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猫が喋った話

 雨が降っていた。

 小ぶりの雨粒がパラパラと地面に落ち、凹凸のある道路に水たまりを作る。


「……」


 会社からの帰り道、日が傾いて辺りが暗くなり始めた頃。

 僕は一人、家に向かってのんびりと歩いていた。


 手には傘を持っていて、もう片方の手にはスーパーで買った総菜が入っている。

 スーパーの袋には水滴が多く付いていて、帰ったら拭かないとなあ、なんて、どこかで思っていた。


「……」


 ふと、周囲を見渡した。

 周りにも傘をさして家路を急ぐ人達の姿がある。


 彼らはまっすぐ前を向いていて、横なんて見ていない。

 早く家に帰りたいのだろう。そして待ってくれている誰かに「ただいま」なんていうのかもしれない。


 そんな横を、のんびりと歩く。

 気付かず踏みつけた水たまりがパシャリと音を立てた。


 ……雨は嫌いじゃない。

 何故かって、みんな前を見つめていて僕なんか見ていないからだ。


「……」


 いつもよりほんの少し軽い足を前に出して、なんとなく公園へと入った。

 普段から使っている道じゃない。でも、ほんの少しだけショートカット出来るので偶に使うような、そんな道。


 普段は子供たちが遊んでいるブランコの脇を抜け、朝に年配の方々がたむろしている東屋を抜ける。ゆっくりと、水を含んだ地面を踏みしめて歩いた。


 急ぐ必要はない。

 なにせ僕には家で待っている人なんていないのだから。


「……ん?」


 ふと、視界に何かが映った気がした。

 赤い何かだ。公園の中にはあまり見ない、鮮烈な色。


 なにかと思って、首を巡らすと――。


「にゃあ」


 ――声が聞こえた。

 そちらを見る。そこには一匹の猫がいた。


 真っ黒な毛並みの、真っ赤な服を着た猫。

 そんな猫がこちらを見ていた。


 ……さっきの色はこの猫か。

 納得し、一つ頷く。思っていたよりなんでもない答えだった。


 しかし、そんなものなのだろう。

 驚くようなことなんてそうそう起こらない。子供ではない大人ならば、なおさらに。


 だから、気を取り直してまた歩き出そうとし――。


「なー」

「……」


 ――なぜか、行く手を拒まれた。

 先程の猫が、僕の足元に近づいて来る。


「にー」

「……困ったな」


 革靴のすぐそこにいて、僕の顔を見上げている。

 そしてどういう訳か、その体勢で動かなくなった。


「それじゃあ歩けないよ」

「にゃあ」


 一度傘を持ち直し、猫を見る。

 先ほど見た赤――鮮やかな赤色の服がその身を包んでいて、それが妙に印象的だった。

 

「……」


 飼い猫だろうか。

 きっとそうなんだろう。そうじゃなければこんな服なんて着ているはずがない。


 ぱっと見でも、偶に見る近所の犬より上等な服を着ている。

 別に詳しくはないけれど、生地がしっかりしているというか、よれていないというか。そんな感じだ。

 

 きっと可愛がられているに違いない。

 普段から良いものを着せてもらって、餌も良いものを食べている。

 

 多分だけれど、この猫はお嬢様猫だ。

 ……いや、もしかしたらお坊ちゃま猫の可能性もあるか。 

 

「僕の所になんて来ずに、家へお帰り」


 家に帰ったらこの猫には家族がいるのだろう。

 扉を開けると、笑顔で迎えてくれる飼い主やその家族が待ってくれている。


 ……こんな僕とは違って。


「……」


 猫に嫉妬するとか、我ながら末期だな。


「……はあ」


 己のあまりの惨めさに自嘲のため息を漏らしつつ、一歩下がる。

 目の前が猫に塞がれているのなら、一歩下がって脇に抜ければいい。当然のことだった。


 しかし――

 

