猫が化けた話
……今、何が?
何かとんでもないことが起きた気がする。
これまで培ってきた僕の常識ではどうやってもあり得ないことが。
「……えっと」
猫が、喋った?
目の前で? 本当に?
「……」
……いやいや、そんなわけがないだろう。
そんなことはあり得ないし、あっていいはずもない。
「……あの? 聴いておられますか?」
今この瞬間も話しかけられている気がするが、それはきっと間違いだ。
猫は喋らない。人ではないのだから当然だ。人の言葉は人が話すもので、猫が話すものではない。
……では、先程から聞こえてくる声は何か?
「……そうか、別に人が」
それしか考えられない。
どこか近くに人がいるのだろう。
そして僕に話しかけている。それを僕が勘違いしただけだ。
「どうされたのです? そんなにきょろきょろと」
「……あなたがどこにいるのかと思いまして」
ぱっと見た感じ、玄関内にもその先の廊下にも人影はない。
いるのは僕と猫だけだ。廊下の先も明かりはついておらず、暗い影を落としている。
……それはそうだ。
僕は今帰って来たばかりで、もし家の中にいたら、それは不法侵入をされていることになる。
だから、と背後にある玄関を開けた。
そして辺りを見渡し――――しかし、誰もいない。
「……」
玄関の外にはちょっとした広さの庭があるけれど、定期的に草刈はしているので誰かが隠れるスペースは無い。花壇にも大きな植物は植えていなかった。
ここは自分の家だ。そんな場所が無いのはよく知っている。
――では、どこに?
本当に家の中なのだろうか? 不法侵入?
しかし、不法侵入ならわざわざ僕に話しかけたりはしないのでは?
「……」
何も見つからないまま家の中に戻ってくると、猫が先程と変わらない体勢で迎えてくれた。
大きな目をぱちぱちとさせてこちらを見ている。
「……その、あなたはどこにいるんですか?」
恐る恐る聞いてみる。
人影は見えないので、自然と猫に問いかける形になった。
「ふふふ、不思議なことを仰るのですね。私は今もあなたの目の前に居りますのに」
「……」
目の前には猫しかいない。
赤い服を着た猫が変わらずそこにいるだけだ。
……やっぱり、この猫が喋った?
いやいや、そんな訳がない。
さっきから口元に前足を当てて「ふふふ……」なんて笑っているし、なんだか仕草が人間的な気はするけれど。
猫は言葉を話さない……はずだ。
「目の前には猫しかいませんが……」
「ええ、そうです。つまり私が居ります」
「……」
……ついに声の主に猫だと言われてしまった。
訳が分からない。混乱して頭がどうにかなってしまいそうだ。
「……まさか、ドッキリ?」
「どっきり?」
ふと気付く。
これは偶にテレビで見るアレなのではないだろうか?
悪戯を仕掛けたり嘘をついたりして、そのリアクションを楽しむやつ。
それのターゲットに僕がなってしまったのでは?
この声はスピーカーで、人間自体は遠くにいるとか?
「……」
しかし、普通僕なんかをターゲットにするだろうか?
そもそも、自慢じゃないが、僕にそんなことを仕掛けるお茶目な友人はいない。ついでにそんなことをしない友人もいない。
どこまで行っても僕はボッチだった。
「……」
……僕がドッキリを仕掛けられる可能性と猫が喋りだす可能性、どっちが高いだろうか?
……
……
……
「……いや流石にドッキリか」
何か無差別な企画に巻き込まれた可能性もあるわけで。
一瞬悩んでしまったのがとても悲しかった。
「信じて貰えてないのでしょうか。私は本当にあなたの目の前の猫ですよ?」
「……へえ、そうなんですか」
聞き流しながら、どこから話しかけられているのかを探す。
猫は話さない。それなら僕の頭がおかしくなった可能性の方が高いだろう。
「もう、どうして信じてくれないのです?」
「……普通、猫は人間の言葉は話しませんよ」
おざなりに返しながら玄関を見渡す。
特に朝から変わっていないように見える。
……スピーカーのようなものはどこにもない。
やはり猫本体に仕掛けられているのかもしれない。
「ええ、そうでしょう。しかし私は普通の猫ではありませんので」
「……なんと?」
興味を引かれ、猫を見る。
普通の猫ではない?では何なのか?
僕の持つ常識では、普通じゃない猫とはせいぜい血統書付きの猫くらいだ。
「私は化け猫です」
「……」
「妖怪だと言えばわかりやすいでしょうか?」
……妖怪、化け猫。
なるほど、それなら喋りだしてもおかしくないのかもしれない――。
――――――――そんな訳があるか。
この化学全盛の時代に妖怪なんてありえない。
幽霊は柳の枝だし、家鳴りは温度や湿度が原因だ。子供にしか見えない座敷童はイマジナリーフレンドだとどこかで読んだことがある。
今のご時世、不思議なことの多くは科学で説明できる。
未だに解明されていないことだって、きっとそのうち明らかになるだろう。
――やっぱり、ドッキリかな。
この猫が人間的な動きをしているのだって、もしかしたらロボットだったりするのかもしれない。
“最新式のロボットを使ってドッキリ!”なんて、 何ともありそうなタイトルじゃないか。
「あら、強情ですね……では、どうしたら信じてくれるのです?」
「……どうしたら、ですか」
そんなもの、何があっても信じられるはずがない。
妖怪なんているはずがないのだから。
「……ええと」
でも、質問されたので妖怪の証明について考える。
どうしたら僕はその存在を認めることが出来るだろうか?
