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既知のことではあるが、うららが少しくらいばたついたところで、出島の腕はびくともしない。
それでもなんとか両手を自由にできないだろうかとあがいてみた。
結果は徒労に終わり、その間、出島は悪魔的な微笑でこちらを見つめている。
すでに巣にかかった獲物を食らうのに、急ぐ必要はないというわけか。
「でじまさ……」
「なんてね」
ぱっと手が離される。
出島の手はいつも湿っているが、それよりも、彼はうららよりも平熱が高いのか、近づくと熱を感じる。
自由になった手首は、偶然手に入れた産物を喜ぶと同時に、なくなった温もりを寂しくも思っているようだった。
「え?」
出島といると語彙が少なくなる。
馬鹿のひとつ覚えみたいにそれしか言えない自分を不甲斐なく思いながら、うららは眉根を寄せてそう呟いた。
うららとの距離はそのままに、外した両手を開いて顔の両サイドに持ってくる。
花が咲いたみたいに。
もしくは、逮捕される直前の犯人のように。
「冗談です。驚かれましたか?」
「なっ! お、驚くに決まってます!」
「ですよね。ごめんなさい」
ぺこりと首を下げ、ついでに両手で作った手のひらの花も手首を倒して下げる。
三つ並んだひまわりが揃って首を垂れているように見えて、うららはくすりと口元を綻ばせた。
「良かった」
「なにがですか?」
「笑ってくださいましたね、やっと」
「そんなにいつもムスッとしてますか、私?」
「いえ。でも今日は、ずっと緊張されていたので」
そうかもしれない。
と湖を覗くようにして自身の内面を見て、うららは思った。
「うららさん。うららさんが僕の洽雫だということ、僕からお伝えできなくて本当に申し訳ありませんでした。
僕からお話しなくては、と思っていたのですが、うららさんにお知らせするタイミングを計り損ねてしまって。
あんな最悪な形でその情報が伝わってしまったこと、本当に悪いと思っています。ごめんなさい」
粛々と頭を下げる出島は、謝罪の言葉を口にしたきり顔をあげようとしない。
うららからのアクションを待たれているのだと気付いて、出島の肩におずおずと手をかけた。
「もう、いいですよ」
「本当ですか?」
頭を下げたまま、瞳だけをうららに向けると、実際の身長差ではなかなか実現しない出島からの上目遣いの視線をもろに受ける羽目になった。
澄んだ瞳の美しさはもちろんだが、少しかがんでいるせいでシャツの胸元から素肌が覗き見える。
同年代の男子では到底醸し出せない色香に、頭がくらくらした。
シャツの下には下着的なものを着るんじゃなかったのか。
背広を着ている学校の教師はいつも、シャツの下に半袖のTシャツのようなものを着ているのに。
オイルの足りていないロボット関節のような首をぎしぎしと動かして、うららはわざとらしく出島の視線から逃げる。
「本当です。なので、顔を上げてください」
「はい!」
忠犬ハチ公が喋ったらこんな声かもしれない。
さきほどまで散々ひとに意地悪を言っていたとは思えないほど、真摯で誠実な返事をして出島が破顔した。
ただし、顔を上げる直前に、肩に置かれたうららの手首の内側に唇をつけたが。
「なにしてるんですか!」
「なにって。
許してくださってありがとうございます、うららさん大好きですのキスです」
「だから、そういうのは」
「恋人とじゃないとしないんですよね?
でもそれって、うららさんの理屈ですよね?
僕の理屈では、恋人になりたいひととだったら、もっともっと触っていたいし触れてみたいです。
唇にキスするのがダメなら、そこ以外でも僕は構いません。
もとより、うららさんに触れるんだったら、どこでも大歓迎ですし、触ってもらうのも大歓迎です!」
「そ、それもダメです!
あと触りませんからねっ」
「えー。うららさんのケチー」
「ケチとかそういう問題じゃありません!」
「ま、いいですけどね。
そうやって赤面したり動揺したりしてくださるってことは、僕のキスに反応してくださってのことですから。
無視されたりするより、全然マシです」
「出島さんって、ふてぶてしいですよね」
「そうですね、根性があるとか肝が据わっているとかはよく言われます」
出島の涼しげな顔が悔しくて睨んでみるけれど、蚊ほどの攻撃も与えられていない。
「あの」
「なんでしょう?」
「私がそれを言うのかって話なんですけど。
その。
で、出島さんは本当に、私と、こ、こい」
「はい、僕はうららさんと恋人同士になりたいと思っていますよ?」
「そ、そうですか。
でも、その、えっと、恋人同士になるには、お互いが好意を持っていないといけないですよね」
「そう、ですねえ。それが理想形だとは思います。
ですが、現実的に考えて、お互いが同じくらいの好意を持っている地点から始まる関係、というのはなかなかにレアだと思いますが」
「そうなんですか?」
「意外ですか?
皆さんがうららさんみたく純粋で生真面目ではないですからね。
たとえば、寂しいから恋人が欲しい。
だったら、寂しさを埋めてくれるひとが現れたら、そのひとと恋人同士になるかもしれません。
でもそれって、純粋な好意でしょうか?」
「違うと思います」
「ふふ。うららさんならそうおっしゃると思っていました。
でもね。
そうやって寂しいのが嫌だからと一緒にい始めて、相手の良いところがたくさん見えてきて、気付いたら相手のことをすごく大事に思っていた。
さて、この場合は?
