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猫と期日の話

 家を出て、職場にたどり着く。

 仕事をする時間だ。キーボードを打ち、電話を取ったりする作業を淡々とこなしていく。


 いつもの時間、いつもの顔ぶれ。

 朝、家の中で和風ファンタジーの話をしていても、一歩外に出ればそこにあるのはいつも通りの現実だった。


「これ、頼んでいいか?」

「はい。……?」


 上司が話しかけてくる。

 そしていつものように仕事を――あれ?

 

「頼むわ。今日は山田のやつ休みだから」

「……ああ、なるほど」


 普段と違う仕事を渡されて一瞬首を傾げたが、そういう事情があったらしい。

 まあ、別にやり方は知っているし問題はないと思う。


 もちろんいつもより作業は多くなるけど、別に繁忙期という訳でもないし。

 今日は元々の作業量が少ないというのもある。


「……」


 ……しかし山田さんは今日は休みか。

 今はちょうど暇な時期で、こうして休みを取る人も多い。

  

 そういえば、以前旅行に行くのだと言っていたような気もする。別に教えてもらったわけではないけど、近くの席で雑談していれば嫌でも聞こえてくるものだ。


「……」


 僕も、休みたかったら休んでもいいんだと思う。

 これまで冠婚葬祭以外では上から指示されたとき以外休んだことが無いけれど、申請したら止められはしないはずだ。


 僕がいないと回らない仕事なんて当然ないし、僕の代わりなんて会社の中に山ほどいる。

 僕は会社に沢山ある歯車の一つに過ぎなくて、簡単に代わりが利くものだ。

 

 だから、年休申請の紙を提出すれば何事もなく受理されるはずで――。


 ――でも、それをすることに抵抗があるのは、僕が人に誇れることが何も無いからなのかもしれない。休まずに出社するだけで、真面目な人間のふりが出来るからだ。



 ◆



 追加分の仕事を急いで終わらせて、家へと歩く。

 早く帰らないと、また紅葉さんを待たせることになってしまう。


「……あれ」


 商店街を抜け、住宅街に差し掛かった頃。

 見覚えのある赤い色が見えた気がして立ち止まる。


 もしかして紅葉さんかと思い――。

 ――しかし別の人だった。服の色が似ているだけで顔も身長も服のデザインも全て違う。


「……」


 最近、僕は紅葉さんの事ばかりだ。その自覚がある。

 仕事中も、今こうして帰っているときも、そして家の中でも……頭のどこかで紅葉さんの姿を探している。


 ……きっと、あんまり良くないことなんだろうと思う。

 これまでの薄っぺらい人生経験が止めたほうがいいと僕に訴えかけていた。


「……」


 だって、紅葉さんは……後二十日程度しかいないのだから。

 最初から一カ月しかいないと言っていたし、それが伸びることはきっとないだろう。


 初日から決まっていたことだ。きっと今更変わらない。

 ……だから、それが終わったら――。



 ◆



「――た、ただい、ま……」

「はい、おかえりなさい……あら、どうしたのですか?」


 家に着いたとき、僕は息を切らしていた。

 はあはあ、と言う自分の呼吸が煩わしくて、とても五月蠅い。


「……ちょっと」

「すぐに水を持ってきますね」


 息が苦しくて、体に疲労が重くのしかかる。

 久しぶりに走ったので、体のあちこちが悲鳴を上げていた。

 足ががくがくと震えて、肺の奥からは痛みを感じる。


「……はあ、ごほっ」


 ……まったく、馬鹿だなあ。いい年して何をやっている?

 酸素を取り込もうと必死になっている僕を、冷静な僕が嘲笑していた。


「…………はあ」


 ……思わず、走ってしまっていた。

 紅葉さんに会いたくて、彼女の顔が見たくてしかたなかった。


 ……だって、少しでも長く、そう思ってしまったから。


「……」

「はい、どうぞ。ゆっくり飲んで下さいね」


 差し出された水を受け取り、少しずつ飲みこむ。

 冷たい水が喉を通っていく感触が気持ち良い。


 少しずつ、熱くなっていた頭が冷えていく。


「どうされたのです?」

「……その、なんでもない」


 恥ずかしくて説明は出来ない。

 みっともないと思うし、呆れられたくなかった。


 あなたに会いたくて走ったなんて、どんな顔をして言うと言うのか。

 

「紅葉さん」

「何でしょう?」


 紅葉さんが微笑みかけてくれている。

 それが何よりも嬉しい。両親を失ってから何もなかった僕に、初めて出来た大切なヒト。


「これからも……」

「はい」


 衝動的に、一緒にいて欲しい、と、そう言いかけて、ギリギリのところで思いとどまる。

 そんなことを言えるはずがないと、下らない願望を殴りつけた。 


 だって、こんな僕の傍に彼女がいてくれるはずがない。

 彼女がここに居るのは、薬を手に入れるためだ。それ以上ではないし、それ以下でもないのだから。


 ……勘違いしてはいけない。


「……なんでもない」

「もう、どうしたんですか?」


 言葉を濁す僕に、こんなどうしようもない僕に紅葉さんは笑いかけてくれる。

 それがどうしようもなく嬉しくて……でもとても申し訳ない。


「お茶を入れますね」


 紅葉さんが台所へと走っていく。

 僕は倒れ込むように玄関を一段上がったところに座り込んだ。


「……」


 息を整えながら、少し待つ。

 台所から、落ち着くような良い匂いがしてきた。


「はい、どうぞ。ゆっくり飲んで下さいね」

「……ありがとう」


 戻って来た紅葉さんから湯呑を受け取り、少しずつ啜っていく。


「……」


 ……その温かさが、どうしようもなく嬉しくて。

 だから、先を想像して哀しくなった。



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