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《二》Glamorous Encounter

 でっぷり太った黒いタキシード姿の男が立っている。胸元には吐瀉物のような汚れがこびりついている。顔は、割れたステンドグラスの破片のようなもので被われており分からない。何も言わず、ただこちらを向いていることだけは分かる。

 ふっと、男の左右に人が現れる。一人は赤いドレスを纏い、身体中を金の装飾品で取り繕った中年の女。青白く筋ばった首に細い紫色の筋が走っている。一人はマスタード色の軍服をきた骨ばった男。脇腹を中心に左半身が消失しており、布地の端が黒く焦げ付いている。いずれも最初の男と同じように、顔は分からないが、こちらを向いていることは分かる。

 その外側に、後ろ側に次々と人が現れる。どの顔も確認することは出来ないが、身体に何かしらの汚損が認められる点は共通している。


 彼らはゆっくりと、滑るように近づいてくる。石膏のように白い手、血の滴る手、指が何本か欠損した手、あるいは手首から先がない腕が伸びる。無数の手が、指が、静かに確かめるように首にかかる。ゆっくりと、だが確実に圧がかかる。血管が、気管が潰れ、骨が軋む。そしてー



 フランコは白い椅子の上で目を覚ました。濃紺の空を背景に無数の星が散りばめられている。視線を落とすと、丁寧に刈り込まれた芝と低木を薄紫色と桃色の花々で装飾した庭園が広がっている。ビークイン男爵邸内のテラスで一休みをしていたところ、睡魔に襲われてしまったらしい。


「御気分が優れないように見受けられますが」


 唐突に、すぐ脇から声がかけられる。

顔を向けると、シックなダークブルーの燕尾服に、白の蝶ネクタイをつけた壮年の紳士が立っていた。几帳面に整えられた豊かな白髪と口髭、顔に刻まれた深い皺と光を吸い込むようなくすんだ青い瞳は、フランコに彫像を思わせた。


「こちらをどうぞ」


片手に乗せた丸盆から、水の入ったグラスがフランコの前の丸テーブルに置かれた。


「助かります」


一言礼を言うと、ひと思いに飲み干す。適度に冷えた水が喉を潤し、頭に血が戻る。


「おかげで目が覚めました。ジェローム殿にはお見苦しいところばかりお見せして申し訳ない。」


「いえいえ、そのようなことは。お二人のおかげで無事本日の会合を終わらせることができました」


 執事頭のヴィンセント・ジェロームは穏やかな笑顔をフランコに向けた。


 フランコとジャックの仕事は滞りなく終わったーもっとも、それは仕事と呼べるほどのものでは無く、この執事頭にかかった負担の方が余程大きいものであった。

 隣国で巡視官に追われていた二人を「回収」した老執事は、事前に手続きを済ませておいた国境管理所を颯爽と通過し、いとも容易く国境を超えた。そのまま車を走らせ、レナード・ビークイン男爵邸「クラフトマンハウス」に到着するなり、汚れた服から小綺麗な制服へと二人を着替えさせた。制服は二人のために特別に誂えたかのような着心地の良さだった。

 次に、彼はパーティの出席者と使用人のリスト、スケジュールと邸内の見取り図を渡し、簡潔に契約内容を説明した。契約といっても、パーティが始まり次第、邸内の適当な位置につき出席者達の警備を行う、という極めてシンプルかつ乱暴とも言えるほどのものであった。

 最後に、執務室で書類に目を通していたビークイン卿に二人の面通しを済ませると、幾つかの注意事項を告げ、速やかに自分の業務に戻っていった。その洗練された仕事ぶりと有無を言わせぬ正確な所作には、フランコ達も舌を巻くばかりであった。

 

「レナード様もお二人のことを高く評価されていました。今後もクラフトマンハウスの警備をお願いしたいとも」

 淡々とした、しかし柔らかい口調でジェロームが告げる。


「そんな大層な。私達は何もしていませんよ。」


 実際、フランコ達は何もしていないに等しかった。二人は邸内を一通り散策した後、パーティの会場である大広間に入り、それぞれの立ち位置を確認した。フランコは扉を入ってすぐ近くの柱の脇、ジャックはその対角の窓際に立つことにし、パーティが始まるのを待った。従者を引き連れた紳士淑女が館を訪れる頃はまだ僅かな緊張感があったが、パーティーが始まると急速に二人は退屈になった。

