猫と保険の話
「ちょっとそこに座ってください」
「……?」
病気明けから数日後。
その日は休日だった。
なので、食後にリビングでダラダラとして――。
ふと気が付いたら紅葉さんが僕の目の前に立っていた。
普段とは違い、腰に手を当てて椅子に座っている僕を見下ろす形。
実は椅子に座っている僕と立っている紅葉さんは同じくらいのところに目があるのだけど、胸を張って僕を上から見ようとしているのが印象的だった。
……どうしたんだろう。
「……」
もしかして、怒られる?
心当たりはないけれど、何かやらかしただろうか。
「……」
疑問に思うけれど、しかし、こういう時は逆らってもいいことはない。
言われるままに椅子を下り、床の上に正座しようとして――。
――いつの間にか少し離れたところに座布団が置かれていたのでその上に座った。いつの間に準備したのだろうかと少し疑問に思う。
「はい、良いですか? 私は怒っております」
「はい」
素直に頷く。
紅葉さんはやはり怒っていたらしい。よく見ると、少し眉間に皴が寄っていて、険しい顔をしているようにも見えた。
「何のことかというと、先日あなたが風邪を引いたときのことです」
「はい」
「私は知りませんでしたが、今の時代、人は風邪を引くと病院に行くそうですね」
……ああ、なるほど。
少し話が見えて来た。それは僕が、まあいいかと流したことでもある。
「先程、八百屋の女将さんに話を聞いたのです。ほけん? とやらがあるので値段も安く見てもらえるのだと」
「……まあ、それは、はい」
「ではどうして病院に行かなかったのですか?」
何故かというと、そこまで症状が重くなかったからだ。
しかも、ああいう所は待ち時間も長いから。
「……」
しかし、紅葉さんが言っているのはそういうことではないのだろう。
紅葉さんは過去の経験から風邪をとても重く見ていて、それに対して万全の対策を取って欲しかったのだと思う。少なくとも、軽いからと手を抜いて欲しくなかった。
というか、紅葉さんの事情を知ったのがもう夜だったというのもある。もし朝の段階で聞いていたらおとなしく病院に行っていたし。
……今となっては後の祭りだけど。
「……」
……しかし、どうしたものか。
どう言えばいいのか悩ましいところだった。なにせ家族を風邪で亡くしたかもしれない人に、風邪なんか大したことはないなんて言えない。
……ここは、一からきちんと話して謝るべきだろうか。それしかない気もする。
「……やはり、そういうことなのですか?」
「……そういうこと?」
「あなたも私がやりすぎだと思っているのですか?」
……あれ、風向きが変わって来た。
「先程、女将さんにも言われたのです。軽い風邪で布団に一日寝かせるのはやりすぎだと。三十七度位なら皆普通に働いていると」
「……それは」
どうやら女将さんが一般的なことを話していたらしい。
紅葉さんには言い辛いが、それは事実だ。
「紅葉ちゃんはお兄ちゃん思いの優しい子なのねえ……みたいにも言っていましたが、居合わせた近所のご婦人も同意見のようでした」
「……え? お兄ちゃん?」
なんだそれ。おかしな単語が出て来た。
「ああ、近所の人には私はあなたの妹だということになっているのです。調べてみたところ、それが一番理解を得やすいようだったので」
「……」
まあ、それはそうだろうけど。
それ以外に一人暮らしの男の家にまだ若い女の子が来る理由はあまり無いし。
しかし、紅葉さん思ったより世間慣れしているというか……。トラブルを起こさない術を心得ているというか……。
「それで、どうなのです?」
「……」
「やはり私はやりすぎなのでしょうか」
「…………まあ、そうだね。あれくらいなら働いている人の方が多いと思う」
話が戻って来たので正直に言う。
一般的に言うのであれば、それが正しいだろう。
「そうですか……」
紅葉さんが目を伏せる。
何を思っているのだろうか。
「……」
紅葉さんが何を思っているのかは分からない。……ただ、もう一つ言わなければならないことがあった。
女将さんが言っていることは一般的には正しいかもしれない。でも――。
「でも、嬉しかったよ」
「……え?」
確かに少しやりすぎの気もしたけど、でも、嬉しかった。
傍にいてくれて、看病をしてくれた。だから、それを否定するつもりは全くない。
「ありがとう紅葉さん。紅葉さんがいてくれてよかった」