「――にゃあ」


 猫が寄って来た。

 僕が下がった分だけ、猫が前進する。


「……」

「なー」


 もう一歩下がる。

 猫が前に出る。


「…………」

「にゃーん」


 さらに一歩下がっても、猫は相変わらず寄って来た。

 ……どうやら逃がしてはくれないらしい。


「ごめん、道を通して欲しいんだけど」


 困り、頼んでみる。

 しかし、当然のことながら猫はそこから動かない。


 猫相手に言葉が通じるわけがなかった。

 ここが人に見られない公園であったことを感謝する。


「……どうしようか」


 無理に歩いたら蹴とばしてしまいそうな気がする。

 さすがにそれは出来ないし、したくない。


 ついでにつまらない損得勘定も、そんなことをして後でバレたら、飼い主に訴えられるかも――なんて言っている。


「にゃー」

「……あ、乗らないで」


 そして、そうこう考えているうちに状況はさらに悪化する。

 猫がさらに近づいて来た。両前足が僕の革靴の上に乗り、その体重を革越しに感じる。確かな重みが、そこにはあった。


「……」


 こうなってしまってはもう避けて歩くことも出来ない。

 完全に手の打ちようがなくなってしまった。


 途方に暮れ、雨の中立ち尽くす。

 公園の中、雨が傘を叩く音だけが耳に入って来た。


「……いや、まあ」


 手の打ちようがないと言っても、猫を手で持ち上げれば済む話だけれど。

 もしかしたら、触ろうとしただけで逃げていくかもしれない。

  

「……しかし、君は人懐っこいね」

 

 そう思う。

 猫というのはもっと警戒心の強い生き物だと思っていた。


 僕は猫を飼ったことはないけれど、知らない人が家に来たら隠れてしまったとか、姿を現しても決して近づかないとか……そういう話はよく聞いている。


 それなのに今回はその逆で、見ず知らずの僕にここまで近づいて来ている。

 だから、その理由が良く分からない。


「そもそも、なんで君は僕の所に来たのかな」

「なー?」


 猫が人に寄ってくる理由について考える。

 何がしたくて、して欲しくてこちらに来たのか。


「……………………餌?」


 少し考えて、それだけが浮かんでくる。

 つまらないかもしれないが、僕の猫知識ではそれくらいしか思いつかなかった。


 そして、それなら納得もできる。

 人懐っこいのも、僕のことを見上げているのも、その理由は食べ物が欲しいから。

 とても単純で分かりやすい答えだ。

 

 そういえば、ついさっき買った総菜の中に魚の煮つけがあったか。

 もしかしたら、その匂いがしていたのかもしれない。猫の嗅覚は人よりはるかに優れていると言うし。


 足に前足を乗せるのも、家でしている催促の仕草だったりとか。


「……でも」


 そこまで考えたところで、ここ餌やり禁止なんだよなあ……と思い出す。

 確か野良猫が問題になって、回覧板とかでも注意が回っていたはずだ。


 どこかの庭に勝手に入った猫が色々と荒らしていったらしい。

 これ以上増えないようにと、掲示板にもポスターが張られていた。

 

 この子は明らかに野良猫じゃないけど……しかし、勝手に餌をやっていい理由にはならない気もする。


「すまない、僕が君にあげられるものは何も無いんだ」

「にゃあ」


 お腹を空かせているんだろうか?

 でも僕には何もできなくて、それが申し訳ない。

 

 伝わるわけがないけれど、頭を下げる。

 その先で、ふと猫と僕の目が合った。


「……」


 目の大きい美人な猫だな、と思った。

 金色の目が、横から射す街灯の光を反射してキラキラと輝いている。

 

「なー」

「……ん?」


 何度目かに、猫が鳴く。

 そして――。


「――あ」


 猫が足から降りて、そのまま踵を返した。

 そのまま振り返らずに背を向けて去っていく。


「……」


 言葉が通じたのだろうか。

 なんてそんなことを少し考え――すぐに否定する。


 猫は猫だ。

 人間じゃないし言葉を解したりはしない。


 猫は気まぐれなものだ。

 だからきっと今回もそれなのだろう。


「……帰ろう」


 少し安堵しつつ、手に持った傘と総菜の入った袋を握り直す。

 そしてまた足を前に動かした。

 

「……」


 その途中、ほんの少しだけ寂しいな……なんて思ったのは、もしかしたら仕事以外で何かと向き合ったのが久しぶりだったからかもしれない。


 

 ◆



 

 猫と無事に別れ、気を取り直して足を進める。

 少し時間を使いすぎたのか、公園から道路に戻ると人通りは少なくなっていた。


 ……まあ、遅くなっても問題なんてないけど。


 家族もいないし、恋人も配偶者もいない。

 SNSアプリの登録者は仕事の関係者だけで、その人たちともプライベートなやり取りをしたことはない。


 我ながら、どうしようもなくつまらない人間だ。

 

『ただいまー』


 どこからか、誰かの声が聞こえて来た。そしてそれに続いて『おかえり』という言葉も。

 ふと思う。最後に僕が『ただいま』と言ったのは、『おかえり』と言われたのはいつだっただろうか?


