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軽やかにステップ

作者: 一色椿

18 ザクースカ

使用ワード:おはよう ワルツ 靴

 

 ゆっくりとまぶたを開ける。陽の光が差し込む私の部屋からは、美味しそうないい匂いがする。布団の中で伸びをして、目をこすりながらドアを開ける。匂いの元のキッチンへ向かうと、そこには寝巻きのTシャツ姿でフライパンを手にする緋路の姿があった。

「おはよう。もうすぐ朝飯できるから顔洗ってきな」

 うん、と頷く私、悠月文世はのそりのそりと洗面台へと向かった。

「いただきます」

 手を合わせて声を出す。朝が弱い私の代わりに、彼がいる日は彼が朝ごはんを作ってくれる。緋路は料理が上手だから、いつも美味しい。今朝はクロワッサンに、最近習得したというエッグベネディクト。カリカリのベーコンと数少ない私の好きな野菜のトマト。

「美味しいね」

 そう言った私の顔はきっとふやけていたことだろう。

「はは、そりゃ良かった」

 少し呆れたように、幸せそうに笑ってくれる彼を見て私はもっと嬉しくなった。

 今日はこの後、オーケストラのコンサートを見に行く予定だ。でもそれは夜だからまだ時間は沢山ある。

「今日はどうする?買い物にでも行くか?」

「うーん、そうだなあ」

 そう言って少し考えると、ひとつのことを思いつく。

「そうだ、靴が見たいと思ってたんだ」

「じゃ、出かけるか」

 緋路がこの部屋にいるのもすっかり慣れて、彼の荷物も増えた。服もだし、歯ブラシも2本。他には髭剃りとか、色々だ。彼がいない時も何だか近くにいるみたいで嬉しい。服をこっそり着たことがあるのは秘密だ。

「それで、靴屋っていつものとこ?」

「ううん、今日はちょっと違うとこ」

 いつも私が履いているのは黒い革靴。これはこれで可愛いから気に入っているんだけど、今日見たいのは違う。

「今日はいつもと違う靴を見ようと思って」

 そうして着いたのは、ハイヒールやピンヒールを扱うちょっと大人なお店。

「文世、こういうのあんま履かなくないか?」

「そうだけど、たまにはいいでしょ?」

 だってもっと可愛くなりたい。緋路に見合うくらい、可愛いって言って貰えるように。

「いらっしゃいませ」

 店内に並ぶ靴たちはみんな、大人っぽくて妖艶で、素敵で、まるでガラスの靴みたい。どれを見てもため息が出てしまう。私にはきっと似合わない。

「どう?いいのあった?」

「……素敵なのはいっぱいあるけど、やっぱり私には似合わないかも」

「そうか?俺はどれでも……これとか似合うと思うけど」

 そう彼が差し出してくれたのは、水色のピンヒール。見る方向によっては透明に見えて、本当にシンデレラの靴みたい。

「ご試着ですか?こちらへどうぞ」

 店員さんにされるがまま、履いてみる。慣れないピンヒールは立っているのがやっとだったけれど、かわいい。なんだかお姫さまになったみたい。

「似合ってるじゃん。可愛いと思うけど」

 !可愛いって言ってくれた!

「ほ、本当?可愛いかな?」

「ああ、可愛いよ」

 いつだって、その言葉を緋路は飲み込んだ。

「じゃ、じゃあこれ買おうかな……」

 私はその靴店の紙袋を持って店を出た。でも履いているのは黒い革靴ではなく、空色のハイヒールだ。私は嬉しくて、何度も彼に聞きたくなってしまう。

「ねえ、私可愛いかな?」

「はいはい、可愛いよ」

 呆れながらも答えてくれる緋路が私はどうしようもなく好きだった。


 夜になってコンサート会場へ着く。今日のメインはチャイコフスキーのワルツだ。でもそんなことよりも、私は足が気がかりで仕方なかった。痛い。覚悟はしていたけど、慣れないピンヒールはとっても痛い。足の先からかかとまで全部痛くて、血が出ていないか心配だ。この靴は汚したくない。

 演奏が始まる。優雅なワルツに激しい連符。すごい、この感動をどうやって文字に表そう。

 演奏中は忘れていた。足の痛みも。でも終演した今、私はまた痛みに耐えながら家まで帰らなければならない。

「演奏、凄かったな。迫力が違え。この激情を俺ならどうやって表すか……」

 緋路の声もあんまり耳に入らない。歩くのに精一杯でそれどころではないのだ。

「どうした?文世が終演後に静かなのなんて珍しい。いつもならメモと感想で忙しいだろ?」

「う、ううん、なんでもないよ」

 へらり、と笑って誤魔化す。彼に心配はかけたくない。

「……どうかしたのか?」

「なんでもないよ、大丈夫」

 本当は全然大丈夫じゃない。もう歩けないほど足が痛い。

「……」

 緋路はそれきり黙ると、私の姿をじっと見た。

「……足、痛いんじゃないのか」

「えっ」

「慣れない靴は擦れると痛いからな、違うか?」

「……違わない、です」

「ったく、早く言えよな」

 そう言うと緋路は近くの石段に私を座らせ、靴を脱がせた。

「うわ、めちゃくちゃ皮むけてんじゃん。こりゃ痛いわ」

 そう言って、持っていた紙袋から元の革靴を取り出すと私に履かせた。……なんだかシンデレラみたい。

「これで少しはマシになるだろ。無理そうだったら言えよ、運ぶから」

「うん……ごめんね。私のワガママで」

「気にすんなよ、これくらいで」

「……もっと可愛くなろうと思ったの。緋路に見合うくらいの」

「はあ?何言ってんだよ。……充分過ぎるくらいに可愛いだろ、いつだって」

「……!」

「さ、帰るぞ」

「うん!」

 私は彼の手を取った。そして同じ家路を辿る。同じ家に帰るために。

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