冬のぬくもり
箒をもった白人のおじいさんが心底申し訳なさそうに私を見ていたけれど、私が「日本が上手」と発した言葉に喜色を浮かべてにっこりと笑った。
固い花の蕾がお日様で解れ、ふわりと開花したみたいな優しい笑顔だ。
「ボクの日本語が上手って嬉しいな。日本のアニメや漫画が好きでね、それをもっと知りたくて勉強したんだよ! 好きこそ上手の武士と言うしね!」
……うん。すごくいい笑顔だけど、たぶんそれ“好きこそ物の上手なれ”だと思うんだ……。
どうしよう。どや顔しているこのおじいさん、ちょっと、いやいや、かなり可愛いぞ?
新しい道を歩いて、新しい場所で出会った人は、少し残念ですごくチャーミングな人だった。
おじいさんはジョナサンと名乗った。私に箒で掃いた枯葉をかけちゃったお詫びにと、アパートの前に設置された自動販売機で暖かい飲み物を選んでいいよって言ってくれて。
閑静な場所のある2階建てのアパートの外観は古びていて、平成のマンションよりも昭和のアパートのイメージが強い。いや、私は昭和時代を知らないから偏見かもしれないけど。
古き良き時代って感じがするのだ。
でもね?
まあ、アパートの外に自販機があるのは分かるよ。よくあるもん。
でも自動販売機のラインナップにオデンがあるのは変じゃないかな。あと、温かい・冷たいと一緒に“常温”があるのも解せない。
「僕のオススメはオデンだよ!」と力説してくれたけど、うん、ごめんなさい。普通のミルクティーでお願いします……興味はあったけど!
あったけど!
オデンは飲み物じゃないからと断ると、ひどく心外な顔になってアパートの住人に「オデンは飲み物」と一回で三缶くらい買ってつるつる飲み込むように食べる人がいるそうだ。
なにそれ、怖い。
招かれたアパートの敷地は意外にも広く、裏手に回れば広い敷地の片側は駐車場を兼ねていて、五台分の駐車スペースがある。そのうち一台だけが駐車スペースに停まっていて、これはジョナサンが乗るような車じゃないなと感じた。車種には詳しくないけど、オフロードで走ってそうな若者向けの車だ。
駐車スペースの反対側には一本の大きな木と、なぜか、そう、なぜか真新しい小さなサンルームがあるのが謎だった。
いや、サンルームを作るなら外観をどうにかしようよ……外装をリフォームするとか。
必要なの? サンルーム、必要なの??
ジョナサンが外は寒いからこちらにおいでってサンルームの方に私を手招く。中にはファンヒーター小さなテーブルセットがあって、ますますおんぼろの外装とミスマッチだ。
ここのオーナーのセンスがよく分からないよ。
「大丈夫だよ、お嬢さん。外からはちゃんと見えるからね」
顔の皺をいっそう深くして笑うジョナサン。――そこで気が付いた。
そうか。ジョナサンは密室で二人っきりにならないように配慮してくれたのだ。アパートの自室に誘うのは女の子である私に差し障りがあるとサンルームに案内してくれたのだろう。
サンルームも密室と言えば密室だけど、外から中が見えるだけ安心感がある。
初めて入ったサンルームはファンヒーターのせいか、太陽光のおかげか、外と違ってとても暖かい。
「外でこうやってお茶を飲むのが好きなんだけどね。寒いから普段はここでのんびりとしているんだよ。お嬢さんもそっちに座ったらどうだい?」
掌の中のミルクティー缶が温かい。太陽光も、サンルームの中も。
でも、一番暖かいのは、ジョナサンの笑顔と声だよ。
「あ、有海。です――私の名前……」
「アミ? とても素敵な名前だね、アミ」
優しい声で名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう?
ジョナサンは仕事をリタイアして、大好きなアニメを作る日本に憧れて長期滞在中なんだって。
正直、いくらアニメが好きだからと言って、日本に来て住んじゃうパワーがすごい。それを言うと、薄い胸を張って“後悔したくないからね。時間は有限。なら限られた時間を有益でハッピーに過ごさないとね”と笑うジョナサンに私は胸が塞がれる思いがする。
時間は有限。
ふいに去来する、伯母に引き取られたからの十年近く。
私の時間は、このまま伯母たちに搾取されて消費されるだけなのか。
私にハッピーなんて言葉がやってくる日があるのだろうか。
今まではそんな事は感じなかった。そんなことを思いもしなかった。そんな伯母一家から受ける扱いに、最小限の被害で済まそうとばかり考えて、大事な思考を止められていた気がする。
頑張って、頑張って、頑張って、いつか、きっと、なんとか。
そう心を奮い立たせては折られる日々。
「……アミ? どうしたの?」
顔を歪めた私にジョナサンが優しく問いかける。氷に熱湯をかければ、あっという間に水になって流れちゃうけれど、ゆっくり風を送れば次第に溶けて小さくなるように、私の心が解れるまでジョナサンは辛抱強く待ってくれている、
優しい淡い青い瞳。
この冬の空を切り取ったみたいな、澄んだ瞳に。
「……わ、私ね……」
「うん。アミ? なにか辛いことがあるなら話してみないかい? ボクは初めて会った他人だもの。今ここでアミが何を言っても誰も咎めはしないよ?」
「……わたし、わたし……」
出会って数十分も経ってない人に言うことじゃない。頭の中で冷静に窘める声が聞こえる。こんな恥ずかしい出来事を人に話してもいいものなの?
「……ねえ、アミ? 日本人は我慢強いよね。規律にこだわるし、他人に迷惑をかけようとしない恥の文化も素晴らしい国民性だと思うよ。でも日本人は大声で泣かないよね? 泣きたいときに泣かないのはよくないんだ。君が大人ならともかく、君はまだ子供なんだからね?」
子供。
ああ、そうか。
私は子供だった。
16歳を厳密に子供と言えるかどうかはともかく、何一つ自分の力で得ることができず、泣きたいときにも泣けない未成熟な子供。
「わ、たし……」
冷たい風が遮られたサンルームで、優しい声を瞳のぬくもりを感じながら、私は泣いた。
地団駄を踏んで泣きじゃくる頑是ない子供みたいに、久しぶりに大声で泣いてしまったのだ。