 会は特段のトラブルも無く至極穏やかに進んだ。席を立った際に彼らに声をかけようとする人もあったが、察知した使用人達が見事な動きで先回りをしていった。二人は文字通り佇立していただけであり、パーティーが始まってからフランコが一番戦慄したのは、退屈を極めたジャックが船を漕いでいるのを目にしたときであった。



「それに加えて」


 フランコはわざと声のトーンを落とし、探るように言った。


「あなた含め、館の方々が随分と気を張っていたようですからね。我々がいなくても問題は無かったと思いますよ。」


 ジェロームは眉一つ動かさず、中空を見たまま口元だけを上下させて答えた。


「今日はエドワード辺境泊もお見えになりましたからね。知らず知らずのうちに気が立ってしまったのかもしれませぬ。不快な思いをさせてしまったようで申し訳ありません」


 フランコは口に含んだ笑いが漏れぬよう注意しなくてはならなかった。

 「気が立っていた」とは、この執事頭、有能だが言い訳はあまり上手くないと見える。


 フランコから見た彼らの気の張り方は、平均的な執事や従僕に見られるような、不手際の無いよう、主人のお叱りを受けぬよう、などといった次元からは隔絶していた。

 猛獣が獲物の喉笛を狙うような、生を意識させられる緊迫感が、目の前の執事頭を筆頭に末端の従僕にまで共有されていた。彼らが日頃から銀器磨きや賜杯の埃落としだけに専念しているわけではないことは、この空気に触れれば明らかであった。


 フランコはほんの悪戯心で、目の前の紳士の弱みをつついてみたくなった。テーブルの上で手を組むと、あえて煽るような物言いをした。

「不快なんてとんでもない。ただ、皇国では私兵を置くことが許されているとは知らなかったものでね。共和国なら懲役もんですよ」


 一瞬、ジェロームの顔に陰が走る。口調から感ぜられる温かみが露骨に失われた。

「何のことか分かりかねますが、私兵の設置は公的に禁止されているわけではありません。もちろん、あまり良い顔はされませんがね。」


 フランコはますます愉快になった。

 実に正直な人間だ。ちょっと揺さぶっただけでこれだけ反応があるとは。主人も大概誠実そうな印象を受けたが、この執事にしてあの主人ありといったところか。


 わざとらしく声を上擦らせ、質問を加えた。

「ビークイン卿は武芸にも精通されている方でしたよね。使用人の教育もご自分でされているのですか?」


 レナード・ビークイン卿は、噂通り竹を割ったような好人物だった。服の上からでも分かるほどの鍛え抜かれた肉体から発する笑い声は屋敷中に響きわたり、さしずめ生身の発信器といえる風体であった。角張った顎や鼻には勇壮な意志が、隆起した眼窩の奥の灰色の瞳は深い慈しみが波打っていた。

 二人が彼の執務室に挨拶に訪れた際には、親しみを身体全体で表しながら出迎えた。


「よく来てくれた。話は聞いているよ。「世捨て人」と「尋ね人」のコンビとは実に面白い。君達にはつまらない仕事だろうが、これでもそれなりに大事な集まりでね。よろしく頼むよ。」

そう言ってそれぞれの手を力強く握った。


 歓迎を受けた二人、特にジャックは大層戸惑った。貴族などという人種については、スチームカーの後部座席でふんぞり返ってる姿くらいしか見たことが無かったためだ。どんなタヌキ親父が出てくるだろうと内心期待していたところ、均整のとれた見た目の軍人然とした男の登場に完全に虚を突かれた形になったのだった。