「……妖怪」
それは、小説や漫画でもよく見かけるものだ。
昔話も祖父母が生きていた頃には聴かせてもらったことがある。
様々な姿形をし、色々なことをする。
人を驚かせたり、尻子玉を抜いたり、家に住み着いて住人を幸せにしたり。人にはできないような不思議なことをする妖怪も少なくない。
だから、妖怪の証明というのなら、人には出来ないことをしてもらうのがいいだろう。
例えば、化け猫の証明になるようなものは――。
「――人に、化けるとか?」
化け猫と聞いて、一番最初に思い浮かんだのはそういう逸話だった。
人に化けた猫が、夜な夜な灯篭の油を舐めている――というもの。
障子に移った嫁の影が猫の形をしていたので斬ったら、シッポが二股に分かれた猫の死体が残っていた――なんて話を読んだ記憶があった。
これなら現実にはあり得ないので、信じられるかもしれない。
ロボットだったとしても、何倍もの体積に膨れ上がることなんて出来ないだろうし。
「……それなら、信じられるかもしれません」
……まあ、当然無理だろうけど。
そもそも、猫は長生きしても尻尾が二本になったりしないし、化けたりもしない。
それが僕の、引いては世間の常識で、当然のことであるはずだ。
「なるほど。それなら信じてもらえるのですか。
……では、化けますね?」
「え?」
――ポン、という音がした。
そして、猫から瞬く間に煙が湧き上がってくる。
あっという間に玄関に煙が立ち込め――。
――その中、かすかに見える影が見る見るうちに大きくなっていくのを確かに見た。
「……これでどうでしょう?」
煙が晴れる。
充満していた煙が、現れた時と同じように一瞬で消えて。
その後には――。
「……」
ありえない。そう思う。
こんなことがあっていいはずがない。
――でも。
「この姿では初めまして、人間の方。
私は紅葉。化け猫です」
そこには確かに、いなかったはずの少女が立っていた。
◆
己が正気だと確認する方法とは何だろう。
ふと、そんなことを考えた。
何故かって、己の頭と現実、どちらが間違っているのか分からなくなったからだ。
「粗茶ですが……」
「あら、これはご丁寧に。ありがとうございます」
しかし、しばらく考えてみたが、全く答えが出てこない。
そういえば夢を見ているときも、起きるまではそこが現実だと思っている気がする。
胡蝶の夢という話があるように、自分の事なんて自分が一番分からないものなのかもしれない。そう思った。
「あら美味しい。ふふ、喉が渇いていたので助かりました」
「……それはよかった」
内心、頭を抱えながら返答する。
今いる場所は玄関から入った先にあるリビング。僕はそこで化け猫だという少女にお茶を出していた。
「お茶菓子も甘くて美味しいです。人の世も変わったものですね」
目の前でドーナツを齧っている少女は本当に妖怪なのだろうか?
わからない。全くわからないが……しかし、もし本当だったら、と思うと、怒らせないほうがいい気がする。
「……」
とりあえず、信じておいた方が良い。
正気を疑うのは話を聞いてからでも出来ることだ。
……しかし、いつから僕はファンタジーに足を踏み入れたのだろう?
「あなたは食べないのですか?」
「……いえ、今はあまり食欲がないので」
彼女を改めて見る。
ニコニコと笑いながらこちらにドーナツを勧めてくる姿は、妖怪などではなく、普通の人間に見える。
外見は若い女性……というより幼いと言った方が正しいかもしれない。
おそらく十代前半かそこらだろう。顔立ちはとても整っていて、芸能界に入ったら人気が出そうだな……なんて思った。
「あら、それはいけません。まだ若い立派な男子なのですから。ちゃんと食べて精をつけないと……はい、あーん」
「い、いや、それはちょっと」
あと、雰囲気というか、態度というか、距離感というか……そういうものが普通ではない。
幼い外見なのに、話し方が幼くないというか。
行動が大人びていて、しかし、無理をしているようにも見えない。
そしてそれが違和感を生み出していた。
妖怪だから、なのだろうか?
若いのは外見だけで、中身はもっと年上とか?
……というか、何にしても初対面であーんとかちょっと距離感がおかしい。
「そうですか……でも、食べられるようになったら食べるのですよ?」
「は、はい、そうですね……」
少女が――そういえば紅葉と名乗っていたか――残念そうな顔をして、僕の口元に差し出していたドーナツを皿に戻す。
その姿を見ていると、ふと思い出すことがあった。
そういえば、昔こんなことがあった気がする。
田舎の家で、祖母がこんな感じでお菓子を差し出してくれていたような……。
……まあ、祖母と妖怪を比べるのも変かもしれないけど。
「ごちそうさまでした。大変美味しゅうございました」
「……お粗末様です」
さて、と一息つく。時間が経って、少しだけ僕も落ち着いた。
狙ったわけではないが、彼女がドーナツを気に入ってくれている間、色々と考えることも出来たし。
「……では、一ついいでしょうか」
「はい、なんでしょう?」
手を合わせてニコニコと笑っている少女に向き直る。
質問したいことがあった。一つ、まず聞いておかなければならないことが。
「……その、なんで妖怪のあなたがここに?」
本当に化け猫かどうかはまだ分からないが、どうして彼女はここに来たのか。
そして、引いては僕をどうするつもりなのか。それが聞きたかった。
まさか、昔話のように僕を食べたりはしないだろうし……。
……無いよね?
「ああ、それは――」
しかし、腰が引けている僕の予想とは裏腹に、彼女はあっさりと答えを言った。
「――実は薬が必要なんです」
薬?