猫と完治の話
朝起きると、体はもう良くなっていた。
頭も痛くないし、喉も痛くない。鼻で呼吸も出来ていた。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
立ち上がり体の調子を確認していると、紅葉さんが入って来た。
手にはお盆を持ち、その上には水の入ったコップが乗っている。
「もうお体は大丈夫ですか?」
「大丈夫、だと思うよ」
風邪を引いていたとは思えないほど体はすっきりとしている。
たった一日とは思えないほど、軽快しているように感じた。
「……安心しました」
ほっとした顔で紅葉さんが微笑む。
その優しい顔が、少し照れくさかった。
「では、確認させてください」
「あ、うん」
紅葉さんの手が伸びてきて、それに応えるために膝を曲げる。
こうしてみると僕と紅葉さんの体格差はかなり大きかった。
僕の額に、紅葉さんの手が添えられる。
昨日とは違い、その手を暖かく感じた。僕の額の温度が下がったからだろう。
「……はい、もう熱は下がったみたいですね」
「良かった」
お墨付きも貰えて安心する。
「でも一応、体温計でも計っておきましょう」
「……そうだね」
紅葉さんがポケットから体温計を取り出す。
笑顔で差し出すそれを受け取った。
◆
「はい、あーん」
「……もう治ったんだけど……」
体温計で平熱を確認した後、何故か僕は紅葉さんにお粥を食べさせられていた。
「良いではないですか。病み上がりなのですから」
そう言って、紅葉さんは僕の口元にスプーンを運ぶ。
……断ろうとしたけれど、そうすると紅葉さんがとても悲しそうな顔をするので何も言えなかった。
「あーん、ですよ?」
差し出されたスプーンを口に含む。
スプーンと歯が接触してカチリと鳴った。自分で持っているときとは角度などが異なるのかもしれない。
なんとなく、スプーンを持つのも技術なのかなあ、と思った。
「美味しいですか?」
「うん、美味しいよ」
口の中に程よい塩気が広がる。
薄くも辛くもない優しい味付けだ。僕にはどうやっても出せそうにない味。
「なら良かった」
ニコニコと紅葉さんが微笑む。
「……」
ふと、思う。
これは現実なのかと。こんなに都合がいいことが、本当に現実であり得るのかと。
本当は全部夢で、これもそれも全部嘘なんじゃないかと。
だって、あまりにも優しすぎて、都合が良すぎて――。
「はい、あーん……あっ」
――ガツンと、歯に衝撃が伝わる。
あまり痛くはなかったけど、全く予想していなかったそれに一瞬混乱した。
「ご、ごめんなさい」
慌てて謝りながら紅葉さんがスプーンを引く。
そして、それはそれで頬の内側を抉って少し痛かった。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ああ、うん、大丈夫」
別に傷がついたわけでもないし。
……それに、痛みのついでにおかしな考えも飛んで行ってしまった。
――少し、冷静になる。
「……ふふ」
思わず、笑みが漏れた。
……なにが、現実なのか――だろうか。
よくよく考えたら、都合のいいことばかりではなく、不都合なこともある程度は起きている。
そもそも、紅葉さんは優しい人だけど、僕とは常識が違いすぎて困惑することだってままあるし。
今回だって、看病は嬉しかったけど最初は混乱もした。当然スプーンを歯にぶつけて欲しいなんて思ったことは一度も無い。
……結局。こうして現実なのかと考えること自体、僕が勝手にネガティブになっているだけなのだろう。紅葉さんは今もこうして目の前にいてオロオロとしている。
「その、ごめんなさい、痛かったですか?」
「いや、大丈夫。痛くはなかったから」
口に手を当てて俯いている僕を見て勘違いしたのか、紅葉さんがあたふたとしている。
それを宥めながら、思った。
――これはきっと現実なのだと。
◆
食後、職場に行くためにスーツに着替える。
もう治ったのだから、休む必要もないだろうと思って。
「……もう一日くらい休んだ方が良いのではないですか?」
「もう大丈夫だよ」
「でも……」
「寝すぎていると逆に体に悪いよ」
心配してくれるのは嬉しいけど、必要もないのに休むのもどうかと思う。
「本当にもういいのですか?」
「大丈夫だよ。紅葉さんが看病してくれたから」
最初は驚いたけど、こんなに早く治ったのは間違いなく紅葉さんのおかげだ。そして今、こうして笑顔で仕事に行こうと思えるのも。
もし昨日無理を押して仕事に行っていたら、悪化するかはわからないけど、まだ症状は残っていたことだろうし。
「……私は、ちゃんと看病が出来ましたか?」
「え、それはもう」
「……そうですか、良かった。人の看病は随分と久しぶりだったから。ちゃんとできていたのなら安心しました」
……それは、もしかして。
「前にしたのは、随分と昔のことになります。あの頃と違って食べ物も薬も沢山あって……人の世も豊かになりましたね……」
紅葉さんが遠くを見ている。
その昔というのを思い出しているのだろうか。
「百五十年位前でしょうか、私は一度、人の中で生活したことがあるのですよ」
「……百五十年前」
相変わらず、数字の桁が違う。
その頃というと、おそらく江戸時代の終わりくらいか。
「その頃、人はよく戦をしていたようで……親が死んだ子が一人、妖怪の住む森に捨てられていたのです。私はちょうど暇をしていたというのもあって、その子をしばらく育てることにしました」
「……」
「里に連れて入るわけにもいきませんから、人の村に住み着いて。……あの頃は流れてくる者も多く、妖術も使い放題でしたから。簡単に紛れ込めたものです」
「……それで、どうなったんです?」
「…………五年、その生活が続きました」
五年間。それだけを聞くと長いようにも聞こえるかもしれない。
……しかし、子供を育てる期間と考えれば短すぎる。
――それは要するに、そういうことなのかもしれない。
「少しだけ、あなたに似ていたかもしれませんね」
寂しそうな顔をして、紅葉さんが言う。
もしかして、それがあの日僕に近づいて来てくれた理由なんだろうか。
◆
「行ってらっしゃいませ。怪我に気をつけて」
「行ってくるよ」
挨拶をし、玄関をくぐる。
……ふと振り返ると、扉が閉まる瞬間まで、紅葉さんは僕を見ていた。
……子供を育てていた、か。
確かにそんな雰囲気はあるかもしれない。そう思った。




