169話 トラウマ
パシン。パシン。
そんな音が暗い倉庫に響き渡っていた。
「も、もう……」
「は?」
それからドンッと腹を蹴る音がした。
年齢が三歳にも満たない幼女はもちろん耐えられることなく吹き飛んだ。
それでも幼女は涙一つ零さない。
零したらそれ以上に酷くなることを知ってるから。
「俺は言ったよな。外で正座してろって」
「で、でも……」
「でもじゃねぇんだよ!」
また蹴りが入る。
一切の加減がない大人の蹴りだ。
幼女は痛みに何度も顔を歪め吐血する。
「なぁ海。あんまり歯向かうなよ」
そして男はギロりとしたナイフを手に持った。
幼女はガタガタと歯を鳴らすが何も変わらない。
ナイフは一切の容赦なく幼女の口の中に挿入されて傷だらけにしていった。
◆ ◆
悪い夢を見た。
最近はあの時の記憶がよくフラッシュバックする。
傷こそは消えたものの心に住み着いた恐怖は未だに私を蝕んでいる。
「……よく私って生きていられましたね」
本当に気分が悪い。
恐らく私からこの記憶が消えることはない。
でも私は消せたとしても消すつもりもない。
これは忌々しい記憶であるが私。
すなわち神崎海の存在を肯定するものでもある。
私自身を否定するのは私を私が許さない。
記憶を消すというのは自分自身を否定するのに等しき下劣で弱者の行う行為だ。
私は人の始祖である神崎家であり強者だ。
弱者になってはならない。
「……海お姉ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ルプス」
私はルプスを力強く抱く。
彼女の暖かさが少しだけ恐怖を和らげる。
「海。朝ごはん出来たぞ」
「今降りますね」
そしてお兄様が私を迎えに来る。
今日は真央の気まぐれで学校は休み。
私は心配かけまいと明るい声で返事した。
でも、こんなにも体が震えてるのは何故だろう。
階段を降りると大好きな人達がいる。
桃花にお兄様に白愛。
それなのに何故かまだ時々怖くなる。
またああなるのではないかと……
「海ちゃん。顔色悪いけど大丈夫?」
「顔色悪いのは当たり前です。こんな朝からイチャイチャを見せつけられて悪くならないわけがないではありませんか?」
私は軽く冗談を言う。
怖い。怖い。怖い。怖い。
もう嫌だ。嫌だ。嫌だ。
あんなのは嫌。
傷つきたくない。
痛みを感じたくない。
「またそういうこと言って!」
「事実ではありませんか」
なんでなんでなんで。
どうしてまだ縛られなきゃダメなの?
いい加減助けてよ。
私を解放してよ。
「ていうか海ちゃん。顔色悪いけど大丈夫?」
「顔色悪いですか?」
「うん。真っ青だよ」
記憶のフラッシュバックが夢で起こるようになったのは大体三日前くらいだ。
最初はまだぼんやりとしていた映像だった。
それでも私に恐怖を思い出させるには十分であった。
しかし最近はより鮮明に的確になっている。
そのため今まで以上に怖い……
「そう言えば桃花。ここの近所で拷問されて殺されたと思われる死体が多発してるんだがお前がやってるか?」
「違うよ! 私はしっかり海に捨ててバレないようにしてるもん!」
ビクリと体が反応する。
海は海でも青色の大きい方で私の事じゃないのは分かってるのに……
「そうか。本当に最近は物騒だな。ちなみに犯人の手掛かりはなく巷では“幽霊の拷問師”と呼ばれてるそうだ」
「なるほどね。注意しないと」
「ていうかお前なら返り討ちに出来るだろ」
「まぁね」
そしてお兄様が机の上に新聞記事を置いた。
逆さ向きで読みにくいが軽く目を通していく。
死体は今までに見つかったのは二件。
惨殺死体なのは当然ながら趣味の悪い事に一件目の死体は大量の人爪で神と書かれていたという内容もある。