好意になるのでしょうか?」
「……なる、と思います」
「ね? ひとの気持ちなんて、それくらい移り変わりが早いものなんです。
僕の好意が揺らぐかも、とか、そういう話ではなくて。
うららさんは、ちょっと真面目に考えすぎですね。
大好きから出発しなくてもいい。
嫌いじゃない、は大いにスターティングポイントとして及第点な感情です。
って、これ以上言うと、またうららさんを困らせちゃうから、この辺でやめておきますけど」
もう一度、今度は少し名残惜しそうに、出島がうららの手首に唇を押し付けた。
触れられたそこが、まるで火傷でもしたみたいに熱を持つ。
与えられた違和感はすぐには消えず、余韻と呼ぶほど好ましくないその刺激を、うららは心穏やかでない気持ちで受け止める。
「うららさんは、ご自分が対薫だなんだってことはあまり考えないでください。
それが、僕がうららさんを好きになった理由ではないですから。
NKCの者がうららさんに近づくことも、極力、僕が阻止します。
うららさんは、いままで通り、ご自分の生活を一番に優先してください」
「あ、ありがとうございます……」
意外だったと言えば、出島に失礼かもしれない。
でも、うららが一番気にしていた問題にまで配慮を見せられれば、素直に感謝の気持ちが湧いてくる。
「どういたしまして」
言いながら、こつんと出島が額と額を合わせてきた。
吐息が鼻にかかってくすぐったい。
心臓がドキドキと音を大きくするのは、出島には聞こえているのだろうか。
息をひそめて、眼前にある出島の長い睫毛を見つめた。
「うん。熱は下がったみたいです。
ご気分は、いかがですか?」
「おかげさまで、ちょっとはマシです。
もともと、風邪とかじゃないですし」
「ストレスですよね。
ごめんなさい。本当に、僕の思慮不足でしたね」
またしても叱られた子犬よろしく耳を垂らして殊勝な表情を見せる出島に、またしても心臓が音を立ててときめくが、敢えてその生理反応をうららは無視した。
「もう、いいですってば」
「はい。ありがとうございます」
うららの手を自分の頬に当てて、目を閉じて手のひらにキスをした。
まったく自重する気がないらしい。
毎回抵抗したりするのも馬鹿らしくなって、まあ口にキスされてないだけマシかと思ってしまったうららだが、そうやって慣れてもらおうという出島の魂胆だとは気づかない。
「もうすぐ夕食でしょうか。ちょっと見てきますね」
立ち上がる出島の背中が、部屋の扉の前まで行ってようやく、うららは決意を固めた。
「出島さん」
その見た目よりもずっと男らしく広い背中に声をかけると、出島が振り向く。
そこでふと思った。
そういえば、出島はうららと話すとき、体ごとこちらに向いてくれる。
首だけで振り返ったり、目線だけでうららの話を聞くことが極端に少ない。
今回も、首から振り返ったが、片手を扉のノブにかけて体ごとうららに向き直った。
「あの、えっと、その。
さっきの、質問、なんですけど」
「はい」
つっかえつっかえしながら言えば、すぐに顔が赤くなってしまう。
出島はそんなうららの姿を茶化すことなく、物柔らかな微笑をたたえて待った。
息を大きく吸って、吐き出す。
それを数回繰り返して、うららは決断したはずなのにもう既に折れかけている自分の心を叱咤しながら、
「き、嫌い、じゃ、ありません、から……」
それだけを絞り出した。
あまりの恥ずかしさに、頭上でピザが焼けそうだ。
布団を引っ張って隠れようとしたら、俊敏な動きでうららの側にやってきていた出島に阻まれる。
「うららさん。ぎゅーってしてもいいですか?」
キラキラと期待に満ちた、幸福色をした瞳で出島が問いかける。
うららはといえば、照れ臭くていたたまれない気持ちで、涙がこぼれそうになるのを我慢しながら、なけなしの強がりをみせた。
「いちいち聞かないでください!」
「それもそうですね」
軽やかな笑い声をあげて、出島が腕を伸ばす。
肩を引き寄せられ、熱がぶり返したのかと思うくらい熱い額を出島の鎖骨に押し付ける羽目になった。
頭を撫でられて、こめかみにキスをされる。
出島の心音が聞こえた。想像していたよりも、ずっと速い。
「ドキドキしてるの、わかりますか?」
「出島さんでも、ドキドキするんですか?」
「どういう意味ですか、それ。
ドキドキしっぱなしですよ、うららさんといると」
なんだ。私と変わらないじゃないか。
そう思うと、どこか安心できた。
振り回されているのは、自分だけじゃない。お互い様だ。
ためらいがちに伸ばした手を、出島の背中に回すと、彼の体が一瞬震えた。
「うららさん」
熱っぽく囁かれる。
「やっぱり、キスしてもいいですか?」
「強欲ですね、出島さん」
「うららさんだったら、骨までしゃぶりたいです」
「……変態」
直接返事をするのは恥ずかしかったから、うららはそっと目を閉じた。




