には映画館もあったかな」
「映画?」
紅葉さんが興味を引かれたように呟く。
「以前……退魔師との協定で街に来たときでしょうか。ちょうど入って来たばかりだったような」
「協定って、八十年前とか言ってなかった?」
「ええ。町のいたるところにチラシが張られていて……皆が盛り上がっていたのを覚えています」
懐かしそうなそうな顔をして紅葉さんが言う。
……相変わらず、年月のスケールが違う話だ。
「興味があるなら行ってみる?」
「いいのですか?」
時間はあるのだし、偶にはいいだろう。
「ありがとうございます。……では私の希望ですし、お金は私が出しますね」
「……え、うん……って、いやいや、それはちょっと」
紅葉さんが当然のように言うので思わずうなずきかけ――慌てて止める。
それはちょっと勘弁してほしい。
「僕が出すよ……お願いだから出させて」
「そ、そうですか?」
いつもお世話になっているというのもあるけど、そもそも絵面が酷すぎる。
普段はしっかりしているので思わず忘れそうになるけれど、紅葉さんの外見はかなり幼めだ。
そんな小柄な少女に奢らせる成人男性とか……色々と酷すぎる。
「流石に人目があるから」
そんなことをしたらもう二度とその近くには近づけない。僕みたいな人間だって、人目を気にする心くらいはあるのだ。
「いえ、ですから、車の中でお金を渡して、店ではあなたが払えば良いのでは?」
「……あーなるほど」
そういえば紅葉さん、結構そういうの慣れてるんだった。
世間慣れしているというか……怪しまれないように努力することを知っているというか。
「でも、気持ちはありがたいけど、それはそれで情けないから僕が出すよ」
「……そうですか? ありがとうございます」
なんて、そんなことを言いながら車を出す。
なんでもない会話が心地よかった。
◆
数時間後。
映画を見終わって僕らは車に戻ってきていた。
「変わった話でした」
紅葉さんが呟く。
今日見たのは最近話題になっている怪獣もので……紅葉さんはそれを見た後からずっと首を傾げている。
……僕からすると普通の怪獣ものだったんだけど。
初めて映画を見る人からすれば何か思うところがあるんだろうか。
ああいう類の映画は事前知識が無くても楽しめるので、紅葉さんに向いているのかと思ったけど……失敗だったかもしれない。
「よく分からないところが沢山あったのですが……そもそも、退魔師はどこに行ったのです?」
「……あ、気になるのそこなんだ」
「当然でしょう? あんなに大きな妖怪が暴れているのに」
そもそもの話をするなら、あれは大きなトカゲであって、妖怪ではないのだけど。
妖怪である紅葉さんの常識からするとそこが気になるのかもしれない。
「昔、がしゃどくろが暴れていたときはすぐに殺しに来たではないですか……」
「そんなことが……」
現実で怪獣映画みたいなことがあったのか……。
少し、少年心をくすぐられる話だった。
「ただ、内容はよくわからなかったのですが、映画自体はすごかったです。こう、わーっとしてて」
「ああ、テレビとは違うよね」
「ええ、目の前にいっぱいに景色が広がって……大きな音や声が耳を叩いて、上手く言葉に出来ないのですが、驚きました」
それが映画の醍醐味だ。
僕も嫌いではなくて、紅葉さんが来る前は偶に見に来ていた。
「私、今日のことはきっと忘れません」
「……それはちょっと大げさだよ」
そうですか? と笑う紅葉さんに笑って返す。
僕も素直に笑って帰す。
――ふと、思う。
少し前までなら、その言葉に思うところがあっただろう。
一カ月と決まった滞在期間の中、思い出を作ろうとしていたかもしれない。
……でも。僕たちの関係は変わった。
これからきっと、時間は沢山ある。映画なんて何度でも見に行けばいいのだから。