また二件目は血で海……
あれ、もしかして死体メッセージを……
「……空君。ちょっと記事貸して」
「どうした?」
「……ねぇ。この死体の写真って見れるかな?」
「真央に頼めばいけるだろう」
「もしかしたら私達に関係あるかも。それも特に海ちゃん関係……」
まさか……
いや、そんなはずは。
「さすがに考えすぎだと思うけど血溜まりは“海”を表してて神は“神崎”という意味。だとしたら犯人の狙いは……」
怖い。怖いよ。
どうして私ばかり……
「海。何かあったら真央が駆けつけると思うが念の為に俺か桃花から離れるなよ」
「……はい」
「海ちゃん。こんなふざけた事をする犯人なんて私が殺してあげるから安心して」
「……ありがとうございます」
少しだけ震えが収まった。
桃花ならきっと……
「空様」
「白愛か。どうした?」
「私が暗殺姫時代に一度だけ任務に失敗したと言ったのを覚えてますか?」
「忘れた」
そう言えば白愛は前に言ってたな。
“私はたったの一度の失敗しかありません”と。
それはつまり一度は失敗したということだ。
「そうですか。それで失敗したのが海様の虐待をしたクズ共の始末なんですよ。その際に一人だけ取り逃してしまったので……」
「お前は何してるんだよ……」
……え?
なにそれ……
まだアイツらが生きてるって事……
「それで白愛さんは何が言いたいのかな?」
「……もしかしたら犯人はその取り逃した奴かもしれません」
「それは良かった。大変良かった」
嘘だ……
嫌だよ……
「私。海ちゃんに虐待してた奴らに心の底からムカムカしてたんだよ。生き残りがいるならたっぷり拷問が出来るね」
やめて。
もうやめて……
「生まれてきたことを後悔させてあげよ? 海ちゃん。そして過去と決別しよ?」
私が望んだのは平和。
復讐なんて……
「今に溺れるのは簡単だよ。でもそれは盲目的でとっても怠惰なことなんだよ。だから今は過去と向き合って決別して拷問するべき時だよ」
強い。
桃花は強い。
「突然というかいつもの事ながら転移で失礼」
そんな中で真央もやってきた。
周りがどんどん私の陣地に……
私の壁を壊して……
「こちらでも調べたんだ。犯人の名前は剛田紋。海に虐待をしてた人物で間違いない。そして【痛】の使徒。能力は発した言葉が意味するものを具現化する。恐らくこれで“癒し”とか言って海の傷を回復させて何度も甚振ってたんだろうね。本当に反吐が出る」
「場所は割れてるか?」
「もちろんだとも。私の情報網を舐めないでほしいな」
そうだ……
私は何度も傷口を無理矢理再生させられて……
「あと夜桜の再生との比較はやめてもらおう。夜桜のは自動で発動するから即死だろうが死ぬ事はない。しかし剛田のは任意だから即死には反応出来ないし使うまでに一秒くらいのラグがある。まぁ他者を回復出来るのは魅力だが夜桜の方が便利だね」
真央が“まぁ強力な能力である事には変わりないが”と笑って付け加えた。
真央は夜桜にこの能力を奪わせるつもりだろうか……
「海。相手は雑魚だ。今の君なら目を瞑ってでも勝てるだろう。それに何より君の蝶化で作られたバリアを破る手段が剛田にはない。臆することは無いよ」
でも怖い……
あの顔を見るのが怖い。
「実に馬鹿馬鹿しい。君は人の始祖だ。なにをビビると言うんだい? 過去の自分やトラウマなんて全て壊してしまえ」
「なにが分かる! 腸が剥き出しになったこともないお前らになにが分かる!! 知ったような口を聞くな!」
「海。私は魔王だぞ。人に気を遣うわけがないだろ。私は君の為なんて欠片も思っていない。ただいつまでもウジウジ鬱陶しいからさっさと決着をつけろと言っている」
うるさいうるさいうるさいうるさい!
