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少年はその俗世から剥がれ落ちたような静寂なこの空間が大好きだった。
紙とインクの匂い、それだけの空間。
そんな小さな空間で手にする小さな世界。
少年はその作者の世界の一部を切り取ったような、一つの物語であるその本が好きだった。
時間さえも止まってしまったような錯覚に陥るようなこの異空間で、誰にも邪魔されず、ただ一心不乱に活字に目を落とし、自分では無い誰かの世界を思いを言葉を触れる。
それは少年にとってひどく安心出来るものであった。
……以前までは。
ふと覚醒した感覚で視界を確認すると、窓の外の眼前には見慣れた秘密の花園が広がっていた。
先ほど本を開く前と比べて明らかに陽の入り方が変わっているのに、読み進めた頁は一枚どころか一行にも満たずに少年はため息を零す。
今日もしでかしてしまったと早々と開いていた本を閉じる。
以前はこんな事無かった。一日もしくは半日有れば一冊は読める自分が三日以上同じ本を抱えてるなんて。
意識がどうしても落ち着かない。どうしても思考の世界に入ってしまいなにもする気になれないのだ。
悩んでしまうぐらいなら、対策を練れば良いだけの話なのにどうしてもそれができそうに無いのだ。
原因は発覚している。しかし、どうしてもその先が分からなかった。何故こんなに苦しいのか。その原因はあの日からだ。あの日の朝、見てしまった現実に胸が切り刻まれそうな傷みを覚えそれから前にも後にも行けず、思い心だけ引きずって心だけここにとどまり続けてる。
そんな風に悩んでた自分に委員長が考えて分かんないなら何も考えずにもう一回原因を見るだけでも違うのでは無いかと、だいぶ言葉少なめに言われた際に決意をした。
原因と直接対決する、と。
きっと心優しいあの生き物、秘められた花園にて穏やかなひと時を過ごしているのだろうと当たりをつけてそこへ向かった。
自分にとってあの生き物は心優しい小さな天使だと思う。じゃなきゃあんなに見てて幸せな気持ちになんてなれないだろう。天の使いと書いて天使、あの生き物の為の言葉と確信すらしている。初めて出会った日なんて羽根が生えていると錯覚した程だ。
……って莫迦らしい。
自分でも恥ずかしい思考に頬が一瞬熱を持つ。
いざその場にたどり着いたとき聞き慣れた声がして足を止める。
「えー、白井君良い子だと思います…かっこいいって言われるのもよくわかる気がしますよ」
その発言はいやに耳の奥にこびり付いて離れず、やけに大きく反響して脳内に残った。
「先輩あんなのが好みなんですか?」
聞きなれない低めの癖の声が咎める様な厳しい口調で問い掛ける。喋り方として女子だろうか。しかも後輩、知り合いにあの声は居ないはずだが……。
「ボクは真面目で誠実な男の子って素敵だと思います」
その言葉にもう頭の中は真っ白に真っ黒にチカチカと点滅を繰り返す。まるで頭の中をぐしゃぐしゃにかき混ぜられたような気持ち悪い感覚。熱で頭が回らない時よりこの気持ち悪さは酷いかもしれない。立ちくらみなんて可愛いもんじゃ無く足元からぐらぐらと何かが壊れて行く音がした。
耐えられずその場を逃げた。だってそうだろう、これ以上ここにいたら壊れる気がしたんだ。もしここでいっそ動けない程力が抜けてたら彼女の真意に気付いたのだろうけど。
あぁ、と知ってしまった。
天使だなんて、可愛らしいなんて心優しい小さな生き物なんて、そんな例えをして口が悪い友人が笑っていたことを思い出した。
彼女と共にいて幸せな気持ちになったことを思い出した、あの時もあいつは面白そうに笑っていた。
「お前も人の子か」と――。
あの時分からなかった言葉の意味がようやっと理解出来た。それはそう言うことなのだろう。
あの日あれを、自分が好きなものをあげた際に嬉しそうに微笑んでくれた時に全て始まったんだ。
気づいた時にはおそすぎだ。
甘さより先に苦さを覚えた。
戀と言うものをこの歳にして知りました。
そして、あの瞬間傷ついた様な顔した少女を見て何と無く分かった。
あぁ、自分の気持ちはきっと彼女にはばれてているのだろうと。でも彼女には重荷にしかならなくて。でもきっと優しく彼女は誰かを傷つけたりすることなんて出来ないから知らず知らずのうちに負担をかけて傷つけてしまってたのだろう。
申し訳ないと思った。あんなに傷つけてしまって。でも少しだけ。ほんの少しだけ、飢餓感が満たされた。自己満足に浸れた。
傷付けてしまって申し訳ないと思うと同時に、彼女が自分のせいで自分の事で傷ついたといたと言う事が嬉しい。多分優越感、きっと支配欲だ。
「……おもたいな」
自分でも思う。重た過ぎると。そりゃ純粋なあの子にはこんな泥々しい気持ちは重たいを越して気持ち悪くて仕方なかったろう。振られてもしゃあない。
頭を振ると予想外に自分にダメージがあったみたいで視界がぐらついた。ちょっと復活出来る自身が無い。
ふぅと一つため息を落とした。あの子に振られた不幸に勝る不幸なんてないから幸せ逃げるなんて言われてもどうってこと無い気がする。
「こんにちは」
不意に告げられた一言にびくりと身体を揺らす。全くもって意識がなかったことに自分でも驚いてしまった。
「はい、何でしょう」
「本の返却に参りました」
穏やかな声色で言われてその人物の顔を見た。
見て、見たことを一瞬で後悔した。
そりゃ図書室のカウンターに座ってたら基本貸すか返して貰うが仕事だよななんて思考は即座に霧散するぐらいに。
白井祥太郎。一つ下の一年でこの中等部の生徒会長。耳にする噂や後輩の話によると冷静沈着な優等生。
そして、自分が失戀の元となった元凶。
その元凶はにこにこと笑うと穏やかに先輩? と繰り返してくる。
「……返却、ですね」
落ち着いて発言したつもりだったが自分の声は裏返ってないだろうか。どうしても身構えてしまい良くないと小さく頭を振る。
返却処理手続きをしようと判子を持ったが一向に書物が出てくる気配がなく、ん?と白井を見やる。何だか戦意喪失したやるせない気分である。
生徒会長はまた再び笑うと「秘密裏にお願いしますね」と小さく絞った声で添えてくる。
「は?」
そろりと置かれた見覚えの無いそれ。
「では、確かに返却致しましたので、ご確認のほど宜しくお願い致します……ね?」
「確認って?」
マル秘と書かれて何が返却だと頭の中がこんがらがる。しかも俺が確認する意味が分からない。
どう言うことだと問い詰めようと顔を上げるがそこにはもう白井の姿は見えなかった。
「その一手で物事は好転するの?」
図書室を出てすぐの壁に寄り掛かり優秀と呼ばれる副会長は自身の仕える会長へと問い掛ける。
「さぁ……して欲しいとは思うけど。どうするかは本人が決める事だからね」
よく言うよ、最初からその心算でやってるくせに。
喰えない会長はにこりと笑うと楽しみだなぁとのたまう。
僕は不安でいっぱいだよ。
賭け金がデカすぎやしないかい?
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