「詮索は控えていただきたいですな。」

 ジェロームが観念したかのようにため息をつく。


 ふっと、フランコも僅かな笑みとともに口に含んだ空気を吐き出した。

「いや、失礼。あのような殺伐とした空間に居合わせるのは久々だったもので。好奇心が勝ってしまいました」


 ジェロームは少しの間瞼を閉じた後、再び淡々とした調子で話し始めた。


「レナード様は使用人に訓練を課すようなことは断じていたしておりませぬ。ただ、我々が自らの職務として日々鍛錬を重ねているだけのこと」


 フランコの到底信じられないといった面持ちを受けて、ジェロームは説明を加えた。


「勿論、既に働いている人間と新しく雇った人間との間に意識の乖離があっては事です。そのため、雇う人間は私が時間をかけて慎重に見極めます。」


 ジェロームはそこまで一息に言った後、少しだけ声量を落として言葉を続けた。


「最近では、適性のある人間が見つかれば他業種からスカウトすることもありますがね」


 なるほど、とフランコは思った。

 従僕に人の倒し方を教えるよりは、軍人に銀器の磨き方を教える方がまだマシだろう。



「レナード様は素晴らしいお方です。誤りを誤りと強く言えるお方だ。だが、それ故に敵も多いのです」

ジェロームは遠くを見つめるような顔をして言った。穏やかな夜風が二人の間をすり抜ける。


「主人の盾になることは、ビークイン家の使用人の責務なのですよ。」

 表情は変わらなかったが、誇りと自信に満ちた響きがその言葉にはあった。


 これだけ主君を真摯に想えるジェロームを、フランコは羨ましく思った。自分は残念ながらそのような主君には巡り会うことはついぞ叶わなかった。腹の底で苦く重いものがじわりと滲む気がする。

 その一方で、彼らは盾というよりは剣の間違いではないか、と考え少し可笑しくなった。



 ふと、ジェロームに出会った当初から抱えていた疑問が思い出される。 


「ところで、何故俺達を車に乗せてくれたんです?いくら隣国の人間とは言え、制服に追われている人間を拾うのはリスクが高いでしょう。まして臨時雇用の人間では」


「えぇ、確かに。這々の体で走ってくるあなたの姿を見たときには、私の心にも一瞬躊躇いが生じました、ただ」


几帳面に手入れされた口ひげの奥で僅かに口角が上がる。


「ただ、お二人のことを紹介された方が仰っていたのですよ。『あいつらについては多少のことは大目に見てやってくれ』と」




 蝋燭の灯が等間隔でぼんやり浮かぶ邸内の一区画。パーティ中の喧噪が嘘のように静まりかえる中、ジャックは廊下に面した書棚の本を貪っていた。この時代、本は貴重品という程では無かったが、最先端の知識が記されたものは限られた場所でしか目にすることは出来なかった。特に、市民タグの無い彼のような人間は、公営図書館に入ることも出来ない。尚更縁遠いものだった。


「『ドリー』の産生するα-NPF反応体の人体への影響について」

「エルゴナイト合金の応用による燃焼器の強靱化」

「コア稼働に伴う排気と大気汚染の関係」


 ビークイン卿の趣味と実益を兼ねた書棚には、あらゆる分野の最先端の研究論文が並んでいた。とりわけ生体工学と機械工学の文献に関しては、国立図書館の蔵書に迫るものがあった。


「あら、珍しいお客様ですこと」

 廊下の先の階段から鈴のような声がかかる。

 ふと目線を上げる。

 疎らに備えられた蝋燭の灯りと、踊り場のガラス窓から差し込む月光に包まれて、声の主は舞台演者の如く階段を降りてきた。

 年若い女性、胴部は身体に密着しつつ、腰部が傘のように膨らんだ礼装をしている。様々な鳥の羽根と黄色のリボンがあしらわれたツバの広い帽子の下に、挑戦的な朱い瞳が光る。