それ以上口を開くな。
「海。これは命令だ。剛田を自分の手で殺せ。逃げることは私が許さない。泣くことも許さない」
「嫌です!」
私は蝶化する。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
この場から離れたい。
窓を破りそのまま天高く飛行。
今は一人に……
「逃がさないよ」
しかし真央の方が一枚上手だ。
真央は私の目の前に転移。
そして私の手首を掴んだ。
バランスを崩しそのまま地面に叩きつけられる。
「……痛いな」
真央がボソリと呟いた。
地面についても彼女は一切の手を緩めない。
「海。戦え」
「無理です!」
「戦え! 君は強い! 戦えるのに戦わないのはこの私が許さない!」
誰一人として私の甘えを許さない。
みんな私に強く当たる……
「……君に泣き顔は似合わない。もう泣かない自分になりなさい」
あぁ……
そうだ……
誰も私を分かってくれない。
「空。少し手を貸してくれ」
「どうした?」
「右足の骨が変な方向に曲がって歩けない。やっぱりあの高さからの落下は人の身体には厳しいよ」
「お前……」
真央はお兄様の肩を借りて椅子に座った。
右足が青紫色に腫れている。
「……海。君が受けた痛みに比べたらこの程度大したことないのは分かる。それでも私は敢えて言おう。過去の自分戦えと」
私のせいだ……
私がウジウジしてたせいで……
「なに。可愛い娘のために足の一本や二本安いものだ。それに剛田に無理矢理でも能力を使わせて治すさ。さて、私の傷を治すために剛田を拉致してくれるか?」
ズルいです。
そんなこと言われたら戦うしかないじゃないですか。
でも怖い……
「海ちゃん。大丈夫。私も空君も付いてるから」
「……そうですよね」
勇気を振り絞れ。
ここで逃げるな。
今こそ自分を変えろ。
弱い自分を乗り越えろ。
「……海お姉ちゃん」
ルプスが上目遣いで私を心配してくれる。
少しだけ落ち着いてきた。
「すまない。私の体は普通の女の子なんだ。それこそ車に跳ねられただけで致命傷になるくらいにはね」
真央が足を組もうとするが思いっきり顔を歪める。
やっぱり骨折してるのが痛むのだろう。
「本当に君達の丈夫な身体が羨ましいよ」
「お前も始祖だろ」
「私は頭脳に全振りしてるからね」
今は過去と向き合う時。
過去を打ち破る。
「それじゃあ転移門を展開する。覚悟が出来たら行ってくれ」
真央の目の前の空間が歪んだ。
やはりいざ立ち会うとなると足の震えが止まらなくなる。
やっぱり怖いよ……
「海」
「……お兄様」
「お前には俺も桃花も付いてる。お前には傷一つ付けさせないからドンと構えとけ」
お兄様が真っ直ぐ私の目を見て言う。
私なら大丈夫。
私なら……
「ごめんな。お前が一番苦しい時に寄り添えなくて。そして救えなくてな」
「悪いのは私でお兄様じゃ……」
「海。それは違う。悪いのは剛田だ。君はまったく悪くない」
違う。私が……
私のマナーが悪かったから……
「いや、もっと言うなら神崎陸だな。少なくともこの件に関して言うなら海は完全なる被害者」
そんなわけが無い……
だって私は……
「海ちゃん。いい加減認めなよ。海ちゃんはまったく悪くない。悪いのは全部海ちゃんを虐めた人だよ」
「……そうですね」
いや、自分を責めるな。
そんなんじゃ私の時は止まったままだ。
歩け。歩け。
未来に向かって歩き始めろ。
「海ちゃん。行くよ。罪を精算させに」
覚悟を決めろ。
見栄を張れ。
形から入り中身を変えろ。
「はい!」
そした私は飛んだ。