「……」
紅葉さんが目をぱちぱちとさせている。
大きな黒い目が僕を見ていた。
「……そうですか?」
「うん」
「…………そうですか」
一度目は質問するように。そして二度目は頷きながら。
紅葉さんはそう言って笑った。
◆
それから少し経って。
正座から解放され、椅子に座り直した僕は紅葉さんとお茶を飲んでいた。
「それにしても昔はお医者様に見てもらおうと思えば、それはもう沢山のお金が必要でしたが……今は違うのですね」
紅葉さんがしみじみと言う。
まあ、昔と比べたらそうだろう。国民皆保険が出来てから、大半の人は問題なく医療を受けられるようになった。
「こうなったのは、いつからなのですか?」
「……えっと、六十年前からみたいだね」
知らなかったのでスマホで調べる。
制度自体は前からあったみたいだけど、国民全員が加入したのは六十年代だそうだ。
「そのスマホで、今調べたのですか?」
「え、うん」
「……そうなのですか……やはり便利なのですね。私も今の情報を手に入れるために活用したいのですが……」
そう言うと、紅葉さんがポケットから一つ、物を取り出す。
「…………でも、これは難しいです」
紅葉さんのスマホだった。
眉をひそめながら、白いそれを手に持っている。
「なぜ人は皆こんなものが使えるのでしょうか……」
先日、スマホを渡した時に軽くは教えた。教えたのだけど……まあ一度教えられたくらいで覚えられるのなら誰も苦労はしないわけで。
一応、天気予報やカレンダーは使えるようになった。しかしそれ以降は苦手意識が付いたのか紅葉さんは逃げ出すようになって……その後は教えられていない。
必要だろうし、地図アプリや時刻表アプリ、あと検索エンジンくらいは使えるようになっておいた方がいいと思うんだけど……。
「チカチカして目が悪くなりそうです」
……まあ、こう言うわけだ。
教えようとするたびに黒猫が窓から逃げていくのではどうしようもない。最近分かって来たけれど、実は紅葉さんは結構自由な人だ。
「慣れれば大丈夫だと思うけど」
「……うぅ」
嫌そうな顔をして……しかし必要だと思っているのか電源を入れた。
「……その、とりあえず練習として先程の……保険? を私も調べてみたいのですが」
「じゃあ、右上にあるアプリを」
紅葉さんのスマホは使いやすいように使用頻度の低そうなアプリは全て移動してある。
画面に表示されているのは時計とカレンダーと地図、天気予報に時刻表、検索アプリだけになっていた。
「これですか?」
「そうそう」
恐る恐る紅葉さんが人差し指で画面を触る。
……正直、紅葉さんの苦手意識の原因は、チカチカではないと思っている。
多分、このタッチパネルに慣れていないのが原因だ。なので、今日はこれを何とかしたい。せっかくやる気になってくれているようだし。
「ここの四角をタップしてもらって……」
「……ここに文字を入れるのですか?」
「そうそう」
しかし、やっぱり紅葉さんは物覚えがいい。
嫌がりながらもなんとなくの流れは覚えている。
これなら遠からずスマホを使えるようになるだろう。
そう思いながら使い方を教えていった。
◆
「出来ました!」
「うんうん」
しばらくして、紅葉さんは喜びの声を上げていた。
厳しい戦いだったが、それも達成したときの喜びは一入だ。
本当に、フリック入力という難関にはどうしようかと……。
最初はキーボードにしようかと思ったけれど、ローマ字が分からないと言うのでそれ以外の選択肢がなかったから……。
「長々と教えてもらって、ありがとうございます」
「いやいや。普段お世話になってるし」
これで少しは苦手意識もなくなるといいんだけど。
そう思い、スマホから顔を上げて――。
「――本当に、あなたはいい子ですね」
「……紅葉さん?」
紅葉さんがすぐ近くで僕を見ていた。
そして、手が伸びてきて僕の頬に触れる。
「人なのに、私のような妖怪にここまでしてくれて」
そんなことはない、世話になっているのは僕の方だ――そう言いたかったけど、紅葉さんの顔がすぐ目の前にあって、驚いて体が固まってしまう。
――コツン、と額が触れた。
「ありがとうございます。あの日会ったのがあなたでよかった」
「……………………それは、僕の言葉だよ」
なんとか言葉を返すと、目と鼻の先で紅葉さんが微笑む。
そのまま、しばしの時が過ぎていった。




