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《六》黒と黒


 不穏な静けさが漂っていた。先程までの歓声が嘘のようだ。

 観客達はこの場に到底似つかわしくない声量で囁きあっている。保守党員の演説時の方が余程騒がしい。

 

 突然現れた一人の大男。

 彼がこの広大な闘技場を一瞬にして掌握した。


 それに同じくらいのタイミングで現れたあの少年。

 間違いない、ジャックだ。

 ということは、あのフードの男はフランコ・リーガンということになる。あれだけ殴られて大丈夫かしら…。


「雲行きが怪しくなってまいりましたな」


 ビークイン家執事頭のヴィンセント・ジェロームは手を後ろ手に組んで起立したまま、斜め前方に座るキャサリン・ビークインに話しかけた。


「あの男は何者なの?」


 キャサリンは大男から視線を外さずに問いかけた。視界に捉えていないと良くないことがおこる、そんな根拠の無い不安が惹起される。

 闘技場の一階に設えられた特別席は、目線こそ闘技者と同じ高さにあれども、実際に彼らが血を流し合う場からはかなりの距離がある。それにも関わらず、大男から発せられた緊張感がキャサリンの口を重くしていた。


「確か、セルゲイ・グルシェンコフと申しましたかな。元はベルウッドの生まれながら、今はエンドリヴァで大規模マフィアを率いている男です。由来は分かりかねますが、『ラスト』と言う通り名でもしばしば呼ばれています」


 ジェロームは視線をセルゲイからフランコの方へと移した。


「どうやら、彼の方がよく知っているようですな」





「部下が不細工なザマを見せちまったな」


 セルゲイは足元にうずくまる男を見ながら言った。


「部下?お前も偉くなったもんだな」


 フランコはジャックに支えられ、掠れる声を吐き出した。口元には必死に作ったであろう笑みが浮かぶ。


「知り合いかい?あのヤバそうな奴は」


 ジャックが腋の下で囁くように問いかける。


「大昔のな。アルガンティア軍の教育課程にいたときの同居人さ」


 ジャックにとってフランコが軍に所属していた過去は初耳だった。フランコはとかく自分の過去を語りたがらない。初めのうちはしつこく食い下がったりもしたが、煙に巻かれ過ぎているうちに諦めてしまった。


「名誉除隊したって聞いてたから故郷のベルウッドで役人でもやってるのかと思ってたぜ。公僕にもそいつくらい血気盛んな奴がいれば楽しいんだがな」


「確かに。お前にもう少し血を抜いてもらった方が良いかもしれん」


 セルゲイの答えに、フランコの表情が一変する。浮かんでいた様々な色がフッと消え、まるで亡骸のような様相を呈した。


「大丈夫か、フランコ?」

 

 異変に気付いたジャックが声をかける。

 しかし、言葉を発した直後、ある発想に思い至った。


 軍…血を抜く…瀉血機関…。


 まさか。有り得ない。

 この不器用で冴えない皮肉屋、しかし心優しい男が。

 ジャックは自身の考えが誤っていると思い込もうと努力した。


 フランコはジャックの内面の動揺を敏感に感知した。当時、自身がその行き先を告げられた時の衝撃と重ねたせいだろうか、ジャックの心が手に取るように分かった。


 小さく息を吐く。


「ご明察。俺が以前所属していたのは、アルガンティアの特務警察さ」


 フランコは辛うじて聞こえる程度の声でそう呟いた。



 ジャックは咽喉が詰まったような感覚に陥った。

 何か言わなくては、と思うが、へばりついた喉は開くことを良しとしなかった。


 アルガンティア皇国軍特務警察。危険思想の持ち主や国の運営にとって有害な活動家等を取り締まる国家組織。しかし、それは表向きの話。

 本務は暗殺、破壊工作、スパイ、諜報などの後ろ暗い任務にあり、その遂行のためにはいかなる制約も受けない。道徳も、倫理も、人間性さえも捨てたものだけが属すると、庶民の間では専らの噂だった。

 悪い血を流すことを以て、国家としての健康を維持するーそんな姿を揶揄して大昔の万能治療法とかけて、いつしか「瀉血機関」と呼ばれるようになっていた。

 

 勿論、何の根拠も無い噂話が面白おかしく語られているだけにすぎない。善良な、あるいは人並みの悪徳しか持ち合わせていない大多数の市民にとって、特務警察は半分空想の産物であった。存在は公表されているが、その構成員も、お世話になった犯罪者も、誰も見たことが無かった。

 そのため、特定の役人に金を横流しするための名ばかりの組織だと非難するものもいれば、反対にアルガンティアの治安は特務警察が日夜秘密裏に活動しているためだと盲信するものもいた。

 つまるところ、誰もその実態を把握していなかったのだ。


 しかし、ジャックには色々と心当たりがあった。見たことが無い構えから繰り出される高度な戦闘技術、あまり一般的ではない古びた造りのコアと鋼製筋骨、どこからか請け負ってくる割の良い仕事、そして何より一切の過去を語りたがらない点。

 以前盗み見た市民タグには、以前の経歴としてアルガンティアの一市庁舎の警備員と記載されており首を捻ったが、特務警察なら合点が行く。


 しかし、そうであるならば、一つだけ聞かなければならないことがあった。大観衆に囲まれ、目の前には恐ろしい大男がいる場面は甚だ不本意であったが仕方ない。ここを逃せば、この先、口を開くことは出来なくなるだろうという確信が胸に迫っていた。



