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没落の貴公子  作者: 南清璽
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二人だけの仮面舞踏会

「これで失礼致します。」

「悪いな。無給で働かして。」

「とんでもございません。これまでの数々の御恩を思うとこれしきのこと。ただ、猟銃に弾がこめられていましたが。」

「明朝早くに猟に行くつもりだ、」

「さようでございましたか。」

あいつだけだった。こんな具合に忠義を尽くしてくれたのは。この家の使用人は昨日付けで全員解雇した。それなのに執事の中崎だけは今宵催した宴を手伝ってくれた。あれほど給金は出ないぞと云ったのにもかかわらず。もっとも宴といってもささやかなもので、さほど労を煩わすものでもなかった。ただその洗練された心配りがあるとないとではその趣きは全然違っていただろう。流石だ。しかも猟銃の手入れまでしてくれるとは。俺は書き終えた遺書を机の引出しにしまい、再び階下の広間に戻ろうとした。だが、感傷が不意に滲み出てきた。この書斎の書架に並ぶ蔵書の数々を眺め、兄貴は相当な蒐集家だと改めて思うのだった。もちろん、そんな兄貴を尊敬してはいたが、二言目にはお前は父が芸者に生ませた子だと蔑まれたのも事実だ。

でも当然だ。何せ俺は父から兄貴の母親を奪った女の産んだ子だからな。どんなになつこうとしても距離を置かれた。だが、俺の母は賢明にもそんな兄貴に慕うようにと云ってくれた。もっともそれに尽きる訳ではなかった。当の俺もいつかは通じあえるのではと心持ちとして幾分かは感傷的なものを懐いていた。だが、単に青臭いままに終わらなかった。兄貴が癆咳を患い余命幾ばくもないというときだった。俺は病院に毎日見舞ったものだ。兄貴は「ありがとう」と云ってくれた。それなのに俺は兄貴の手を握りしめ目に涙をためるのが精一杯だった。

これはある意味俺には似つかわしくない感傷だった。そうがらにもないことだ。そんな具合に耽けている折だった。

「お父様どう?」

俺はその瞬間見入ってしまった。黄金のベネチアンマスク。縁りに施された唐草模様の細工のためか不気味にあって気品をたたえていた。

「先ほどはどちらにいらしたの?せっかくウィーンで勉強したオペレッタのアリアを披露致したのに。こんな風に仮面をつけた女中がご主人様の前で唄うっていう。…」

今宵の宴は無事に本邦に戻ったことを祝おうと催したのだ。しかしもうお父様でなかった。妻と離縁した際、頼子いやこの令嬢との養子縁組も同様にしたのだが。妻は再婚だった。まだ幼い女の子を連れて嫁いでくれた。もちろん、父も兄もいい顔はしなかったが、赫ら様に憮然とした様相も示さなかった。何分兄は男色だった故か、幾分かは比較のうえとはいえそれなりの安堵を父は感じていたのかもしれない。兄は帝国大学にいく秀才だったがやはり同性愛者だっただけにその点父から疎まれていたのは確かだった。その所以で俺の方が家督を相続する結果となった。以来俺は利殖生活者となり、兄には食客として父の残したこの別荘に居てもらった。

「お父様、踊りません?」

頼子はそう云うと、階下の広間へと足早に階段を降りていった。身に纏った赤いドレス。プリンセスライン故か階段を降りる最中ずっと躍動していた。その広間ではすでに宴は終わっていたから俺と頼子だけになっていた。その音曲は彼女自ら旋律を口ずさむものだった。シュトラウス二世の円舞曲だろうか。俺は一緒に踊りながら、その艷やかさに圧倒されていた。やはり肌のキメが細かいからか。唇の瑞々しさを際立たせていた。もう男を知っているのか。不埒にも想いはそんな処へ及んでいた。ありえない。だが、彼女に欲情を懐いているのは確かだ。しなやかに身をくねらして見せる美しくある体の線はまさに異性そのものだ。

「悪い。疲れた。」

踊るのをやめ、グラスにシャンパーニュを注いだ。

「私も」

「大丈夫か。大分酔っているみたいだが。」

「大丈夫ですわ」

だが思いのとおり彼女は酔いくずれた。俺は子供の時分にしたように彼女を抱き上げベッドへと向かった。そう、色香を感じながらも。そうして彼女を寝かしつけるとふたたび書斎に戻り気持ちを落ち着かせることにした。この動揺したまま彼女に銃を向け、急所を外したら彼女に苦しい想いをさせてしまうからだ。もちろん疑念がない訳ではなかった。何分彼女を俺の自死の道連れにする必然はなかったからだ。ただ身勝手な想いからそうするに過ぎない。やはり現世では苛まれるだけだからな。親子であった時分は娘として愛おしく思えばよかった。そうすることで紛らわしていた。だが離縁し、他人となった今、彼女に対する欲情が歪となり、厭世感へと展開していった。おおよそ現世では契ることなどできないのだ。そういった即物的な考えに至ることが許せなかった。いや実態としてその美しさ故に来世へ連れ立つという考えからだった。いつまでも逡巡していても切りがない。俺は猟銃棚から銃を取り出し、それを彼女に向けた。

しかし、引鉄を引いたものの弾は発射されなかった。確かに込めたはずなのに。棚の引き出しには銃弾があるはずだ。俺はもう一度棚に向かった。

「中崎!」

「止めませんか、こんなこと。」

「お前が弾を拔いたのか。」

「さようでございます。さきほどのものが遺書だと気付きました。でもお嬢様に対しては殺人じゃございませんか。そんなことしてもらいたくありません。この恐慌が災いしたのでしょうか、どうかお考え直し下さい。」

俺は中崎のその言葉で幾ばくか冷静さを取り戻した。お蔭で殺人も自死も思い留まった。俺は株式全て売却し負債の全てを清算した。何とかこの屋敷だけは残せたが、頼子への罪滅ぼしにと中崎の勧めで彼女に贈与した。

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