猫と努力の話
色々と動き回った休日も終わり、また平日がやって来た。
僕はこれまでと同じように、朝仕事へ行き、夕方に帰ってくる生活に戻る。
――ただ、紅葉さんの生活は少し変わるようだった。
◆
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶をし、笑顔で挨拶を返してもらえる。そのことが嬉しい。
それはある意味当然のことかもしれないけれど、でも、ついこの間まで僕にとって当然ではなかったから。
「座ってください、朝食にしましょう」
「うん」
いただきます、と手を合わせてみそ汁に口をつける。
口の中に豊かな味噌の風味が広がった。とても美味しい。
紅葉さんと一緒に食事をとることにも慣れてきた。
穏やかで、心地いい時間がそこにある。
「味はどうでしょうか」
「美味しいよ」
こんな時間がずっと続けばいいと思う。
そう願っている。
「……」
……例え、終わりが近づいていることが分かっていても。
カレンダーを見る。
今日で三週目、紅葉さんが家にいるのも、あと十日ほどだった。
◆
「今日は、紅葉さんはどうするの?」
「お金も工面出来ましたし、薬を買い集めようかと」
食後、ゆっくりお茶を飲みながら雑談する。
熱いお茶を飲むと、心が落ち着いていくような気がする。
暖かいものが胃の辺りからじんわりと広がっていくような感覚。
「場所は分かる?」
「スマホの地図が分かるようになってきましたので」
差し出されるそれを見ると、地図のあちこちにピンが刺さっている。
一つ拡大してみると、少し離れたところにあるドラッグストアのようだった。
「……凄い」
紅葉さん、慣れるのが早い。
まだ教えてから十日もたっていないのに結構使いこなしてきてる。
「まだ地図だけですけど」
「いやいや、十分凄いよ」
生前の母に教えたことがあるけど、その時はいつまでたっても使える様にならなかったし。仕方ないのでどこかに行くときは僕がスマホを操作してあげていた。
「頑張ったんです。いつまでもあなたに迷惑をかけるわけにもいきませんから」
「……いや、そんな迷惑なんかじゃ」
気にしなくてもいいと思う。
僕こそ散々紅葉さんに迷惑をかけているのだから。
今飲んでいるこのお茶だって紅葉さんが淹れてくれたものだし。
「いえ、最近はあなたに頼りきりでしたから」
「いやいや」
「電車の時も、スマホの時も……それに昨日あの店に行ったとき、気付いたんです」
……?
「自分が恵まれているんだということに」
「……どういうこと?」
「あなたの家にお世話になっていると言ったら、換金してくれた方が驚いていました」
……なぜだろう。
でも、そういえば僕の相手をしてくれたあの女性も、驚きました、とか言っていた気がする。
「でも、そうですよね。突然押し掛けた私を受け入れてもらっているんですもの。人間ですらなく、化け猫の私を」
「……いや、それは僕も嬉しいことだから」
僕が受け入れてあげてる訳じゃない。
僕は紅葉さんにいて欲しいし、いてくれて嬉しい。
「……ありがとうございます。あなたは本当に優しい人ですね」
「そんなことは……」
「自覚したんです。私があなたにどれくらい助けられているか」
それこそ僕が言うべき言葉だ。
僕がどれくらい紅葉さんに助けられているか。救われているか。
……でも、どう言ったらそれが紅葉さんに伝わるのかよくわからない。
ただそれを言うだけだと、今みたいに優しい人ですね、と言われてしまう気がして。
……分からない。
口下手な自分を憎らしく思う。
「でもそれなのに、私は……本当に、あなたの助けに」
「……紅葉さん?」
「……いえ、なんでもありません。……あ、お茶無くなってますね。淹れてきます」
紅葉さんが何かを言いかけて、止まる。
そして、台所の方へ歩いて行った。
……なんだったんだろう。
◆
「……」
職場で、いつもの仕事をする。
一つ一つ、目の前の書類を片づけていく作業。
「これ、頼んでもいいか?」
「あ、はい」
偶に上司が追加をもってきて、山が大きくなるけれどそれでもやるべきことは変わらない。慣れた仕事、慣れた作業だ。
「……? あの」
「ん、ああ」
ふと、上司が立ち去らずこちらを見ていることに気付く。
何かと思って問いかけると、上司は一度咳払いをした。
「最近、良いことでもあったのか?」
「……え?」
「いや、このところお前の雰囲気が明るくなったと思ってな」
……雰囲気が?
どうなんだろう。でも良いことがあったかと聞かれると間違いなくあった。
紅葉さんがいてくれることが良いことでなかったら、僕のこれまでの人生は真っ暗を通り越して何もなくなってしまう。
「まあ、いいことだ。これからも頼むぞ」
「はい」
上司が立ち去っていく。
僕が明るくなったというのなら、間違いなく紅葉さんのおかげだ。
僕はいつも紅葉さんに助けられている。
……そういえば。
ふと、朝のことが気になった。
『でもそれなのに、私は……本当に、あなたの助けに』
あれはどういうことだったんだろうか。
本当に、あなたの助けに――なんだろう。
助けになれているのか、だろうか。
そんな感じの言葉に聞こえた気もする。
「……」
でも、そんなものは見当違いにもほどがある。
紅葉さんはいつだって僕の助けになってくれている。今さっき上司が言ったことだって、きっとそれだ。
だから、僕は――。
「……」
いや、今は仕事の時間だ。
そう思って、目の前の書類に取り掛かった。