「えぇと、確か、レナード卿のご令嬢のキャサリン様でしたか。」

 女性が階段を降りきるのを待って、必死に思い出した名前を口にする。


「あなた、確かジャックとか言ったわよね。年は?」

 滑るように廊下を歩みながら、キャサリンが言葉を返す。歩くと僅かにウェーブした金色の髪の一本一本が揺れ、月の光を受けて瞬く。


「へ?17ですけど」

 意外に早く目の前に到達したキャサリンに戸惑いながら答える。


「あら、私の一つ下じゃない。ならケイトで良いわよ。言葉遣いも改めてね」

 キャサリンは嬉しそうに腕を後ろに回して笑った。


「いや、そういうわけには…」


「良いのよ。気にしないで頂戴」

 ジャックの言葉を、鋭く、しかし冷たくはない声でキャサリンが遮る。


「まいったよ、ケイト。これで良いかい?」


「分かればよろしい」


 息を飲むような笑みが、蝋燭に照らされた顔に浮かぶ。ツバの広い帽子に作られた影で顔の半分程は隠れていたが、彼女の満足が得られたことはジャックにも十分感じられた。


「あなた、学問が好きなの?」


 キャサリンは打って変わってつまらなそうな顔を書棚に向けると、本の背表紙をなぞりながら言った。


「好きかと言われると違うかな…でも、本を読むのは好きだね」


 ジャックは読んでいた本に再び目を落として答えた。


「色々なことが分かってさ。自分の知ってた世界は何て狭かったんだろうって驚くよ。」


「へぇ、人は見かけによらないとはよく言ったものね。」


 キャサリンはジャックの姿をしげしげと眺めながら独りごちた。

 よれたキャスケットにゴーグル、丈の短いカーキ色のシャツに茶色い肌着、余裕のある作りのモスグリーンの作業用パンツに黒ブーツ。ところどころすり切れた麻の鞄に、腰にはベルト型の工具入れ。鮮やかな赤い髪色と対照的な澄んだ青い瞳が、本の上の文字を追ってせわしなく動く。


「どう見ても、見習い工か飛脚の使いよねぇ。」


 少し胡散臭いものを見るように、キャサリンがジャックに顔を近づける。


「あぁ、よく言われるよ。でも残念ながらそんな外聞の良い仕事はやったことないんだよ。」


 ジャックは本に視線を落としたまま、何とはなしに付け足した。


「市民タグが無いからね」


 市民タグの不所持については、他人に悟られないようフランコに強く言い含められていた。普段生活している共和国や皇国、その近隣の国において、程度の差はあれ、市民タグを持たない者は爪弾き者の扱いを受けた。

 フランコが知ったら重い拳骨をもらいそうだと思ったが、何となくキャサリンに対しては、隠す必要がない気がした。加えて、雇い主であるビークイン卿やジェロームは、既にこの事を承知している可能性が高く、さして大きな問題にはならないだろうとも思われた。




「なるほど、それでうちに来たのね」


キャサリンは驚くでもなく、一人納得したようだった。


「今日みたいなパーティがあるときは、普段は騎士団が人員を出してくれるんだけどね。今回はお父様が断ったのよ。このゴタゴタしている時期にわざわざ騎士団を出してもらう程じゃないからって。」


 そう言うと白い手袋をした腕を伸ばし、脇の棚から適当な書物を取り出した。細く長い指先がパラパラとページを捲る。


「それが前日になってみたら、腕利きの護衛を雇ったって言うから。傭兵でも連れてきたのかと思ってたの。そしたら来たのがあなた達二人だけだもの、驚いたわ」


 キャサリンは眉根を寄せながらページを繰りつつ言葉を続けた。


「御父様は筋の通らないことが嫌いなの。少なくとも、党の先生方や名門貴族の集う社交の場を、素人に警備させるようなことは絶対に無いわ。」

 