「……」


 少し考えてみたけれど、分からなかった。

 ただ、ここ数年の話ではないことは間違いない。その頃から僕は一人で暮らしている。


 『おかえり』、か。

 

 思う。『おかえり』という言葉は家族の象徴だと。

 

 それは待ってくれる人がいるからこその言葉で、つまりは家に家族がいるということ。人の居ない家では言われない言葉だ。

 そしてだからこそ、それは家族の象徴になるのでは、と。


「……」


 先程の声の主は、まだ子供のように聞こえた。

 大切にして欲しいと思う。それは失うと取り返しのつかないものなのだから。


「でも、僕は分からなかったな……」


 持てる者は、その価値が分からないのかもしれない。

 僕はいつだって、失ってからその価値に気付いてきた。



 ◆



 考えているうちに、家に着いた。

 住宅地に建つ、明かりの消えた一軒家。それが僕の住む家だ。


 生前の父はこれをローンで買い、そしてそれを返し終えた頃に母と一緒に事故で亡くなった。ここで犬を飼い、老後を過ごすのだと笑っていた父は、その夢を果たすことはできなかった。


 僕は社会人になった後、一度は家を出て一人で暮らしていたけれど、あとに残された空っぽの家が見ていられなくて住み着いた形になる。


 いい場所に建っているらしく、土地を売ってくれというチラシも入っていたけれど、どうしてもそうする気にはなれなかった。


「……」


 家の前に立ち、なんとなく扉を見る。

 頑丈な造りの、真っ黒な扉だ。


 この扉を開けると、きっと真っ暗な玄関が僕を迎えてくれる。

 『ただいま』も『おかえり』も当然ない。きっと一生そうなのだろうと思う。


「……はあ」


 ため息をつき、鍵を取り出す。

 そしていつものように鍵を開け、ドアノブを捻り――。


「にゃあ」

「……え?」


 ――鳴き声が聞こえた。

 とっさに横を見ると、そこには見覚えのある赤色の影がある。


「え!?」


 するり、と、赤色が目の前を通り過ぎた。

 そして、半開きになっていた扉の隙間に入り込む。


「……中に入った!?」


 慌てて扉を開け、中に入る。

 そして玄関脇にあるスイッチに手を伸ばした。


 パチン、という音。

 一瞬光で目が眩み、そしてすぐに玄関が光で照らされる。


「にゃあ?」


 猫が、そこにいた。

 見覚えのある黒い毛並みで、真っ赤な服を纏っている。


 ――さっきの猫だ。


 猫が居るのは、玄関のちょうど真ん中あたり。

 そこにちょこんと座って、僕のことを見ていた。


「なんでここに……」


 驚き、呟く。


 僕を追いかけて来たんだろうか?

 おそらくそうなのだろう。さっきも妙に懐かれてたみたいだったし。


 ……でも、まさか家まで追いかけてくるとは思わなかった。

 しかも中にまで入り込んでくるなんて。


「なーう?」

 

 猫の大きな瞳が僕を見つめている。

 うろたえている僕とは裏腹に、平然とした様子でこちらを見ていた。


「……」


 ……まあでも、少し嬉しいかもしれない。 

 

 困惑している。しかし、その困惑の中に喜びもあった。

 わざわざ僕を訪ねてくれる人なんて、いないのだから。


「でも、どうしようか」

 

 困り、頭を悩ませる。

 嬉しいけれど、しかしこのままで良いわけでもない。


 この子はきっと飼い猫で、そんな猫を勝手に家に上げるのは問題だろう。

 せめて、家の前とかならよかったのに。


「にゃう?」


 猫が鳴く。

 首を傾げて、質問するような鳴き声。


 なんとなく、どうしたの? みたいに聞かれている気がした。

 ……まあ、そんなことはあり得ないけれど。

 

「困るよ、中に入ったら」


 思わず返事をするように話しかける。

 猫が首を傾げて鳴く仕草が人間的に見えたからだ。

 

 会話を期待していたわけじゃない。

 なんとなく、そうしたかった。独り言のようなものなんだろう。


 ――だから。

 そう思っていたから。


 僕は次の瞬間起こったことが理解できなかった。


「――それは、申し訳ありません。

 でも、人のいる所では話が出来なかったのです」


 …………え?


 人の声がした。落ち着いた声だ。

 おそらくは女性で、それも若い……子供の声に聞こえる。


「突然で申し訳ないのですけれど、あなたにお願いしたいことがあるんです。私の話を聞いて下さいますか?」


 しかも一度じゃない。

 続けざまに声が耳に入ってきた。


 …………なんだ、これ?


 どこから聞こえてきているのかと、周りを確認する。

 スピーカー? しかし、ここは自分の家だ。そんなものがないことはよく知っている。


 ……それに。

 どうしても理解できないことが、もう一つ。


 先程の声は目の前の猫の方から聞こえて来た。

 そして、それと同時に、猫の口が動いていたようにも。


 ――それはまるで、この猫が喋ったような。


「……え?」


 理解できない状況に思考が止まった。 



 

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