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出島といると、色々な感情を体験する。
例えば、今。
真顔でこちらを見つめてくる出島の顔をもろに見てしまったために、動悸がする。
サナがお風呂でリップパックやゴマージュに勤しみ、どれだけリップケアが面倒で美しい唇を保つのが難しいかを滔々と説いてくれる中、出島の唇はいつみても満開の桜のような艶やかさだ。
薄くも厚くもないそれは、つるりとしていて尚しっとりとしていて目を引かずにはおれない。
が、それを視界に入れると、必然的にこれまで出島のリクエストで行ってきた汲汪沁を思い出してしまって、更に動悸が激しくなる。
薄暗くなってきた部屋の中、うららから見て右側だけが窓からの光で明るく見える。
違う濃度の光を受けた出島の瞳は、緑の濃淡を変えて、それがとても魅力的にうつってしまう。
和紙のランタンに包まれたロウソクの灯のように、温かみを与える。
幻想的とも言える両眼を見つめるだけで、夢の中で目を覚ましたような気持ちになる。
なんとでもなる。なんでもできる。好きなことなら、なんでも。
そんな気持ちに。
ふわふわと浮ついた気持ちと、ドクドクと脈打つ血液の流れを意識する気持ち。
高揚感と動揺。
そして今は、出島につかまれた手首から伝わってくる温もりが、ぞわぞわと背筋を這う何かを与え、うららから目を離さない、またばきすらしない出島の瞳が、ここから逃げ出したいという思いに駆らせる。
両腕を同時に、逆方向に引っ張られるような。
立ち位置は微動だにせず、動くこともままならないのに、両極端な力でそれぞれの端へと引っ張られるような。
「え?」
カラカラに乾いた喉を必死に潤して、それだけを口にすると、出島は微笑んだ。
「聞こえませんでしたか? じゃあ、もう一度。
うららさんは、僕のこと、好きですか?」
聞こえなかったわけがない。
そんなことは、出島も了承済みのはずだ。
なのにこんな笑顔でそんな質問を二度できるということ自体が、出島の性格がその容姿のように清廉でないことを如実に物語っている。
恥ずかしい。悔しい。腹が立つ。
なのに、ドキドキする。
でも、ドキドキしているなんてことを知られたくない。
借りを作りたくない。なめられたくない。弱みを見せたくない。
「そんなこと、答えられるわけがないじゃないですか」
「どうして? 僕だったら答えられます。
聞いてみてください」
「はあ? なんで私が」
「ほらほら。聞いてみてください」
「もう、そういうの、本当に嫌なんですけど」
「そういうの、って?」
「だから、出島さんが私のことを好きかとか、私がでじ……」
ムキになって言い返して、そこまで言ってしまってから己の失言に気づいた。
嵌められた!
にやりと腹黒い顔で笑ってから、出島はずいとうららに近づいてくる。
「僕は、うららさんのことが大好きです」
「は……。あ、っそ」
「そうやって興味ないフリしながらも顔を赤らめてるうららさんが大好きです」
「フリとかじゃないですから!
本当に興味がないんです!」
「へえ?
じゃあ、もうちょっと僕が近づいても、全然平気ですよね?」
「言いながらすでに近づいてるじゃないですか、出島さん。
来ないでください、この変態エロ河童」
「河童であることは僕ではコントロールすることは叶いませんが、変態になるのもエロくなるのもうららさんの前でだけだとお約束いたします」
「して欲しくありません!
ていうか、そんなことを約束してもらうために言ったんじゃありません!」
「じゃあ、なんのために?」
「だから。だ、だから!