 読むともなく裏表紙まで手が到達すると、ため息を漏らしながら本を閉じた。


「やっぱり本は好きではないわね。外で武芸の稽古でもしている方が楽しいわ」


 苦笑いを浮かべ、視線を手元の本からジャックへ移す。


「ねぇ、あなた達は何者なの?御父様がたった二人の人間、しかも初めてクラフトマンハウスの敷居を跨ぐような人間二人だけに、警備を任せるようなことは初めてなの。」


 鋭い視線がジャックを貫く。朱い瞳が蝋燭の灯を受けて、妖しく煌めく。


「それだけあなた方を認めているということよ。でも、あなた達は御父様と今日初めて会ったわけよね。これはどういうことかしら?」


 口元には僅かに笑みが残っていたが、それがかえって目元の冷たさを強調していた。



 ジャックは本を手にしたまま、少し悩んでから答えた。


「そうだなぁ、仕事の話は全部フランコが持ってくるから僕もよく知らないんだよ。まぁでも今回の仕事では、僕は完全にオマケだろうね」


「金魚の糞と言っても差し支えないね」


 深く、何度も頷きながら付け加える。

 キャサリンは一瞬次の句に窮し、音がしそうなほど大きく二度瞬きをした。


「何で自慢気なのよ、あなた」


 澄んだ高音の笑い声が響く。つられてジャックも笑う。広い夜の屋敷に二人の声が穏やかに反響する。


「じゃあ逆にあなたは何ができるのよ?」


 笑いの余韻を残した期待げな表情がジャックに向く。


「うーん、掃除、洗濯、料理は僕の担当だね。それに、裁縫も割と得意かな。」


 身の回りの家事は大抵ジャックの受け持ちだった。フランコが「もう一生分やり終えた」と言って、ほとんど手を出すことは無かったためだ。ジャックはジャックで、フランコに言われるでもなくその手の作業を好んでこなしていた。加えて、フランコが持ってくる仕事は割の良い案件が多かったことも手伝って、大した軋轢が生じることもなかった。



「あとはそうだな、修理もある程度は」

何気なくジャックが付け加える。


「修理?」


「うん、よく仕事で直すのは遠隔伝声管とか集合暖気管なんかが多いね。個人的に好きなのはスチームカーとかコアモービルなんかの修理だけど。あとは、鋼製筋骨もたまに」


 そこまで言うと、キャサリンは目を見開き驚きに満ちた声をあげた。


「鋼製筋骨?あなた、技師の資格を持ってるの?」


 他人の鋼製筋骨の加工、改造、修理等を請け負い生業とするためには、国定資格である人体工芸技師の資格が必要になる。国定資格は、人体工芸技師による推薦を受けた上で、「技師会」が課す試験に合格することで付与される。取得には人体と工学に対する深い知識、繊細な技術、強靱な精神力、そして何より財力が求められた。


「そんなもの持ってたら今頃こんなところでコソコソ本読んでないよ」


 何を当然のことを、といった顔をキャサリンの方へ向ける。


「それもそうね」


 キャサリンは開いていた目を細め、胸にこみ上げた期待を吐き出すように静かに息をはいた。


「ちょっとした修理は技師以外に頼む人が多いからさ。あまり大きい声では言えないけど」


 ジャックの本をめくる手が再び動き出す。キャサリンはその動きを追うでもなくぼんやりと眺めていた。


「あまり賢い選択とは思えないわね。最近は腕の悪い素人が低品質の部品を使って他人の体を弄くるせいで仕事が増えて困る、って出入りの技師が嘆いてたわよ」

キャサリンはわざとらしく声を低して言った。


「仕方ないよ、大抵の技師は予約が半年以上埋まってるし、料金も高いし。そのくせ鋼製筋骨のツマらない故障は日常的だしさ。おまけにそのツマらない故障が致命傷になることだってあるんだから」


「そうね…」


キャサリンは沈んだ声で相槌を打ったが、考え直すように声の調子を上げて続けた。


「まぁ私も小さな不具合なら自分で直しちゃうから気持ちは分かるわ」 


 ジャックの本を捲る手が止まった。

 キャサリンの方へ青い瞳を向けると共に驚きの声を上げる。


「へぇー、君がかい!」


「人は見かけによらないねぇ」


 どちらからともなく、再び二人の間に笑いが起こる。闇夜に沈む館の片隅、揺らめく蝋燭の灯りの中で、二人の声だけが響く。


「さて、そろそろお暇しようかしら。ジェロームが心配しだす頃だわ」


 キャサリンは静かに頭を振って、体勢を整えた。ふわりと帽子が揺れ、飾られた羽根が小動物のようにはためく。


「それでは、ご機嫌よう」


 左足を後方に引き、膨らんだスカートを両手で軽くつまみむと、頭を軽く下げる。

 下ろした視線を戻し、ジャックに向かって笑いかけると、身体を翻し軽やかに階段へと歩いていった。その所作の優雅さと静けさに、ジャックはしばし言葉を発するのを忘れていた。



 しばし茫然とした後、ぽつりと独りごちた。


「フランコ用に鋼製筋骨の部品が無いか、聞いとけば良かったな」


 ジャックは手に持っていた本に視線を戻すと、再び文字を追い始める。邸内はまるで何事も無かったかのように静寂に包まれていた。


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