05 深海 著 雪(気象) 『黒のトンネル』
「まさかそんな。陛下が自らなんて、一体どんな理由で? ありえない。それは絶対ありえない……!」
赤毛の騎士が叫ぶ姿を、老婆アドウィナは無表情にみつめた。
鐘が鳴る。
連日の降雪で冷え切った王宮の回廊で、荘厳なる音色が響き渡る。
勝利の音が、老婆の背中をみしみしと打った。
そう。この音色はまさしく、戦いの終焉を告げる凱歌。
それではのと、老婆は軽く会釈して踵を返した。
赤毛の騎士は慌てて、報酬は払うと彼女を呼び止めた。騎士の顔をじっと見た老婆は、それはありがたいと慇懃に頭を下げた。
「金槌の勇者よ。運命は我らが――」
鐘の音が、老婆の声を遮った。
それでよいと思いながら、老婆は黒き衣をひるがえした。
赤毛の騎士にこの気配が分かるだろうか。導師ではない者に。人工的に作られた英雄に。
いにしえの偉大な術が、感じ取れるであろうか。
空間と空間を繋げる黒いトンネル。あらかじめ作っておいた抜け道を、老婆はゆるりゆるりと歩いた。杖が要りそうながたつき具合に、彼女はくすりと苦笑した。
縮地しなければ、家へ帰り着くまでに三日はかかる。
エティアの王都を観光するのも一考ではあったが、空から見下ろすに、数百年前とさして変わり映えしないように見えた。水路の色も以前より濁って匂っていそうだったから、寄り道するのは止めにした。
隠れ家は天に浮かぶ島にあり、どこでも好きなところに浮かべることができる。
寒いのはごめんだ。
雪に埋もれた国からは、すぐに退散したい。
「南洋の上に、島を動かすかの。それとも熱砂の砂漠がよいか」
黒い衣のすそがたなびく。
細くて低い黒のトンネルの長さは、ちょうど百歩だ。そのように設定した。
この世のどこにも存在しない、見えない通路。
二十歩進んだところで、足のがたつきがおさまった。
三十歩進んだところで、猫背だった背がまっすぐになった。
四十歩進んだところで、白い髪が染まり始めた。
まっしろから、黒々とした色に。
五十歩目からは、如実に歩く速度が速くなった。
杖が必要となる心配など微塵もない様子で、老婆だった者はすたすたと進んだ。
六十歩目。七十歩目。八十歩目……
顔に刻まれた皺がみるみる消えていく。
かさついた唇がしっとりとふくらみ、赤みを帯びていく。
すらりと伸びた背。男を魅了するような形の胸。それから――
「たたえよう。音の神を」
凛と透き通った、美しい声。
もはやその者は老婆などではなく、大いなる変貌を遂げていた。
輝く白い肌。燃えるような赤の双眸。
見者アドウィナは、颯爽と縮地のトンネルを抜けた。
見る者すべてがため息をつくような、この上なく美しい、うら若き乙女となって。
百歩目を踏んでトンネルを抜けると、そこは雪の島だった。
泉は氷り、果樹は氷雪をかぶって白いおばけのような姿になっている。
うら若きアドウィナはため息をついて、ずぼずぼと深い雪を踏み、島にひとつきりの白亜の建物に入った。
「自動制御で、もっと南に浮かんでいるようにしたはずだけれど」
建物の中は温かかった。
黒衣をまとった何者かが片膝をつき、居間にしている箱部屋の暖炉に薪を放りこんでいたからだ。
金の髪輝くその男を見て、うら若きアドウィナは右手をかざした。
たちまち魔法の気配が降りてきて、乙女の手から光の球がいくつも飛び出した。
だが黒衣の男はふりむきもせず、せっせと薪をくべた。
攻撃の光弾はバチバチと、男の背中のすぐ前で見えない壁に衝突し、放電して消え去った。
「ふざけないで、黒き衣のフリバトール」
乙女が声をあげるとようやくのこと、黒衣の男は立ち上がり、暖炉を背にして乙女を見た。
「やあ、アドウィナ」
「敬称をつけなさい。私はあなたとおなじものよ」
「ああそうだったね。黒き衣のアドウィナ。君が寺院から追放されて、何十年も経ったものだから。つい忘れてしまったよ」