出島さんが、これ以上近づいてきたら」
「近づいてきたら? どうなっちゃうんですか?」
「自分が自分じゃなくなっちゃうかもしれないから、怖いです。
だから、これ以上近づかないでください……」
「ふふ」
動悸はすでに先ほどの倍の速さになって、身体中を巡る血液はF1レーサー並みにコーナーを攻めてくる。
うららに向けて慈愛に満ちた微笑みを出島が投げかける。
すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを愛す。
そんな、まるで菩薩のような。
そしてその顔で、出島は言うのだ。
「うららさん、残念ですが、それではまったくの逆効果です」
表情と一致しない悪魔的な声で言うと、出島はぐいと距離をつめてきた。
もう片方の手首も掴まれて、うららと出島は向かい合って見つめる形になる。
「出島さん、手を離してください」
そうお願いしてみるけれど、もちろん出島がそんなことを聞いてくれるわけがない。
獲物を目の前にした猟犬の瞳をした出島は、追い詰められたウサギであるうららに首を横に振った。
「やです」
「出島さん!」
「あ、じゃあ、こうしましょう? 取引です。
僕は、うららさんに質問に答えていただきたい。うららさんは、僕に手を離して欲しい。
じゃあ、僕の質問にうららさんが正直に答えてくださったら、僕は素直にこの手を離します。
どうです? フェアでしょう?」
「なんですか、それ。
全然フェアじゃないどころか、出島さんにだけ都合の良い取引に聞こえるんですけど」
「そんなことないですよ?
正直に答えてくだされば、僕は手を離すとお約束しているのですから」
「…………」
なにか裏があるように思えて、仕方がない。
うららは目を細め、出島を睨みつけた。
「それで? もし私が正直に答えなかったら?」
「正直にお答えいただけなかったなら、仕様がないですよね」
と、芝居がかった嘆息を一つ吐いて、出島は困り果てたときの人間がするように眉毛を下げて微苦笑した。
しかし、声はそれとは反対に、生き生きと楽しそうである。
「うららさんが答えてくださらないんだったら、このままキスします」
「はあ!?」
あまりの発言内容に、失笑が漏れる。
引きつった笑いをこぼすうららを、しかし出島は純粋そのものの表情で見つめ返している。
やばい。本気だ。
それを悟ったうららは、どうにか手首をふりほどけないだろうかと力を入れるが、出島は、
「こらこら。うららさんたら。
だめですよ。まだ取引も始まっていないのに、そんなズルしちゃ」
などと言いながら、握力を強くするのだ。
「え、ちょ、ちょっと。
出島さん、まさか本気じゃないですよね?」
「僕はいつだって、うららさんに関することなら大真面目ですよ」
「いやでも、おかしくないですか?
だって私、ちょうどさっき、本当に今さっき、恋人でもないひととキスなんてしたくないって言いませんでした?」
「拝聴しておりました。
でも、その後、僕はうららさんに僕の恋人になっていただきたいと申し上げました」
「そ、それは、私も、覚えてますけど」
「それに対する答えは、まだいただいておりません。
だから、うららさんは僕のことをどう感じていらっしゃるのか、正直に答えてくださいと尋ねたのですが、まだその返事もいただいていません」
「そ、それは……。だから……」
「正直にお答えいただければ、それで僕は満足します。
でも、例えば恥ずかしいからとか、なんらかの理由でうららさんが僕に本当の気持ちを伝えてくださらないなら、それはもう、あれですよね?
別のやり方で確かめるしか方法がないですよね?」
「別の方法?」
「だって、うららさん、恋人としかキスしたくないってはっきりおっしゃったじゃないですか。
僕とキスしてくれるなら、それはうららさんも僕のことをまんざらでもないと感じていらっしゃるって証明になるのでは?
これから僕がしようとしているのは、汲汪沁ではなくて、僕個人が、うららさんに対する好意を持って行うキスですから。
それを拒もうと思えば、うららさんにはその権利はあるわけですし」
「私が拒んだら、どうするんですか?」
「それは、キスしてみないとわからないのでなんともお答えできません」
両手首を床に縫い付けられたまま、出島の顔が更に近づいてきた。
「これが最後ですよ?
うららさん。僕のこと、好きですか?」




