7
左目の下あたりを、指のようなものが触れた。
と思ったら、たった一瞬だけで、かすかな体温はうららから離れていく。
「ほら。うららさん。目を開けてください」
言われた通りにしたうららの視界に入ったのは、出島の指の腹の上にある一本のまつげだった。
そして、そのまつげが乗っている指が、長くて細くて、でも細すぎなくて、関節が良い具合にごつごつしていて、端的に言えばうららの好みだった。
無理矢理、その指から意識をずらすと、
「それ、私のまつげですか?」
「はい。ほっぺたについていました。
鏡なしでは取りにくいかなあと思って、僭越ながら、僕がお取りしました。
さ、うららさん」
「?」
ずい、と出島がその指、もといまつげをうららに近づけてくる。
意図がわからずに眉根を寄せると、出島が説明してくれた。
「まつげが抜けるとね、こうやって指の腹の上に乗っけるんです。
それで、願い事をしてから、息を吹きかけるんですよ。
まつげが飛べば、願い事は叶う。まつげが飛ばなければ、願い事は叶わない。
ちょっとしたおまじないです。
ささ、うららさん。願い事を、どうぞ」
「でも、私、願い事とかないし……」
「じゃあ、僕が代わりにやっても良いですか?」
「別にいいですよ」
「ありがとうございます!」
おまじないも、占いも、おみくじも、苦手だ。
もともと未来は不確定だから未来なのに、どうして自分の未来を紙切れ一枚だったり、不特定多数の人間に書かれた文章だったり、まつげ一本で決められなくてはいけないんだろう?
無邪気な笑みを浮かべて、出島が目を閉じる。
ずいぶんと長い間その状態で固まっていたかと思えば、やおら、ものすごい勢いで息を吸い、そのままの勢いで突風のような息を吐いた。
当たり前のことだが、指の腹にちょこんと乗っていただけの脆弱なまつげは、急に襲ってきたハリケーンのような出島の息に勝てるわけもなく、すぐに視界から消え去る。
「やったー! これで、僕の願い事は叶いますね!
しかも、うららさんのまつげだから、叶う率もアップですね」
「適当すぎるでしょ、それ。
私のまつげとか、関係ないですよ」
「関係ありますよ!
だって、僕の願い事は、うららさんが僕のことを好きになってくれますように、だったんですから」
「たったそれだけに、ずいぶん長い間願ってましたね、出島さん」
「可能な限りの念を込めて、可能な限りの回数を脳内で唱え続けました」
「キモいキモい。
それより、出島さん」
「はい、なんでしょう?」
「知ってました?
願い事って、その内容を他人に話すと、御利益なくなるらしいですよ」
「えええええええええええええええええええええええええええ!」
うららの友人が話していたのを思い出したから言ってみただけだったのに、出島は想像をはるかに超えたリアクションでそれを受け止めてくれた。
片手で頭を、もう片方で顔面の半分を覆うと、ギリシャ彫刻のような体勢で固まる。
してやったりだ。
うららが笑い声をあげると、彫刻が喋った。
「やっと笑ってくださいましたね」
「え?」
「うららさんが笑ってくださるのなら、今の願い事、ちゃらになっても惜しくはありません」
ほんの少しだけ緑がかった瞳が、うららを見ている。
それはどこまでも澄んでいて、その言葉にも嘘はないように思えた。
笑顔のままでいたうららに、出島が微笑みかける。
「うららさんは、何をされていても可愛いですが、笑うと特に素敵ですね」
パクパク、と笑顔のままの口を開けたり閉じたりして、何か言い返してやらなければとうららは思うのに、何も言葉が浮かんでこない。
いや、正確には、脳内をあるフレーズが支配してしまっているからだった。
な ん だ い ま の は !
なんだ、なんなんだ、あの笑顔! セリフ! 仕草!
反則だろう、反則に決まっている!
可愛い。
もふもふしたひよこと子羊が大量に押し寄せてきて、もふもふの中にまみれて幸せなんだか苦しいんだか、という状況と同じくらいに可愛い。
とりあえず、口を閉じて真一文字に引き締めることには成功した。
そのまま、さも今の出島の笑顔にも言葉にも心動かされていませんよという風に真顔に戻そうと、うららは懸命に努力する。なのに。
「ずうっとそんな顔が見られたら、僕、幸せだろうなあ。
ね、うららさん?」
コンデンスクリームとホイップクリームにキャラメルをかけたような甘いことを言うと、あろうことか、出島はその顔を硬直したままのうららの肩の上に乗っけた。
そして、切ないため息を漏らす。
制服のシャツは胸元が深く開いているわけではないが、Vネックに開いたその箇所めがけて、吐息が肌を撫でるのを感じた。
まつ毛が抜けるときに願い事をするというのは、イギリス人から教わりました。ヨーロッパ各地でそうなのか、英語圏のものなのか、全世界共通なのか、定かではありません。ご存知の方いらっしゃれば、ぜひご一報ください♪