「あなたが島を動かしたのかしら。私に断りもなく、私の家を」
フリバトールという呼び名の男は、そうだよと微笑んだ。
「君がエティアの王室に呼ばれたと、風の噂で聞いたものでね。でもスメルニアの上空に島があるんじゃ、帰ってくるのに大変だろうと思って気をきかせたんだ。エティアの上空に動かしてあげたよ」
「そんな必要は全くなかったのだけど」
黒のトンネルは、必ず百歩の長さだ。入るところと出るところで、どんなに距離が離れていようが、変わらない。そう設定しているのだから。
「風の噂って、どんな風なのかしら。なんでも見通す恐ろしい風かしら。でも私は、あなたの〈気遣い〉にお礼をするべきなのでしょうね」
「そうだね。そうしてくれると、とても嬉しい」
「わざわざ北の果ての寺院から出てきて、私に恩を着せる。その理由は、十分に察せるわ。でもまずは、お茶を差し上げましょう。客人としてもてなしてあげるわ」
うら若き乙女は部屋の奥にひっこみ、白くて大きな箪笥のような箱から茶器を出した。
「お湯は私が沸かそう。瞬時に」
黒衣の男がほがらかに言う。
乙女は男の申し出を断らず、貯水樽から茶器に水を入れると、男に手渡した。
男の体の周りに魔法の気配が降りてくる。まことの言葉が囁かれた瞬間、水はほどよく熱くなり、湯気を昇らせた。
「韻律は、こういう平和的なことに使うべきだと思うんだ」
「あら。侵入者を撃退するには、ある程度の攻撃技が必要かと思うけれど」
「私はそういう類いのものではないよ。きみの弟子の、弟子だからね」
「これが師の師に対する態度かしら。ちょっとなれなれしいんじゃない?」
口元を引き上げてせせら笑いながら、乙女はとぷとぷと香りよい茶を淹れた。
「ランジャのナツメヤシはいかが? それともジャシコウのトルテがよいかしら」
「いや、お茶だけで十分」
男は勧められる前に、居間に据えたソファに身をうずめた。
「黒き衣のアドウィナ。あなたほど美しい人はいないだろう」
「突然口説き始めるなんて」
「いやいや。本当の年齢を知らなかったら、本当に言い寄っていたよ」
「褒め言葉なのか、けなされているのか、よく分からないわ」
褒めているに決まっていると、黒衣の男はくつくつ笑った。乙女が向かいのソファに座ると、男はすっと真顔になった。
「さて。求めるお礼の内容を言っていいだろうか」
「ええどうぞ」
「では遠慮なく。私は、あなたの心臓が欲しい」
「それはちょっと、今すぐには無理ね」
乙女はずっと以前から予想していたことに答えるように、淡々と返し、肩をすくめた。
「私がエティアの王宮で見た記憶。国王が死んだときの、真実の光景。それをだれにも、口外されたくないのでしょう? 黒き衣のフリバトール」
赤い双眸が男を射貫く。炎となって焼き尽くす。
「一番簡単なのは、私を消すこと。そう思ってここに来たんでしょうけど。ごめんなさいね。私の心臓はこの体の中にはないの。エティアよりずっと遠く、大陸の果てにあるのよ。もちろん、誰からも隠されたところにね。あら、そんな困った顔をしないで。弟子の弟子のよしみで、記憶を渡してもよいわよ」
乙女は目を細め、黒衣の男に茶を飲むよう促した。
「私は耄碌した老婆で、忘れっぽいの。そう、忘れることが特技といってもよいわ。あなたがそれでよいと言うなら、たぶん五分後には、王宮で見たことをすっかり、忘れてしまうでしょうね」
「自ら、記憶を消去してくれるというのかい?」
「正直、覚えていたいほど素敵な記憶ではなかったから。黒いトンネルからいきなり現れた黒衣の男が、親友を刺す場面なんて。絶対見間違い。老いて魔力が落ちたせいだと思ったから、赤毛の騎士にはこういったのよ。王は自殺したって」
黒衣の男の顔が安堵の喜びにほころぶ。それは人には分からぬほどかすかで抑えられたものだったが、乙女は見逃さなかった。