 「じゃあ、君は僕を捕まえるために近付いてきたのかい」


 意を決して尋ねる。この3年程の二人の関係を、それだけでなくジャックの人間観を破壊しかねない程の重みが、その回答には課せられた。

 噂通りであれば、特務警察は一般的な警察機構とは異なる存在を対象として取り締まる。

 自身は極めて善良な小市民だと信じているジャックも、自らの健全な振る舞いが及ばない部分についてはイマイチ自信がなかった。

 つまり、彼自身に起因しない理由で押し付けられた風評やレッテル、罪状が特務警察の目に止まった結果、裏取りをするためにフランコが送られてきたのではないかと危惧したのだ。


 フランコがゆっくりと下を向く。ジャックも首を捻り、上を向こうと努める。フランコの身体を抱えているため、何とか片目でその表情を捉えるのがやっとであった。

 苦痛で寄った眉根に、一層深い皺が刻まれている。不愉快のためではない。言っていることが理解できないといった様子だ。

 しばしの間の後、腫れた目がゆっくりと開き、額に寄せられた皺は静かに平面に戻った。ジャックの言葉の意味がようやく飲み込めたらしい。


 フランコはしばしジャックの横顔を不思議そうに眺めたあと、高らかに笑った。が、すぐに全身を反動が襲い、激しくせき込むことになった。

 茫然とするジャックを尻目に、笑いと苦痛で溢れた涙を拭いながら、フランコは説明した。


「特務警察だって暇じゃないんだ。お前なんかのために動かねえよ」


 フランコのあまりの笑いように、それが真実だと素直に受け入れられた。ホッとする反面、先程の不安と同じくらいの強度で怒りが湧いてきた。


「お前なんかのためとは失礼だな。僕がこれまでどれだけ苦労してきたか、君にも少しは分かるだろ。当局が『尋ね人』なんてレッテルを貼ったりしなければ…」


 首の後ろに回していた腕を振り落とす。

 突発的な行動に、しまったと思ったが、意外にもフランコはよろけることもなく、しっかりと立っていた。改めて見ると顔の腫れも大分引いている。


「すまん。言い方が悪かったな。だが、安心しろ。俺とお前が出会ったのは偶々だし、その後は成り行きだ。そもそもお前に会うからあそこはクビになっていたしな」


 フランコはジャックに向き合うと、今度は穏やかに笑いながら言った。

 ジャックはまだ腑に落ちない感覚を持っていたが、友人を失わなかった安心の方が強かったため、それ以上の追求はしなかった。



「随分と楽しそうだな」


 黒い大男がほとんど唇を動かさずに言った。

 その巌のような顔には何の色も現れていない。


「一つ聞いていいか」

 

 フランコは胸元から煙草を取り出し咥えると、火を付けつつ言った。


「何だ」


 セルゲイの返答に対して、フランコはゆっくりと煙を口内で燻らし、更に時間をかけて吐き出した。


「それがお前等の教義か」


 フランコはセルゲイの足元に転がる腕に目をやった。


 切り口が乱雑だ。見てはいないが、恐らくナイフを使って自ら切り落としたようである。前腕のみとは言え、筋や腱、靭帯が複雑に絡み合う肘関節を破壊し尽くすのは恐るべき痛苦を伴ったであろう。自然と顔の至る所に皺が寄る。


「別に腕に拘っているわけではない。目でも耳でも構わない。これは当人が選んだことだ」


 セルゲイは抑揚の無い声で答えた。顔はこちらを向いているが、サングラスの下の視線はどこか遠くを見ているように思えた。


「その程度の綺麗さなら簡単にくっつくぜ。最悪無理でも義手にすれば良いんだからな。最近の義手はすこぶる便利だぜ」

 

 そう言ってフランコは自身の左腕を見せつけるように突きだした。鈍い銅色に輝く鋼鉄の指が滑らかに動く。



「痛みだ」

 セルゲイは足元の男に視線を落として呟いた。


「必要なのは痛みだ。身体の喪失は関係ない。この瞬間、身体に、脳に、心に刻まれる痛みの記憶が教訓になるのだ」


「そういう宗教を知ってる。苦痛こそが救いだってな。改宗した方が良いんじゃないか。窓口くらいなら教えてやれるぜ」


 含めるだけの皮肉と憎悪を込めてフランコが吐き捨てる。

 セルゲイはフランコの方へ顔を向けると、鼻で笑い受け流した。

 

「これは前進するための儀式だ。失態を犯した者は責任を取らなければならない。痛みを知らなければならない。何の苦痛も伴わないのでは駄目だ。どんなに信心深い人間だとしても、いずれ忘れる。反対に、何もかもを奪うのも不適当だ。命を、あるいは命に相当する何かを捧げたところで当人の利にも組織の利にもならない。」


 セルゲイは再び足元の男を見据えて静かに続けた。


「我々は必ずしも肉体的苦痛を求めているわけではない。身を切られるのと同等の痛みを、精神的苦痛に見出すことも出来る。ただし、それは持つ者の話だ。持たざる者はこうして自らの肉体を切り刻むしか無いのだ」


 そう言うと足元でうずくまる男を軽々と肩に背負った。転がった腕を拾うのも忘れてはいない。


「そろそろ限界だ。失礼させてもらう。」

 

 ジャックはフランコの顔を盗み見た。このまま行かせて良いものか判断がつかなかったためだ。

 フランコの口元は煙草を持つ手で隠れていたが、実に静かな表情をしていた。憎しみどころか、一種の親しみさえ湛えている。その表情にどこか遠くの国の人間のような感じを受けた。


「俺達も出よう。これだけ騒がしたんだ、しばらく潜伏しないといけないかもしれん」


 フランコはゆっくりと煙を堪能した後に言った。

 二人はセルゲイとは反対の入退場口に向かった。


 闘技場には、相変わらずのざわめきだけが残された。



 

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