第七話 空中からのメガネ
あの夜、と言っても昨日の晩の話だが、必死でヘリコプターにしがみついていたメガネは、寒さと、そして正面から吹き付けてくる強風と戦っていた。『戦う』といっても、ロープが体に食い込まないように両手でロープを押さえ、ただ必死でこらえているだけである。
ともすれば気が遠くなりそうになるメガネを支えていたのは、イザベラ(=ミハダ)への燃えるような、盲目的な、現実無視的な、恋心だけだった。
メガネにとって十年にも感じられたそのヘリの飛行時間は実際、一時間もない。
メガネの足元に光り輝いていた町の瞬きはすぐにまばらとなり、やがて、ただ闇だけが茫々と広がっていた・・・
大気から木の香が濃く漂い始めたとき、眼下に建物が二棟現れた。
まるで研究所のように殺風景なその建物の上でしばらくホバーリングしていたヘリは、やがて、建物の中庭へと徐々に高度を落としていった。
ほとんど意識を失いかけていたメガネが、ヘリが建物の屋上付近でホバーリングしているときにそのかじかんだ指でロープを外し、そのロープと共にその建物の屋上に骨一つ折ることなく飛び降りることが出来たのは僥倖であった。
屋上に無事飛び降りて、ようやく一息ついたメガネは大きくため息をつくと、縁から下を見下ろした。ちょうどヘリからメルトモとあのズングリした体格の男とが出て来るところだった。ヘリは彼らを吐き出すと、また夜空へと飛び去っていった。
辺りが静まってほぼ一時間後、メガネが行動を開始した。ロープを近くの配水管に結びつけると、彼は壁を伝ってゆっくりと下に降りていった。とりあえずこの屋敷の場所さえ押さえておけば十分だろう。メガネのこれからの計画は単純だった。この建物の外に逃げだしてアソウ達に連絡すること、これだけだった。そこには何の問題もない・・・はずだった。
凹凸の多い壁面を降りるのに大して苦労はなかった。地面まであと七メートル、五メートル、四メートルまで来たときだった。
グゥワン、グワン、グワン!
喧しく吠え立てながら黒いドーベルマンが二匹やって来た。涎を辺りに飛び散らせ、歯を剥き出して走ってくるその犬達の猿顔が憎悪に歪んでいる。
メガネは急いで、近くに突き出ていた四角い煙突のような物の上に辛うじて降り立つとロープの残りを回収した。
(うっさいなぁ。よっぽどヒマだったんだろうなぁ。あんなに張り切って・・・あ、尻尾振ってる。自分でも尻尾振ってること、気付いてないんだろうなぁ)とメガネが下を覗きこんで思った瞬間だった。
「くぅおっらぁ!静かにせんかぁ!」
まるで爆撃のような声がしたかと思うと同時に、メガネのすぐ頭上の窓がガバッと開いた。
侵入者に尻尾振ってる番犬も番犬だが、そのせっかくの働きを問答無用で黙らせる飼い主も飼い主である・・・
メガネ、その怒声を聞いた瞬間、煙突の中に後ろ向きのまま飛び込んだ。いや、‟落ち”た。
―ハトに豆鉄砲―
声を立てなかったのは我ながら偉いとは思ったが、どうも実際のところは、声を立てる前に気を失っていたようだ・・・
あまりの悪臭に目が覚めた。
自分の上にゴミが乗っている。よく見ると、横も、下も、ゴミだらけだ。
そこはゴミの海だった。
悪臭が鼻を素通りして脳に刺さった。
メガネは、その悪臭に再度意識を失いそうになりながらも、何とかゴミの海を泳ぎきり、固いコンクリートの地面に降り立った。
そこが巨大な部屋だということには、床に降り立って初めて知った。
ゴミで遮られてはいるが、どこからか明かりは漏れてきている。あちらこちらとさまよい歩いた挙句、メガネはようやくそのゴミの部屋のただ一つだけしかない(たぶん)ドアを見つけた。メガネはそのドアに走りより、開けて外に出ると、急いで後ろ手にドアを閉めた。
一生分のゴミの香であった。
体内に詰まったゴミを吐き出そうと、「ぐえぇ、ぐえぇ」とえずいてもえずいても、えずき足りなかった・・・
ようやくメガネが落ち着きを取り戻したのは、三十えずきもした頃だった。
薄暗い廊下がメガネの目の前にあった。
思いっきり深呼吸し、一歩踏み出した。
その瞬間、メガネの足がなにかグニャリとしたものを踏んだ。かがんでよく見ると玉葱の残骸だった。あたりをもう一度よくみまわすと、メガネは軽く微笑んだ。もう何も言うことはない・・・。『運』というやつさ・・・。
メガネの目の前の廊下一面に、生ゴミ、粗大ゴミ、衣類ゴミ、プラスチックゴミが敷き詰められ、バージンロードを成している。
(だから・・・)メガネは思った。(あのヘリに乗らなきゃ良かったんだ)
(第八話に続く)