「弟子の弟子ですもの。かばってあげたくなるのは、当然でしょう? 黒き衣のフリバトール」
母のような優しい声音で言うと、男はするっと真実を打ち明けた。
「命令されたんだ。寺院の長老たちに。知っての通り、岩窟の寺院の長老たちはほとんどが、スメルニア出身だ。本国の暗殺機関が再三しくじった末に、長老たちに泣きついてきたんだよ。それで黒衣の導師が派遣されたんだ。王の、かつての親友が……」
「王の親友どの。あなたのトンネルは何歩なの?」
小首をかしげて乙女が聞く。男は肩をすくめた。
「五百五十五歩。もっと縮めたいと思っているが、なかなかどうして、難しいものだね」
「縮地の距離は、魔力に比例するものね。縮めたかったら瞑想と修行を極めて魔力を高めるしかないわ」
「君は何歩なんだい?」
「私は、四百二十歩よ。ふふ、一年の日数と同じ数ね」
本当は百歩だが、乙女は真実を明かさない。
おのれの力がいかほどか、ばらすヘマはおかさない。
「さすがは師の師だ。私より短い」
「そうね。でも、大した差ではないわ」
乙女は今の戸棚から赤い缶箱を出した。中には干した真紅の木の実がぎっしり詰まっていた。
「さあ、私はこれを食べるわ。それで今から一日前のことは、すべて忘れてしまうでしょう。ああでも、忘れる前に、浮き島を南へ動かしたいわ。寒いのは嫌。とても苦手なの」
「私がやってあげよう」
「優しいのね」
「本当は……殺人なんてする柄じゃない。やりたくなかった。幼なじみを手にかけるなんて」
「分かるわ。でも岩窟の寺院の長老たちは、非情で冷酷で容赦ないのよね」
「そうなんだ。命令に従わないと、私が殺される。ジャルデにはもうしわけないことをした。本当に……」
男が家の外に出て島の軌道をいじるのを見届けると、うら若き乙女はサッと木の実を口に入れた。そうしてソファに横たわり、目を閉じた。
これから眠りにおちる。目覚めたとき、自分はすっかり、記憶を失っているだろう。
そう伝えられた男は、茶をすすりながら乙女が眠りからさめるのを待った。
「ジャルデ……すまない、私は……」
ソファに座り、両手で顔を覆い、目尻ににじんでくる涙を黒い衣の袖でこすりながら。
眠り姫のごとき乙女は、三日三晩ののちに目を覚ました。
ソファから起き上がり、あたりを見渡す。暖炉の火は消えていた。
ぼんやりとする頭を振りながら、乙女は居間にころがっているものを見下ろした。
胸に針のような剣を突き立てた男。
乙女は悲しげに、自死した導師に声をかけた。
「今日は何月何日? いずれにしろ、私が見た予知夢の通りになったのね」
黒き衣のアドウィナは、偉大な導師。
夢見の力。縮地の力。そして物の記憶を読み取る力。
それぞれの力を三人の師から学び、師を越えるほどに極めた。
だから乙女は未来を知っていた。もう、すでに過去になってしまったけれど。
「私はエティアに行っておそろしい記憶を見る。そのあと、私のもとにフリバトールがやってくる。私を殺しに。私は彼をかばったことを伝えて、忘却の薬を飲む……その通りに、なったの?」
涙で腫れた男のまぶたをそっと手で覆い、乙女は男の目を閉じてやった。
「私の予知夢の通りなら、エティアの王は殺された。犯人は……」
乙女は男の体を韻律で浮かせて、家の外に出した。
さんさんと熱い太陽が照りつけてきたので、乙女は額に浮かんだ汗をぬぐった。
緑の草原が乙女の足をくすぐった。
「弟子の弟子。私には孫のようなもの。だから、かばいたかったのに。黒き衣のフリバトール。あなたのトンネルは夢で見たとおり……」
乙女はうるむ瞳を天へ向けた。
「五百五十五歩、だったのかしら」
目尻からこぼれ落ちた涙が、陽の光を受けてきらりと光った。
白く輝く金剛石のように。
――黒のトンネル 了――